占領されなかった地域でも戦争の傷跡は大きかった。ボルガ流域サラトフ市の丘の上に立つ戦没者慰霊碑。飛んで行く鶴をデザインした碑の手前の銘板にはサラトフ州から出征した兵士のうち17万人以上が帰らなかったとある。 (1997年8月撮影)
侵攻軍との間で激戦が展開されたオデッサ市の郊外に当時の陣地が復元・保存されていた。 (1985年8月撮影)
ラトビアのサラスピルス収容所跡に立つモニュメントの一つ。子どもを守ろうとする母親か。 (1987年8月撮影)
900日におよぶレニングラード包囲のとりわけ最初の冬、飢えと厳しい寒さとでおびただしい数の市民が命を落とした。亡くなった人の近親者がその遺体を埋葬した場所が現在のピスカリョフ墓地になったと言われる。墓地入り口の資料館に展示されていた死亡者の数を日毎に記録したノート。 (1986年12月撮影)
1980年代の後半、ソ連各地の都市では第二次世界大戦(大祖国戦争)の戦没兵士の碑をコムソモールの若者などが交代で「守る」のが流行した。次の当番者が交代に来るまでの一定時間身じろぎもせずに立ち尽くす。そして交代の時は、モスクワのレーニン廟の衛兵の交代を模したような「儀式」があるのが通例だった。そして、この役は選ばれた者だけが担うことができ、それをできるのは名誉なこととされた。海の町オデッサには戦没水兵の碑があり、写真はその碑の警護にあたる女子コムソモール員。 (1985年8月撮影)