揚眉剣出鞘
1.『天安門革命詩抄』とは
『天安門革命詩抄』とは、文化大革命末期、一九七六年四月の清明節(※1)に起こった「第一次天安門事件」の際、民衆が天安門広場に張り出した詩歌を集めた、その記録である。
この年一月八日に逝去した周恩来総理を悼んで、天安門広場の人民英雄紀(記)念碑(※2)前で、人々は周恩来に対して花輪や詩歌を献げた。何故、人民英雄紀念碑前なのかと云えば、周恩来の遺灰は彼の遺言により、祖国の山河に撒かれた。そのため、彼には祀られるべき墓所がなかったのである。しかし、ただ一つあった。それは人民英雄紀念碑である。形もどこか位牌に似た雄碑は、人民革命のために碧血を流した人たちを記念し祀る碑であり、その裏には周恩来によるといわれる揮毫があるためによる。人々は彼を人民英雄と見なし、そのため、ここに悼むために集まってきたのである。
そして、その折り、人民英雄紀念碑前に捧げられた多くの詩詞、辞を採録し、一巻にまとめ、一周忌に出版されたのがこの詩集である。編者は、「童懐周」(※3)となっている。「童」と「同」は、同じ発音(tong2)で、「同懐周」が本来の漢字かもしれない。「ともに周を懐かしむ」義であろう。
ここでは、現代中国人の詩詞として、主に『天安門革命詩抄』をとりあげ、現代詩詞の表現法を見ていきたい。詩集の内容は自由詩(三十七首)、四言詩(九首)、五言詩(四十八首)、六言詩(五首)、七言詩(百六十六首)、詞(百首)、その他(三十七)、付録(六首)となっており、雑誌「詩刊」などとはまた異なった、現代中国の激情が横溢する作品群である。この詩集には多くの形式が載せてあり、本ホームページに相応しいと思い、取り上げた。なお、このページでは、詩論のみとして、国事には触れない。
この第一次天安門事件に関する詩集は、全部で五冊ある。(99年夏、天津・周恩来記念館で見た限りでは。)そのうち、わたしは『天安門革命詩抄』『天安門詩抄』『天安門詩文集』の三冊を持っており、北京大学図書館には前記の『天安門詩抄』の外に二種類の『革命詩抄』があった。これで五種類を全部見ることが出来たわけである。これらの内容を比べてみると、それぞれは完全に同じではないが、当然の事ながら採録されている詩歌が重複している場合がある。また、表紙などのデザインが似通っているものもある。編者の「童懐周」も果たして同一人物(集団)なのか、或いは、それぞれ異なる編者集団が、周恩来総理を懐かしく思うという共通点から、共に「童懐周」と名乗ったのか、詩集の前文を比較して読んでいくと楽しい。
本ホームページの底本は、更に一年後、周総理の二周忌に香港で出版された中国版の増訂再版本の影印版である。なお、『天安門革命詩抄』をベースにして、他の詩集・ドキュメントからも相応しいものを適宜採用することにしている。また、この第一次天安門事件の発端は、南京での市民の行動であるため、南京で掲げられた詩詞の状況を伝える書(『千秋功過』李済:光明日報出版社や『天安門悲歌』師東兵:内蒙古文化出版社、等)からも採用する。
中国の友人は、自身が昔中国で見た詩集の表紙の色について思い起こし、感慨を述べていた。わたしは、この夏(九九年夏)、天津・周恩来紀念館から程遠くない古本屋でも、また上記の本の一部を手に入れた。七八年或いは七九年に出版されて以降、すでに絶版になること久しく、街の隅の古本屋でしか見つからなかった。あれから時間は、どれほど流れたことか。
2.天安門事件とは
この年(七六年)の四月四日の清明節の翌日、五日に起こった事件を天安門事件とよぶ。もっとも、一九八九年の六月四日に天安門で起こった事件も天安門事件(“六・四”運動)とよんでいるので、両者を区別するため、周恩来追悼花輪詩詞事件を第一次天安門事件(“四・五”運動)ともいう。
第一次天安門事件は、一九七六年一月八日の周恩来総理の逝去が発端となった。彼は、国務院総理として、常に調整に当たり、実務家として活躍してきた。しかし、その文化大革命中の政治状況では、中華人民共和国建国の功臣としての十分な追悼をしてもらえず、逆に後継者問題・権力闘争のため、いわゆる「四人幇」(※4)から『文匯報』等で批判され続けた。そのため、そんな彼を悼む気持ちと人民の正義感から、二月初旬より各地で「四人幇」に対する批判行動が頻繁に起こった。その締めくくりが、天安門事件である。(この経過は、『葉剣英在1976』(範碩:中共中央党学校出版社)に詳しい。『千秋功過』には、中国各地の状況、南京事件、北京・天安門事件に分けて、時系列に則って詳しく整理されている。)
中国各地での反「四人幇」気運は盛り上がり、それに対して各メディアは、批判的な立場を採っていた。とりわけ四人幇の影響下にあった『文匯報』は、三月二十五日号では、「走資派還在走,我們就要和他闘」(※5)と題する文章の中で、「党内那箇走資派要把被打倒的至今不肯改悔的走資派扶上台」(※6)(『文化大革命簡史』中共党出版社)(『天安門革命詩抄』の注記では「党内那箇走資派要把被打倒的至今不肯悔改的走資派扶上台」となっている。)と、周恩来、小平を批判する語句が出、これがため、抗議電話は1000回を越え、抗議の手紙と電報は420通を越えたという(『文化大革命簡史』)。ついに三月二十九日には、南京大学の学生を始めとするデモ隊が市中を行進し、やがて南京駅へ行き、通過する列車に文匯報批判と周恩来擁護の大スローガンをペンキなどで書き、これで一層運動を全国へ広めていった。(『千秋功過』『文化大革命十年史』)
北京では、三月十九日に北京市朝陽区牛坊小学校の紅小兵(※7)が、天安門広場の人民英雄紀念碑前に花輪とその上に書かれた挽聯「周伯伯永遠活在我們心中」(※8)(『天安門悲歌』)を献じたことをきっかけに、その日以降、四月四日の清明節までに、人民英雄紀念碑前に人々は、自然発生的に集まり、周恩来追悼の花輪や詩詞を献じたりした。これに対して、当局側が反革命的な動きがあるとして、花輪を取り去ったり、四月四日の清明節を出勤日に変えたりしたが、翌五日、毛沢東に報告された文書では、「午前五時(実際は午前一時)、民兵50000名と3000名の公安人員が動員され、その包囲の下、整理・整頓が始まった。花輪を取り除き、100余名が捕まえられ、集中審査されることとなった。」と。しかし、早朝、広範な人民大衆は、封鎖を突き破り、天安門広場に陸続として集まり、そこで花輪が持ち去られ、人々が捕まった事を知った。憤った人々は、「花輪を返せ」「仲間を返せ」と叫びながら、「聯合指揮部」を取り囲み、やがて焼き討ちをし、焼き払った。また、指揮部の数台の車も壊された。やがて、夜の九時三十分、10000名の民兵と3000名の警察、そして5箇大隊約2500名の軍隊(北京衛戍部隊)が出動し、棍棒と皮ベルトで、制圧が始まった。こと終わり、深夜、動員された百名以上の警察官は、横一列に並び、北から南へ向かって、血の跡を擦っていった………(『葉剣英在1976』)。(他にも『千秋功過』『天安門悲歌』『文化大革命簡史』『文化大革命十年史』『江青伝』葉永烈:作家出版社 等)
人民の蹶起について考えられることは、今回の事件の原動力は、単に周恩来に対する追悼の念だけではないことである。裏に隠されていたのは、人々が十年続いた文化大革命による国力の疲弊、人間関係の混乱、政治の壟断、経済の衰退、民族の衰亡等に対する危機感を抱いていたことがあったろう。 しかし、正面切って文化大革命に反対は言えない。反革命罪の死が待っている。そこで出てきたのが、総理追悼という行為だったのだろう。これは、指導者追悼の情念と愛国の熱情に基づいた正義の行動であり、これで以て、文革推進派、「四人幇」の文革理念の政治に拮抗する事が出来る。そんな思いもあったろう。尤も、詩で見る限りでは、そのような理念に基づいた行動ではなく、情念の行動だったことが強く伝わってくる。
しかし、話はこれで終わらなかった。やがて同年九月九日毛主席が亡くなり、一ヶ月後の十月六日、後に「王張江姚」とひとまとめにいわれた、いわゆる「四人幇」の逮捕により、文化大革命は終焉をみた。
紆余曲折を経て、七八年十二月、中国共産党十一期三中全会で、党中央が嘗て出した「天安門事件」に関する文書が撤回され、「天安門広場反革命事件」とされたこの四・五運動の位置づけが変えられた。
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そのような社会情勢になった故、この本も非公認ながら出版できた。出版社も何も書いていなく、奥付も無い本(『天安門革命詩抄』)がそれであろうか。
尤も、七八年末から七九年には出版社名や「童懐周」の編者の名前も出てきて、華国鋒、葉剣英等による題簽も見受けられる。
この詩集には、文革中、自分の出来る範囲内で公平を取り持とうとした努力した救いの星、周恩来総理追悼の念と、当時の政治に対する批判に満ちている。批判は、いわゆる「蔵頭詩」(※9)で表現されている。
表面の制作意図は、『…詩抄』前言の終わりの次の句で、全てを言い終えている。
敬愛的周総理永遠活在我們心中!
波乱に満ちた時代の詩集で、同時代人の吶喊と鎮魂でもあったろう。 多くの思いが交錯する。
注:
※1 清明節: 二十四気の一。春分から十五日目の三日間。この日、先祖の墓参りや郊外へ出かけたりする。
※2 人民英雄紀(記)念碑: 天安門広場の中央にある巨大な碑。(上の写真)北向きの「人民英雄永垂不朽」は、毛沢東の揮毫。南向きは周恩来の筆になるという。昔は赤い文字らしかったが、現在は金色に輝いている。
※3 童懐周: 北京第二外国語学院漢語教研室主任の汪文風を中心とする十六名のグループの付けた名乗りという。(『葉剣英在1976』)
※4 「四人幇」: (si4ren2bang1:スーレンバン)。日本語では「四人組」といわれている。文化大革命期の後期に大きな影響力を持っていた四人を指す。「王張江姚」とひとまとめにいわれたりもする。江青、張春橋、姚文元、王洪文の四人の上海幇のことである。なお、この時点では、江青、張春橋、姚文元が(こっそりと)名指しされている。王洪文は、文革後期に後継者として抜擢された若年(この時41歳)の人物で、詩詞では相手にされていない。それぞれの事跡については、再談。
※5 「走資派還在走,…」: この句の意味は「走資派は、なおも歩み続け、まもなく彼と闘う」である。なお、「走資派」とは「資本主義の道を歩む実権派」と言う意味で、文革が始まった時は、劉少奇が「走資派」とされ、失脚した経緯がある。
※6 「党内那箇…」: この句は、「党内のあの走資派は、打倒されても今なお悔い改めようとしない走資派の登場を助けている」と言う意味で、「党内のあの走資派」とは周恩来で、「打倒されても今なお悔い改めようとしない走資派」とは、小平を指していよう。
※7 紅小兵: 小学生の紅衛兵。
※8 「周伯伯永遠活在我們心中」: 「周おじさんは永遠にわたしたちの心の中に生きている」
※9 蔵頭詩: 詩の中に別の意を寓する詩。
なお、このホームページでは、詩詞の表現法についてのみ論じ、政治問題については言及しません。ご了解下さい。
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