10月革命の際、ケレンスキー内閣の閣僚が労働者・農民の部隊に逮捕された冬宮の一室。時計は逮捕の時刻を指している。 (1984年8月撮影)
ペテルブルク市北西側の郊外にラズリフ湖という遠浅の湖(入り江)がある。1917年「七月事件」後レーニンはこの地に身を潜めていた。写真は『国家と革命』を書いたとされる“緑の書斎”。
当時の隠れ家だったという藁小屋も復元されていた。 (1988年8月撮影)
ペテルブルク市内のヴォルコヴォ墓地にある。ソ連崩壊後は、モスクワのレーニン廟にあるレーニン本人の遺体も廟に置いて一般に公開するのではなくヴォルコヴォ墓地の家族の側で静かに眠ってもらうのがよいという意見もある。
ペテルブルク市の北部にある広大な記念墓地。第二次世界大戦でレニングラード市は900日にわたってドイツ軍の包囲下に置かれ、ことに1941年の冬、食糧不足から市民に大量の犠牲者が出た。亡くなった市民をそれぞれの遺族が仮埋葬していたのがやがて墓地になったと言われる。ここに葬られている市民の数だけで大戦中に死亡した全米兵の数よりも多いとされる。
多数の市民・兵士(墓標の★は兵士の墓であることを示す。)がまとめて葬られているため、墓標にはただ年が記されているだけである。