新潟交響楽団の歴史
ガタキョウ 「潟響」の愛称で市民に親しまれている新潟交響楽団は、昭和6年に創立された日本でも屈指の歴史と伝統を誇るアマチュア・オーケストラです。第二次世界大戦などで存亡の危機に見舞われましたが、音楽愛好家の情熱に支えられ、その灯は今日まで受け継がれています。
昭和44年のベートーヴェン「第9交響曲」県内初演、昭和48年からのゴールド・ブレンド・コンサート出演、昭和58年のNHK「音楽の広場」への出演、昭和60年の新潟市芸能まつりオープニング・ステージ・歌劇「ヘンゼルとグレーテル」出演、平成1年の横浜博での演奏、同年の新潟市制施行百周年記念・市民ミュージカル「アジブの扉」出演など数多くの演奏実績をもち、昭和57年には新潟日報文化賞(芸術部門)に輝きました。また昨年6月には、団創立60周年記念演奏会においてベルリオーズの大曲『幻想交響曲』を演奏し、好評を得ています。
これまでも菊地俊一氏、荒谷俊治氏、伊藤浩史氏など優れた指揮者に恵まれてきましたが、現在は汐澤安彦氏を常任指揮者に迎え、さらなる飛躍と向上を期しています。
団員は約80名で年齢も職業も多様。仕事や勉学のあい間をぬって、いかに練習時間を確保し、実力を高めるかが、団員共通の課題となっています。
新潟交響楽団創立60周年記念誌
新潟日報1991年(平成3年)2月2日、2月16日、3月2日付 音楽時評
「新響」60年史
新潟大学教育学部助教授 横坂 康彦
(本文は著者と新潟日報の許諾を得て掲載しております(注参照))
「トルコ行進曲」で産声
新潟市内にアマチュアの音楽団体は一体いくつあるのだろうか?音楽文化会館で定期的な練習に励む団体だけで五十前後あるというから、その他の会場で活動を続けるグループも入れると相当な数にのぼることだろう。
「アマチュアは音楽を楽しめば良い」と言われるが、楽しむにはそれなりの演奏が必要だ。指導者が最も頭を痛めるのも、練習を楽しみ、本番を楽しみながらどうやってレベルアップをはかるか(発展性を持たせるか)という点だろう。人間関係のトラブルも絶えない。しかし、そういった問題を乗り越えてなおその活動を存続させるものは、音楽への情熱と所属団体に対する愛着であろう。
新潟市を拠点に活動する五つのアマチュア・オーケストラの歴史は、それぞれの団体にかかわるメンバー一人ひとりの深い愛着の歴史でもある。そこで今年、創立六十周年を迎える新潟交響楽団(以下「新響」)のオーケストラ活動を振り返ってみたい。
「新潟市音楽芸能史」と「新潟交楽団五十周年史」によれば、新潟市で管弦楽らしきものが最初に演奏されたのは大正十五年だという。これは京都大学の有志が、新潟医科大と旧制新潟高校(現新潟大学)音楽部に合流し、八人の弦楽器、木管群、ホルン、小太鼓の小編成で<胡桃割人形>などを演奏したものであった。そして昭和四年には、新響設立に最大の刺激を与えた現N響演奏会が近衛秀麿の指揮で行われている。また当時の新潟では、斉藤正直の主催する音楽研究会「如月会」が大正八年以来、定期的に発表会を開いていた。
新響はこのような音楽的土壌の基に、京大オーケストラでファゴットを吹き、帰省して弁護士となった松木明を創立者として昭和六年に産声をあげたのである。そして翌年十一月には松木と井坂吉二(医大オケ団員)の指揮により、<トルコ行進曲>(ベートーベン)や弦楽四重奏、ソロも含むプログラムで小編成ながら第一回の演奏会にこぎつけた。すでに存在していた医大オーケストラからも協力が得られ、昭和八年の第二回定演の総勢は二十三人。そして同年に会報も発行され始め、次第にその基礎が固められていった。
しかし順調に船出したかに見えた新響には、指導者に恵まれない、練習場所が確保できない、後援会の組織作りが遅れるなどの難問が、次々に立ちはだかったのである。
菊地氏迎え改革実る
練習こそが活動の原点であるアマチュア音楽団体にとって、指導者に恵まれないことと練習場所が確保できないことは決定的である。これは、どの団体も頭を痛めている「古くて新しい」問題だ。新響も、この問題では辛酸をなめ尽くした。練習場所は昭和六年の創設以来十カ所余りを転々とし、指導者の確保にはそれ以上の苦労を強いられている。
創設者の松木明が転勤で離団した後、新潟医大オーケストラの井坂吉二が指導・運営に当たったが、三十二歳の若さで急逝。それ以後約十八年間、新響の指揮台には地元や東京の十指に余る音楽家たちが交代で登場した。しかし、渡辺暁雄に指揮法を師事して九年間の常任指揮者を務めた赤柴豊以外に長続きしていない。また石本純一がインスペクター役を引き受け、練習場所の提供なと献身的な働きで支えたにもかかわらず、戦争のために新響は昭和二十二年まで中断を余儀なくされる。
現コンサートマスターを務める大塚哲夫は、松木・赤柴時代をこう回想する。
「初めて定演に参加したのは中一のころだったと思います。当時、長沢バイオリン教室の生徒でしたが、子供心にもうまいオーケストラとは言えませんでした。ただ赤柴先生がメンバー集めに奔走していらしたのは印象的でした。一部の人たちは熱心でも、練習に来ない人もいましたから…」
指導者たちの苦労が実り、新響にはおおむねべートーべンとモーツァルトを主体としたレパートリーが定着していく。しかしその半面、旧態依然とした組織、演奏感覚、そして指導者への改革を望んだ主要メンバー数人が新響を離脱。昭和四十九年、二十人から成る室内管弦楽団を結成した。彼らは一年半の短期間に、海野義雄や浜中浩一ら一流奏者を招いて実に八回の演奏会を開いたが、五十一年七月に「発展的解消」で新響に再び合流している。
このように、演奏面での刺激が求められた時期を経て、昭和五十二年、武蔵野音大講師であった菊地俊一が常任指揮者となった。それ以後、団員資格の明文化や分奏練習の導入などにより、新響は演奏面でも新たな結束を固めたと言われる。レパートリーには団員がソロを務める協奏曲やディヴェルティメントなとが組まれるようになり、中央のソリストとの共演も増えた。また創作舞踊・オペラの共演でオーケストラピットに入るなど、積極的に活動の場を広げていったのもこの時代の特色である。
練習や演奏に自発性
昭和五十八年、名誉指揮者となって勇退した菊地俊一の後、六十年から現在の常任指揮者、伊藤浩史(新潟大学教育学部音楽科助教授)が新響の指揮台に立つことになる。
伊藤は「運営には口を出さない」約束でこの任を引き受けたが、負担や権限が個人に集中しがちな体質は演奏にも影響すると感じて、組織作りにも積極的に取り組んだ。そして運営委員会のほかに楽事委員会を設置したが、この改正はプロのオーケストラ奏者(新日フィル)としての経験を積んだ伊藤の意識から来たものだろう。
だから昭和六十年以降、新しい傾向としてプログラムにのぼるようになったブラームス(第二、第四交響曲)やチャイコフスキー(第四、第六交響曲)等には、指揮者の方向づけというよりむしろ、団員の希望を最終的に投票で紋り込むようになった楽事委員会の意思が反映されているのである。この改正によって、練習や演奏にも団員の自発性が出てきたと言われるし、華麗でシンフォニックなレパートリーの定着は一聴衆としても大いに歓迎したい。
伊藤はどんな指揮者の棒にもついていけるような楽団に育ってほしいと言うが、それは音楽そのものを楽しみ、どんな指揮者が来ても余裕をもって演奏を遊べる楽団に成長してほしいという意味だろう。それには合奏技術のアップが望まれるし、管楽器の良いトレーナーも欲しい。そして中央から指揮者を呼べる体制も組みたい。また新響として演奏する限り、個々の団員は何らの還元も受けないアマチュアリズムを貫いてきたが、それも検討される時期に来ているのではないかという。市内の他団体と協力関係を保ちながら仕事を進め、名実ともに「新潟」を背負って立てるオーケストラへ発展させるためにも、この問題は重要な鍵(かぎ)だと伊藤は考えている。
コンサートマスターの大塚哲夫と白井元は、いずれも慶応や上智など有数な学生オーケストラのコンサートマスターを務めた経験がある。大塚は「伊藤先生は、私たちの演奏ににずいぶんイライラなさったことと思います。プロと違って何じことを何度も言わなければなりませんし、練習量も少ないですから。でも情熱的にぐいくい引っ張って下さり、その熱意はみんなに伝わっています」と信頼を寄せる。
今年も青少年音楽鑑賞会(1月6日、新潟市音文)を皮切りに活動を始めた新響。6月23日の創立六十周年記念公演ではどんな<幻想交響曲>を聴かせるだろうか。
(注)本ページは新潟日報掲載の横坂氏の署名記事を転載したものである。転載にあたっては横坂先生本人と新潟日報より文書による許諾を得ている。両者の特別のご配慮にこのページにより感謝申し上げる。 なお、新潟日報調査部(記事使用申請書の提出先)では「インターネットへの記事転載は原則認めない」とのことである。