| ジル・ド・レの少年虐殺は事実だが、人数・証言などに誇張がみられ、ブルターニュ公や国王による領地召し上げの策謀が見え隠れする。
ジル・ド・レは、幼い頃から学問や古典文学に親しみ、ラテン語を話し、多くの書を読んで教養を身につけた。11才のときに両親を亡くす。16才で名門貴族の娘、カトリーヌ・ド・トーアと結婚。20歳で国王シャルル7世に仕えるようになり、戦場でも活躍。25歳にしてし国王シャルル7世から将軍に任ぜられた。後に「元帥」の称号を授与されている。
なお、当時のフランス(ヴァロワ朝:1328-1589)は、ブルボン朝以後の強国のイメージとは程遠い弱体な地方領主に過ぎず、日本で言うと室町幕府に近い存在だ。よって、ジル・ド・レの領地はほとんど独立国に近い状態だった。当時の領主は警察権・司法権を持ち、領内では絶対的な権力をもっていた。つまり、国王に反逆しない限り、領内で何をしても罪に問われることはなかった。
ジル・ド・レは、父親と祖父の莫大な遺産を相続し、フランス国王に次ぐ資産を所有するようになる。大聖堂を建築、美少年を収集し聖歌隊を編成、酒と色に溺れた贅沢な日々を過ごすうち遺産を使い果たした。
ジャンヌ・ダルクといえば、フランスを救ったオルレアンの聖女として知られているが、ジル・ド・レ侯爵は彼女の最高司令官として敵軍と戦い、フランスの騎士が与えられる最高の栄誉「元帥」の称号を与えられた。当時、騎士団200名を抱えていた。
イギリス軍に捕らえられたジャンヌ・ダルクが1431年に火刑にされた頃から、人生がゆがみ始める。自分の城に閉じこもるようになったジル・ド・レは、錬金術師を招いて鉛を黄金に変える術に没頭し、黒魔術に傾倒、残虐な悪魔礼拝の信者へと豹変した(当時、黒魔術・錬金術は違法だった)。
魔術師・錬金術師のプラレチ(プラレーティとも)から「悪魔を呼びだすためには少年の生き血を捧げなければならい」と言われたため、幼児を次々と誘拐し、生贄の儀式を始めた。ジル・ド・レはもとから血への渇望が強く、男色の趣味があった。
百年戦争の真最中だった当時は、戦争で両親を失った子供たちが街中をさまよっていた。ジル・ド・レは老婆と屈強な部下を使って、孤児たちを集めさせた。城に連れ込んだ男児に対し、断末魔の叫びに酔いしれながら、生きたまま首に刃物で頭を切り落とした。
次第に残虐行為はエスカレートする。手足をバラバラにすることもあれば、釘をつけた棒で子供の頭をメッタ打ちにすることもあった。少しずつ切り刻み、できるだけ苦痛と悲鳴を長引かせながら、噴出する血液を見て興奮、自慰に耽った。
腹を切り裂いては傷口から手を入れ内臓をつかみ出しひきちぎり、その臭いを嗅いだ。死体で肛門性交や口淫することもあった。山のような生首をコレクションし、美少年の首を暖炉の上に飾った。
度重なる豪華な宴会と錬金術の失敗から、莫大な財産も湯水のごとく使い果たし、自分の住む城の一つを売却しなけらばならないまでになった。この売却話で教会とトラブルとなり、怒りにまかせて親衛隊を引き連れ教会に乗り込んだ。聖職者達を捕らえて自身の城へ監禁したのをきっかけに、教会側関係者に虐殺現場の痕跡を発見され逮捕される。
シャントーセ城・ティフォージュ城・マシュクール城から、それぞれ数十体の首のない死体が発見された。ジル・ド・レが殺した子供たちは少なくとも150人(居城から発見された死体数)、多ければ1500人とも言われる。
かくして、英雄としてではなく、シャルル・ペローの童話「青ひげ」のモデルとして後世に悪名を残すことになったジル・ド・レ侯爵は、1440/10/29日、36歳で火刑に処された。
裁判の初期段階では横柄な態度を取っていたが、教会に「破門」すると脅されたこともあり、最後には涙を流しながら被害者に詫びたという。市民は処刑の際「かつての故国の英雄」のために彼の魂が救済されるよう皆祈りを捧げた。
「《青髯》ジル・ド・レの生涯(清水正晴著・現代書館・1996)」では、ジル・ド・レの誕生、少年期の事情から、ジャンヌ・ダルクの戦友だった輝かしい時を経て処刑されるまでが詳細に綴られている。
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