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記録に残っている最初の魔女裁判は、1275年フランスのトゥールーズで老女が悪魔の子を産んだとして死刑になった時だ。
魔女妄想の公式の出発点は、1484年12月に教皇イノケンティウス8世が出した「魔女教書」だ。その中で教皇は異端者・妖術使いの跋扈を憂慮し、各地の司教や領主にその根絶を勧め、異端審問官の措置に協力するよう求めた。
だが、この教書には思っていたほどの影響力がなかった。すでにルネサンスは怒濤の如く押し寄せていたために、「カノッサの屈辱」でドイツの皇帝を完膚無きまでに打ちのめしたような教皇の権威はすでに衰え始めていたのだ。
そこでドイツのドミニコ会修道士ハインリッヒ・インスティトリスとヤコプ・シュプレンガーは異端審問官として勇名を馳せるため、「魔女に対する鉄槌:Malleus
maleficarum:1487年」を著す。そして、1714年プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム1世が魔女裁判を禁止するまで、この本が200年にわたって魔女狩りの教典となり猛威を振るう。印刷術がこの40年前に発明されていたことが火に油を注いだ。

この本の第二部には魔女の妖術について詳しい記述がある。魔女は妖術を身につけるため洗礼を受けていない幼児を煮て食べる、人間の生殖能力を失わせる、子供を流産させる、といったことが「事実」として列挙されている。その証拠には激しい拷問の末得られた「魔女の証言」が挙げられている。
魔女の妖術に対抗するには教会での祈りの他、教会で売っている高価な聖水や護符なども効果があると述べている。こうした現代のカルト教団を遙かに凌ぐ迷信・詐欺は、教皇・教会の権威を背景に全ヨーロッパに跋扈し、とどまるところを知らない疫病のように広がっていった。宗教改革の原因ともなった「免罪符」は農民の年収に匹敵する価格で、貴族の場合その25倍だった。
「魔女に対する鉄槌」の第三部は魔女裁判の指針となった。魔女を告発する事は義務のみならず、聖なる使命であるとさえ書かれている。弁護士がつくことはあっても弁護士も共犯にされかねないため、裁判は裁判官の意のままに決定された。
魔女裁判の開始は告発によってなされる。単なる噂、子供の戯言はもちろん、家畜が病気にかかったり、何らかの天災があったりすれば、魔女だという告発がなされ、逮捕される。
最初、罪を認めるよう勧められるが認めればすぐに火刑になるため、容疑者は否認する。その後拷問が始まる。

拷問はまず、体の体毛を全て剃ることから始まる。「何か迷信的な護符を頭髪や...秘密のところに隠していることがある(前書)」ためだ。そして体にあるあざやほくろが悪魔との結託を示す証拠として探し出される。
その後、5段階の拷問にかけられ、これを耐え抜けば無罪となることになっていたが耐えられる者はほとんどいなかった。
1段階目は両手の親指を装置にはめ込み、ねじで血が出るまで締め上げるものだ。2段階では、縄で後ろ手に縛り、足に重りをつけ天井から吊し上げ、縄をゆるめ床に叩きつける。3段階は「肝つぶし」といい、梯子に縛り付け引き回す。4段階はブーツに足を入れさせ脛骨とふくらはぎを一緒に締め上げる。5段階では脇の下を松明の火であぶる。
魔女狩りの犠牲者数は分かっていないが、数十万人から数百万程度といわれる。当時の欧州人口(5000万-1億)を考えれば、200万の犠牲者を出したポルポトの粛清に勝るものだったと言って良い。
犠牲者の年齢は10歳から94歳までと幅広く、男性も20-25%含まれていた。場所も欧州全土といってよく、スウェーデンでは1669年にモーラとエルフデイルの裁判で300人の子供が火刑に処せられた。
魔女狩りは大西洋を越えてアメリカにも飛び火した。1692年マサチューセッツ州のセーレムで、牧師サミュエル・パリスは自分の家の黒人家政婦がブードゥー教(アフリカの原始宗教)を子供に唱えかけていると疑った。子供たちがお化けが自分をつねると言い出したため、その黒人家政婦を殴打、魔女だと自白させる。魔女妄想はセイレムの町に一挙に広がり、数百名の犠牲者を出した。幸いなことに州総督のウィリアム・フィリップス卿が冷静な人物で、インディアンとの戦いから帰還するとすぐ裁判を停止、容疑者たちを釈放した。パリス牧師は町を追われた。

こうした集団妄想が生まれた背景は、当時の生活を振り返る必要がある。市民と農民の生活は禁欲と労働のみで、生活の範囲といえば日曜に教会に行くことぐらいだった。ほとんどの人々は文盲で迷信深く、教会が定める些細な規則に縛られ、教会に反論したり、規則に反すれば最悪の場合死刑になった。 |