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Ted Bundy
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生と死の支配者になりたい

  (I want to master life and death)

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Ted Bundy

 テッド・バンディ

1947/11/24生。

 犠牲者36人( 10-20代の女性。裁判で確定した数)

 1989年、電気椅子で死刑(裁判費用は約800万ドル)

ワシントン大学へ入学、心理学を優秀な成績で修める。犯行は主に法科大学院在学中

腕には骨折したときに使う三角巾やギプスをつけ、道に迷ったり重そうな買物袋を持っているけが人を装い、助けようとする女性の善意を利用した。

車の中に誘い込むことに成功すると、凶器で脅し殺害現場へと向かった。バンディはかつてのフィアンセ・ステファニー・ブルックス(Stephanie Brooks) に似た、髪の黒いチアガール風の女性を残虐暴行を加え次々と殺害した。

殺害は、バールや手のギプスで殴打、レイプと肛門性交の後、刺殺または絞殺。死体を切断し時に屍姦する。数日後現場に戻り、切断した頭部の口にに射精したこともある。

 



裁判と逃亡

死刑前の言葉


 

1:幼少期

 1946年ペンシルバニアの厳格なピューリタンの家庭で母親(Eleanor Louise Cowell; のち別の男性と結婚Louise Bundyと改名。現在も健在)が過ちから若くして未婚のまま妊娠、家族の恥を隠すためバンディは事情を知らぬまま4年間母親の弟として生活した。実の父親(Lloyd Marshall)は空軍の退役軍人でセールスマン、バンディとは生涯を通じて音信普通だった。(実の父親は別人という説もある。バンディの母親がこの点について答えたことがないため憶測を呼んでいる)

 未婚の母への偏見が強かったため、4歳のときワシントン州タコマに移住、母親の親類と同居した。後の供述によれば、当時親族の男性から性的ないたずらを受け、母親からは全く愛されなかったという。しかし、母親は後の証言で、「与えられるものはすべて与えた。中でも最も与えたのが愛情」と述べている。

 また、海軍を除隊したばかりで退役軍人病院のコック(Johnnie Culpepper Bundy)と母ルイーズが結婚したため、正式にTed(Theodore) Bundyと名前を変更た。

 母親と新しい父親の間には4人の子供がいてバンディの放課後は子供の面倒に費やされた。血縁のない父親とはうまく行かなかった。唯一尊敬していた祖父(当時は”父親”だと教えられていた。母親の実父)と離れ、慣れない場所で暮らすことは彼にとって苦痛だった。ただ、父親と敵対的だったわけではなく、虐待を受けてもいなかった。

 中学校では内気でよくいじめられたが、成績は抜群だった。当時の評判は”身なりがよく礼儀正しい”。当時バンディとデートした女生徒はいなかったが、スキーや政治に興味を抱いていた。政治への興味は高校に入ってからさらに膨らんでいった。

 


 

 

2:学生時代

 65年高校を卒業、奨学金をもらって大学に進学(University of Puget Sound のち University of Washington:専攻は心理学、後に法律)中国語の勉強を始めた。バスの荷物運び、靴屋の店員などをしたが、いずれも長続きはしなかった。大学の成績は良く、教授たちから絶賛されていた。「学生というより若い専門家のようだ」った。

 ステファニー・ブルックス(Stephanie Brooks)は美しく洗練された女性でカリフォルニアの裕福な家庭の娘だった。スキー旅行に何度も行くうちに付き合うようになった。バンディにとってはこれが初恋で性行為も始めてだった。

二人は普通のカップルと同様に幸せな日々を送っていたが、彼女のほうはバンディほど夢中ではなかった。大学卒業後、彼女はバンディに別れを告げカリフォルニアに帰った。バンディは何とかよりを戻そうと追いかけて行くが無駄だった。大学は中退した(67)。失意のバンディは皿洗いや倉庫番などの単純労働に就き、窃盗に手を染める。身の回りのものはほとんど盗んだものだった。

しかし、知人の紹介で副知事候補の黒人政治家のもとで働く機会を得て再び浮き上がる。青年共和党に所属、共和党の有力者とも面識を持った。

また”自殺者ホットライン”でボランティアとして働き、湖で溺れていた3歳児を救助してシアトル警察から表彰され、強盗を取り押さえたこともある。なお、バンディの犯行を詳細に再現したノンフィクション「デッド・バンディ・アメリカの模範青年の血塗られた闇」を書いたアン・ルールは、この頃、自殺者ホットラインの同じ職場でバンディと何年か一緒に働いている。

 69年”姉”が実は母であること、祖父母を両親だと信じ込まされていたことを知る。この頃から、シャイで内向的な性格が、目的意識を持った積極的なものへ変化し始めた。1970年ワシントン大学に戻り心理学を専攻、優秀さを発揮し教授達にも一目置かれる存在となった。

 1972年、州知事候補の選挙事務所で働き始めた。再選された知事の強力な推薦があり、ユタ州立大学の法科大学院に入学を認められた。しかし、州政府でキャリアを積むならワシントンのピュージェット・サウンド大学のほうが良いといわれ、こちらに入学する。

 このとき、秘書でおとなしくもの静かな女性、メグ・アンダーズ(Meg Anders)に出会い5年付き合った。彼女は離婚しており、娘がいたがバンディは理想の父親になると考えていた。バンディにはその気はなく他の女性とも付き合っていたが、メグはバンディと結婚することを夢見ていた。バンディの当時友人によれば、”ほんとに愛したのはステファニーだけ........メグとはそんなんじゃないよ”。

 

 73年カリフォルニアからワシントンの共和党本部に出張した時、ステファニーと再会する。彼女はバンディが、何の目的も持たない「ひ弱男」が、落ち着いてし成熟した男性になっていたことに驚いた。その後二人はメグに知られないよう何度かデートしている。再び二人は恋に落ちた。

 73年の秋から冬にかけて、バンディはステファニーと肉体関係を持つ間、何度も結婚を迫った。しかしバンディはわずか2〜3週間の間に突然態度を豹変させ彼女に興味を示さなくなった。74年2月何の前触れも説明もなくバンディはステファニーのもとを去る。そして二度と二人は会うことはなかった。この間何があったかは不明で、一説によれば”極度に理想化された女性を意のままにし復讐を果たした”からだという。

 

 


 

3:始まり

 73年12月6日、McKenny Park(15)の死体を若いカップルが発見した。

 また家出してヒッチハイク中だったKathy Devineが首をしめられた上、強姦、喉を切り裂かれた。現場に証拠がほとんどなく捜査は難航した。

 74年1月4日、Joni Lenz が血まみれでルームメイトに発見された。ベッドからへし折られた鉄棒で激しく殴打された上、その鉄棒が彼女の膣に押し込まれていた。発見されたとき、まだ息はあり、昏睡状態のまま病院に運ばれたが、彼女は脳に一生治らない障害を受けた。

以上の2件はバンディの犯行の「可能性が極めて濃厚」とされる。

 

 74年1月31日、ワシントン大学で心理学を専攻するLynda Ann Healy(写左:21)の自宅にバンディは忍び込んだ。殴って気絶させた上、車でシアトル郊外の森の中に運び、レイプして殺害。

後日、遺体が発見された。

次の犯行までは6週間だった。

  

74年の春夏は7人の女性(全部大学生)がユタ、オレゴン、ワシントン州で忽然と姿を消した。

失踪の仕方には類似点が多かった。女性達は全て白人、痩せ型で独身、スラックスをはいており、髪が長くて真中分け、失踪は全て夜間だった。

現場近くでは、地図を見ながら若い女性に身を尋ねていた、腕と脚にギブスをした不審な男が目撃されていた。

 

74年8月、ワシントン州のLake Sammamish State Parkで女性の大腿骨5本、頭蓋骨が発見された。

遺留品から死体は7/14日に失踪したJanice Ott(23:写真)、 Denise Naslundであると判明した。

手にギプスをした男が彼女と話していたという目撃証言が後に寄せられた。

ユタ警察の署長Louis Smith は17才の娘メリッサに凶悪な犯罪が起きているから気をつけるように再三注意していた。74年10月、彼女は肛門と膣に激しい裂傷を負った絞殺死体で発見された。顔面が激しい殴打によって変形していたため、父親でさえ最初は身元を確認できなかった。

 ハロウィンの13日後、Laura Aime (17)が失踪した。感謝祭の日に川岸で発見された死体は、バールで頭と顔を殴打され、膣と肛門を犯されていた。彼女の遺体は洗髪や化粧が施されていた。現場に証拠はなし。彼女は13人目の犠牲者だった。

 

バンディと交際・同居していたメグ・アンダースは、友人に警察の作った似顔絵がバンディに似ているといわれ警察に電話をかけた。

しかし、警察はバンディのような精悍で立派な若者がこんなことをするはずがないと考え、情報が大量に寄せられていたこともあってバンディを長いこと調べなかった。

 

75年8月16日、ユタ州高速警察隊のBob Hayward が見なれないフォルクスワーゲンが走っていたため、ナンバーを確認しようとライトをつけ近づくと、その車は猛スピードで逃走した。

カーチェイスの後、助手席が取りはずされたその車からは、スキーマスク、アイスピック、バール、手錠、ロープが発見された。誘拐されそうになったキャロル・ダロンシュらの面通しによってバンディは犯人であると確認された。

 


 

75年秋になって警察はようやくバンディ のガールフレンド、メグ・アンダースからの事情聴取を始めた。

●メグの証言内容

  1. バンディには殺害時のアリバイがない

  2. バンディが昼間寝て夜外出する

  3. 性交渉のときロープを使いたがる

  4. 出会った頃から部屋にギプスを作るための焼き石膏がある

  5. 車に手斧を積んでいた

  6. Lake Sammamish Park でJanice Ott と Denise Naslundが失踪した日に現場に”水上スキーに出かけた”

 ●友人達の証言

  1. 車にパンストがあった

  2. 犠牲者の遺体が多数発見されたTaylor Mountainsでバンディが過ごしていた

  3. ギプスをしていた。(病院には骨折した記録はなかった)

●物証

       犠牲者の遺体発見現場近くのガソリンスタンドのクレジットカードの使用記録、

車に積んでいたレイプ道具

 

バンディ は無罪を主張した。自ら弁護を行った。

 

 


裁判と逃亡

死刑前の言葉

 

 

 

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