2003年11月15日。
子供と2人で自転車で浦賀燈明堂まで行きました。
久里浜港から観音崎方面に向かう道を走り、
最近出来たトンネル(川間隊道)の先を、海に向かいます。
入口に駐車場の料金を表示した小屋があったけど、
この日はだれもいませんでした。
浦賀燈明堂は江戸時代に浦賀港に入ってくる船のための道しるべとなっていたものです。
明治時代になくなってしまったのですが、最近、
観光名所にするためか、作り直しています。
このあたりは、燈明堂があるだけでなく、台場(砲台のあるところ)があり、
ペリーが繰るよりも前の平保八年(一八三七年)にアメリカの商船モリソン号を
砲撃しています。
また、浦賀奉行所の首切場もこのあたりだったそうです。
横須賀市指定史跡
燈明堂跡(浦賀燈明堂)
昭和四三年二月十日指定
復元なった浦賀燈明堂の建つこの場所は、江戸時代に浦賀港の入口、燈明崎に建って
いた燈明堂の跡地である。
燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。燈明堂は、慶安
元年(一六四八)幕府の命によって、幕吏石川六左エ門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造
したと伝えられている。石垣を土台とし、上に二階建ての建物があった。階下は番人
小屋で、階上は四方を紙貼障子とその上に金網をめぐらしてあった。その中には、直径
三六・四センチ、深さ一二・二センチの銅製の大きな灯明皿が置かれ、一晩に灯心百筋
と菜種油一升(一・八リットル)が灯され、その光は四海里(七・二キロメートル)に達し
たという。
当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に浦賀奉行に所管替えとなり明治になり神
奈川府の所管となった。経費は元禄三年(一六九〇)までは徳川幕府が賄っていたが、
同四年からは東浦賀の干鰯問屋が一切を負担するようになった。
明治五年(一八七二)四月に廃止になるまで、約二百二十年間にわたって一日も休ま
ず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我が国の灯台史の上で極めて貴重なものであ
る。建物は明治二十年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある
大きな石で高さ一・八メートル、幅三・六メートル四方に組み合わされた「切り込み
ハギ石垣」だけが残された。
燈明堂跡は大正一三年三月国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和
四三年二月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀燈明堂が近代建築の
術の粋を結集して当時の姿そのままに復元された。
起工 昭和六三年十月、竣工 平成元年三月)
横須賀市教育委員会
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