キエフの戦没者慰霊碑の警護にあたる少年。雪の舞う冬の立哨はラクではないはず。 (1988年1月撮影)
シベリアの冬となるといっそう辛いはずだが、2人とも身じろぎせずに立ちつくしていた。もう春がそこまできているからか。 (1984年3月撮影)
ハバロフスクでこれが行われるようになったのは他の都市よりだいぶ遅れてであった。そして、すぐその後にペレストロイカ、ソ連邦崩壊と続いたから、子どもたちによる永遠の炎の警護も短期間で終わってしまうことになる。背後の壁には戦没者の名前が刻まれている。 (上1987年8月,右1999年3月撮影)
キエフ市のメインストリートであるクレシャチク大通りの道路の真上に掛けられた横断幕。核兵器の禁止と日本の被爆者への連帯をよびかけている。旧ソ連ではヒロシマやナガサキのことは学校でよく教えられている様子で、もう日本の子どもたちでも忘れかけている「ササキサダコ」という日本の女の子のことなどソ連全土のどこへ行っても子どもたちが良く知っていた。 (1985年8月撮影)