| 私は宗教に強い憧れを持っている。
しかし、宗教を信じている人には申し訳ないが、カルトと宗教の区別は私には判然としない。現象学的に言えば、宗教的真理の本質は「多数の人間が共有する主観」であり、自然科学の1+1のように客観的に安定したものではない。
もしイエス・キリストが現在の日本に現れたら、妄想性分裂病と診断され、詐欺師として刑務所送りになるかもしれない。常に時代によって真理は変化する。よって、宗教を信じる人間が社会に多数存在すれば真理と認められ信仰の対象になる。つまり、1つの宗教が、カルトなのか、神聖な信仰の対象なのか、虚構か真理かは、時代がすべて決定することになる。
現代は宗教には懐疑的な時代だ。だから、麻原彰光も2000年前に生まれていれば、偉大な宗教家として世界史の教科書に写真付きで載っていたかもしれない(私は彼の死刑に賛成である)。
コペルニクスの地動説は占星術の研究から生まれ、ニュートンの万有引力説は神の摂理を明らかにしようとする努力から生まれたが、19世紀になると科学と宗教は明確に分割されるようになる。
フランス革命では啓蒙思想に基づいて神が否定された。それでも、革命後の一時期、信仰の対象を失った人々のために、純白の衣装を着せた少女を「理性」の象徴として崇拝するという苦し紛れの儀式があった。
現代にいたるまでの過程で、膨大な量の知識が集積されたため、研究者でも自分の専門分野しか分からず、全体のことなど誰にも分からないようになった。その結果、普通の人にとっては、科学はオカルトと大して変わらない代物になった。
しかも科学は森羅万象をすべて説明できる訳ではない。そして科学の無力な分野では、オカルトが活躍できる。科学は「人生の意味」「愛とは何か」については答えられない。
人間は自殺しないで済むように神を考え出すことに熱中してきた。それが世界史の要約だ
ドストエフスキー(悪霊)
世界史がそうしたものだとすれば、今後ともカルト宗教が繁栄する下地は残っていくことになるだろう。
「人生の意味」「愛とは何か」という人類が悩んできた問題に直面した時、「何処かに回答がある」と探してしまう場合には宗教を信じるようになるだろう。反対に、「回答は何処にもない」と考える場合には、宗教を信じることはありえない。
どちらを取るかはその人の選択による。宗教を信じた結果、救済される場合もあり、全財産を奪われることもある。無宗教を貫くなら、気楽に生きられるかもしれないし、懐疑主義にはまり込んで発狂することもあるだろう。
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