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ひさしぶりの講義を終えた僕は、他愛もないことを喋りながら職員室で時間をつぶしていた。
年配の講師の方に声を掛けられ、振り向くと学生が2、3人突っ立っていた。
「彼らの立てた企画のプログラムを作ってくれるプログラム科の生徒を、ぜひ紹介していただきたい」
要約すればそんなところだ。僕は快く引き受け、彼らの話を聞いてみることにした。
とまぁオープニングはこうである。
その企画、企画書自体は写真やイラストをふんだんに使っているし、装丁もよくできている。内容も簡潔にして肝要だったが、ただひとつ気になる点が、僕にはあった。
「この企画、企画書としてはよくできているのかもしれないけど、どこが面白いんだか解らないよ」
それが正直な感想だ。
ゲームの企画というのは、およそゲーム開発に携わろうとする人間ならば誰しも憧れる職種である。
なぜならそれは、ゲーム全体の方向性を決定し、ゲーム製作そのものとゲームのカラーを決定する、極めて重要な要素に思えるからだ。
僕はプログラム科の生徒を受け持っているが、彼らの中にも行く行くは企画に・・・・と考えているものは多い。
当然である。ゲームが創作物である以上、創作する立場に立ちたいからこそ関わるのであって、これはゲームに限らず、テレビドラマも映画もアニメも、ゆくゆくは皆、企画からやりたいのではないだろうか。それが作品づくりというものの真髄でもある。
さて、我が校(これは電気通信大学ではなくてバイト先の専門学校のことだ)の生徒達はいくつかの種類に大別される。グラフィック専攻、プログラム専攻、そして企画・シナリオ専攻である。
このどれもが最終的には企画立案・製作に名を連ねることを目指していると考えてほぼ間違いない。
一般の就職活動として、まともに求人をとってくれるのはこのうちグラフィックとプログラムに関するもののみである。企画だけで就職出来る人間というのは滅多にいない。
それなのに企画・シナリオ専攻という科が別にあるというのは、実はこれは多分に営業的な側面が強いのではないだろうか。
辛辣な言い方をすれば、彼らは絵を描くこともままならず、プログラムの勉強をするほど根性のない学生という見方になる(少なくとも僕にとっては)。
さらに言ってしまえば、「企画専攻」の学生は「ウリ」となる、他人に誇れるものは企画しかない。さらにどこで間違ったのか、「いい企画=奇抜なアイデア」だと考えている学生が圧倒的多数である。
僕が見た彼らの「企画書」もご多分にもれずその範疇にあった。しかし、これを企画書と呼んでしまうのはあまりにお粗末だ(三人で考えたとすればなおさらである)。
奇抜なアイデアこそ企画の命だと、本気で教えている先生方がいらっしゃるのであれば、僕はおおいに異議を唱えたい。そしてこれから将来的に企画屋を目指す生徒達にもぜひとも考えておいてほしいのだけれど、果たして奇抜なアイデアを商品化したところで、どれほどの人間が飛びつくというのだろうか。
彼らは愚かにも忘れている。自己と他己への認識があまりにもかけ離れているのだ。
彼ら(これは生徒全員を指す)は他人の企画を平気で嘲る。「キワモノ」「イロモノ」と呼び蔑む。
だが、ほんの少しでいいから考えてみて欲しい。奇抜としか思えない企画は全て「キワモノ」「イロモノ」の類であることを。
無論、そんなキワモノの中にも時には面白いゲームがある。しかしそこだけを見るのは誤りである。
これはむしろ、ゲームの面白さに企画の奇抜さは無関係であると考える方が、科学的に言って自然ではないか。なにしろ主流はつねにキワモノではないのだから。
さて、そのような主張をすると、生徒がどんな反論をするかも容易に解る。曰く「既存の常識を破るアイデアがなければゲームが硬直する」曰く「商業主義的な作品は作りたくない」。そのどちらも誤りだ。
生徒達が考えた企画の例を少し挙げてみよう。といっても、在学中の生徒のものはまずいだろうから、卒業生のものから。ひとつ、「山の手線RPG」 山の手線をめぐって(といっても登場するのは山の手線のなかのほんの少しの駅だが)アイテムを手にいれ、目的を達成するゲームだ。ひとつ、「ダンジョンパズル」 ダンジョンに落ちている文字を拾い集め、単語を作るゲームだ。
アイデアの奇抜さとしては申し分ないことは言わずもがなだろうが、同時に僕が言いたいことも解ってもらえるだろう。つまり、なにが面白いんだかわからないのである。
シナリオ・企画専攻の学生を見ると、明らかに浮き足立っている。それこそなにかにとりつかれたように、だ。
それでもまだアイデアが重要だと考えているならば、それは完全な誤りである。アイデアなどというものは、どんな凡人でも容易に産み出せる、自然の産物なのだ。努力もほとんど必要ない。
アイデアに頼りすぎたゲームは、とたんにキワモノパズルになってしまう。企画専攻の学生が考えるゲームがことごとくパズルゲームに偏っているのは実に象徴的だ。
また安易な組み合わせも意図を不明確にする。たとえば「シューティング+パズル」などはその典型で、「落ちもの」と呼ばれるテトリス、ぷよぷよなどが流行して以来、さまざまな論法で繰り返し提案されてきたスタンスだ。
誤解しないでいただきたいのは、一般にいわれる発想法というのは、誰でもできるということ。ろくに努力もしない人にできることは、努力している人にはもっと簡単にできるということ。発想法なんて極めて簡単なのだ。「ひっくりかえす」「回転させる」「立体的に考える」等など、巷に発想法の本は数あれど、その本の著者にしてからが、別にアイデアで成功したとは言えない(成功した人がアイデアを大切した例を俺は知らない)。
数々の奇抜とも思える発明で世界を席巻したトーマス・アルバ・エジソンにしてからが「1%の霊感と99%の努力」と至言を残しているのにも関わらず、そのことが全くわかっていないように見受けられる。
また、アイデアというものは持っている知識、語彙、経験に裏付けされるところが大きい。たとえばなにかを「ひっくりかえす」と考えるにしても、「ひっくりかえした」ときにそのひっくり返したなにかに対して別の捉え方ができなくてはなんの役にも立ちはしない。
これは本気でなにかを作ろうとしていたり、研究していたりする人ならば誰しも解っていることだと思うけれども、実際の現場において、アイデアなんぞが役に立つ事態は万にひとつもない。時間をかけて推論した結果と、裏付けのないその場の思いつきとでは雲泥の差があるのである。
既存の名作ゲームが、極めて奇抜に思えるものでさえ、実に巧妙な計算のもとに作られていることを見抜けないようでは、生徒達の門戸は一生閉ざされたままであろう。
さて、ではいい企画とはなにか。それは完成品のゲームが即座に想像でき、かつ面白さが伝わってくるものである。そのためにはシンプルさが欠かせない。
重ねて言うが、勘違いしないで貰いたいのは、奇抜なもの、「新しいだけのもの」は百害あって一利なしということ。大切なのは、そのゲームを自分がプレイしてみたいかどうか、それだけに掛かっているのである。
まったくの欲目なしに、そのゲームが店頭に5,800円の値札をつけられて並んでいたら、手を伸ばすかどうか、そこだけにかかっているのだ。これは商業主義ではない。クリエイターとしての真のプライドなのである。
僕は自分が読みたい、やりたいと思ったものしか決して作らない。それが僕のポリシーなのだ。自分の企画だという、ただそれだけの愛情で、企画を判断することだけは止めて欲しいのである。それは君たちの、将来への芽を摘むことにつながるのだ。
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