|
この点、山本七平が著した「空気の研究」という極めて興味深い指摘がある。
例えば、サラリーマンが夜遅くまで残業すること、誰もいない真夜中の赤信号で止まって待つこと、そうした日本人の行動に対して「なぜ?」と問えば、多分、「そういう雰囲気ではない」といった答えが返ってくる。ここで、日本人の倫理的規範とは「空(くう)」ではないかという仮説を設定したい。

この点については、すでに気づいている論者もいる。フランスの哲学者ロラン・バルトなどをはじめ、「ミカドの肖像」の猪瀬直樹も「日本という国家の中心には空白がある」と述べている。これは、その空白を埋めるために、様々な外国産の思想を輸入しては捨て去るということを繰り返してきたという説である。
丸山真男は「日本の思想」の中で、「日本にはあらゆる思想体系が伝統化しない伝統がある」と述べているが、これは猪瀬と同様の指摘だと言えるだろう。
では、この「空」とはいったい何でありどのように日本人の倫理観を形成しているのだろうか?この点において、哲学史上の巨人である西田幾多郎的な「禅思想」からは一線を画したいと私は考えている。それは私を含めて日本の一般人は、禅がどういったものであるかすらほとんど知らないからだ。
倫理観の根源に宗教的思想を仮定したがるのは、マックス・ウェーバーのプロテスタンティズムへの考察に引きづられているだけだ(「倫理」を考えている私も同類だが)。
こうした考えを持つ人々は、禅や石門神学、浄土真宗が日本の資本主義発展の源泉であるという結論に行き着いてしまう。私がそうした立場をとらないのは、私たち現代の世代はそうした考えを教わったことはなく、それが何であるかすらまったく知らないという単純な事実が根拠だ。
つまり、日本人の厳格な労働倫理や社会を安全に保っている道徳は宗教に基づくものではない。宗教とは最高裁判例によれば「超人間的存在を確信しそれを信仰・崇拝する心情または行為」だが、多くの犯罪を犯したことのない日本人は超人間的存在を信仰していない。反対にあらゆる宗教に対して懐疑的になることが現代の時代精神であるとすら言える。
「輸入された思想が伝統化しない」と指摘した丸山真男はついに自らの結論を示すことができないまま、なかばヒステリー的な主張に到達したが、それは必然の帰結だった。何故なら、西欧的意味の倫理観は日本には初めから存在しないからだ。この点が丸山真男が西洋主義者であるが故の限界だった。「日本には何故キリストがいないのか」という問いは、設問自体がすでに間違っていることに気付くべきだったのだ。
加藤周一などの知識人も、想像を絶する膨大な知識を駆使して日本という国家を論じた結果に、日本に西洋的意味の神や道徳が存在しないことが劣等性の証であるという結論に達した。加藤は、そもそも複数の文化を比較することには本質的に意味がないことに最後まで気付かなかった。
こうした戦後知識人の日本文化論は、「時間」や「歴史」の本質が直線的ではないことを忘れていた。他国との比較によって論点は明らかにならなかった。日本の伝統的価値観とは、「空」という名の価値相対主義であり、仏教や儒教ではない。

日本の倫理観(=価値相対主義)は、「経典」が存在しない点で、簡単な言葉で説明できない。なぜ一生懸命働くのか、なぜ真夜中の赤信号で止まるのかという問いに「当たり前」と答えることはできても、それが何故当たり前なのかを明快に解いた者を私は知らない。仮に明確に答えてとしても、現実を的確に形容したものにはならないだろう。
「空(くう)」とは、共同体に生きる上で守るべき秩序が、文化的・歴史的に集積したものだろう。私にはその程度のことしか言うことは出来ないが、これ以上の事を言える人間も知らないので、自らの主張を恥じる気はない。
|