戦いの前、ベーオウルフは竜の吐く火炎に具えた特別製の盾を作らせていたが、ウィーラーフの持つ盾は普通の盾だったため、炎によって砕け散ってしまう。ベーオウルフは彼を庇う。ウィーラーフは、炎に手が焼けるのも構わず、竜の腹に一撃を繰り出す。
しかして、剣を失い劣勢にあったベーオウルフもまた、竜に、トドメとなる一撃をくらわすことが出来たのである。
老いてなお、民のためと言い竜に立ち向かい、その背中を、恐怖を振り払った若者が追っていく。
そこには、奢り高ぶった王の姿も、老いて力衰えた戦士の姿もない。
あるのは、勇敢で、身内思いの慈悲深き勇者の姿だけなのだ。
ベーオウルフは、決して自らの非によって死ぬさだめにあったのではない、と、この物語を愛する幾人かは言う。
それは、戦の民としての運命であり、戦場で死んだ者は天の宮殿に迎え入れられる、という信仰のもとに生きる、ゲルマン勇士のさだめられた結末なのだ、と。
私もそう思う。
もしも、この人物が戦士として衰えた人物なら、戦乙女たちは天への扉を開け放たず、戦いの場において誉れある死を与えたりはしなかっただろう。彼の思いは、次の世代を担う若者、ウィーラーフへと受け継がれた。それは、この物語を語った者が、ベーオウルフが孤独のうちに死なせたくなかったが所以である。
死は、誰のもとにも訪れる。どんな高名な者も死ぬ。
だからこそ、その死は彼にふさわしい形で訪れる必要があった。たとえば…”竜との戦い”といった。
北欧神話・叙事詩の一端としてこの物語を読むのなら、彼の死は、彼自身に与えられる最高の褒賞として描かれたクライマックスだったのではないだろうか。