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ジョン・ウェイン・ゲーシー
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アイツらは何の意味もないガラクタだ

"worthless little queers and punks," 

(犠牲者について)

 


ジョン・ウェイン・ゲーシー

犠牲者 27歳までの男性33人以上

1942年生まれ。 

両親はデンマーク人とポーランド人でシカゴ北部の中産階級。

家族: 姉妹が2人、子供5人 

アイルランド系。宗教はカトリック。離婚二回。

94年建設会社経営。年収は20万ドル(従業員はゲーシーの証言では700人)

犯罪暦は、少年への性的虐待 (1968: 懲役10年)、同性愛男性に猥褻行為(1972) 

52歳で薬物注射により処刑

John Wayne Gacy

 

 


ゲーシーは地元地域ではいわゆる”名士”だった。頭が切れ、優しく、気さくで、経営していた会社もうまくいっていた。家族に対しても献身的で、入院中の子供たちをピエロに扮して見舞うこともあった。しかしゲーシーは別の顔も持っていた。

Jeffrey Ringall が、ゲーシーの車に乗ると頭を捕まれクロロフォルムをかがされた。意識を取り戻すと太った男が裸で立っていた。床には大量のバイブレーターが散乱していた。彼は激しく性的な暴行を受け、公園に置き去りにされた。彼は、全身に切り傷、火傷を負い、クロロフォルム大量投与で肝臓に障害が残った。

ゲーシーは、雇ってやるとかセックスをすれば金をやると少年達に言っては自宅に連れ込み、酒や薬物を与えて手かけた。犠牲者達は、性的に暴行を受け激しい暴力を加えられた上、ハンマーを回してロープをゆっくりと締め上げて絞殺された。殺害は午前3時から6時にゲーシーの自宅で行われた。

最後まで後悔を示すことはなく、犠牲者を評して「くだらないガラクタ」 "worthless little queers and punks,"とのべた。

ジャック・ハンソンという別人格が猟奇殺人を犯したと供述、自分本人の人格は、

気さくで人を楽しませるもので、結婚して二人の子供を育てた普通の人間であり、ゼロから建設会社を起こした尊敬に足る人間だ


 

ゲーシーはシカゴ北部の中産階級の家庭に育った。放課後はアルバイトに精を出し、ボーイスカウトに参加した。活動的で教師や友人に好かれた。父親との関係以外は普通の子供と何ら変わらなかった。

10歳の時、心臓肥大で心筋症と診断される。11歳の時ブランコが頭部に当たり脳内に血塊ができたが、これは16歳まで発見されなかった。このことが原因で突然意識を失うことがあった。17歳の時、心臓病で入院。

10代後半、父親といざこざが絶えなかった。父親はアルコール中毒で暴力的だった。"sissy(腰抜けホモ)"と罵られ、激しく殴られるなど、年少期虐待が脳に障害を与えたため、定期的に一時的心神喪失になったと裁判では主張した。FBIのロバート・レスラーとの会見では、父親が「お前は変態だ」「お前は将来変態になる」と繰り返し言ったと述べている。しかし父親に認められたいと考えていた形跡があり、父親の死にひどく落胆した。

高校を中退後、自宅を出てラスベガスへ。葬儀屋で死体を扱う仕事をした。まともな職に就けず、シカゴの自宅に戻るが、家族は暖かく迎えてくれた。

大学の経営学部に進学、卒業。セールスマンとして頭角を現し、幹部候補としてよい成績を残す。イリノイ州Springfieldで紳士服の販売店を一つ任される。

この頃、肥満から心臓の状態が悪化、健康を害する。退院するも脊髄を病み再入院。仕事は続けた。

Springfield時代、働き過ぎで心労から入院しながらも、様々な地域活動に真剣に取り組む。役職はかなり高い。

  1. Chi Rho Club  議長

  2. Catholic Inter-Club Council  役員

  3. The Federal Civil Defense for Illinois 部長

  4. the Chicago Civil Defense       部長

  5. the Holy Name Society   副会長

 

1964年、同僚のMarlynn Myersと結婚、彼女の父親が アイオワでケンタッキーフライドチキンを経営していたため、ゲーシーは店を3つ任される。義父の指導を受け、平均して12時間、それ以上働くこともあった。仕事に熱心に取り組み、地域活動・ボランティアなどを活発に行っていた。このころ初めて娘が生まれている。

職場でゲーシーはホモセクシャルだという噂があったが、1968年Mark Millerに性的暴行を加えたとの容疑で起訴された。ゲーシーは彼が金のために性的関係を結ぶことに同意していたと主張。18歳のDwight Anderssonを300ドルで雇いMarkに暴行を加えさせた罪でゲーシーは逮捕された。 懲役は10年、26歳だった。直後、妻と離婚している。

収監中は模範囚で、18ヶ月後に仮釈放、シカゴに戻る。

 

gacyparty.gif (47850 バイト)収監中に暴力的だったが深く愛していた父親が死亡、かなり落ち込み、別れを言えなかったことを深く悔やんでいたという。

シェフとして働き始め、仕事ぶりは熱心だった。母親と4ヶ月同居、一人立ちしようとする。母親はゲーシーが更生しているのを見て家(8213 West Summerdale Avenue in the Norwood Park)を買うのに資金を出した。隣人たちとすぐ打ち解け、ポーカー・飲酒を共にしている。クリスマスに隣人Grexas一家のパーティーに母親と出席している。隣人夫妻は犯罪歴は知らなかったという。

免責になる3ヶ月前、バスターミナルで声をかけた10代の少年と性交したとして逮捕されるが、裁判に被害者が出席しなかったため釈放された。

1972年1月1日、2人の娘を持つCarole Hoffと結婚。彼女は離婚したばかりで精神的ダメージを負っていた。ゲーシーの犯罪歴は知っていたが、更生を信じた。彼女の証言によれば、セックスは全くなかった。

ゲーシーたち家族は隣人Grexas一家と親しくしバーベキューを楽しんだ。しかし、Grexas婦人はゲーシー宅を訪れるとネズミが死んでいるようなひどい臭いがしたと後になって証言している。パーティーが好きで時に300人を自宅に招いたこともあったが、訪れた人々も多くがひどい臭気を証言している。ゲーシーは床下のカビのせいだと言って、何年も“真実”を隠し続けた。

 


74年建設会社で塗装、装飾、メインテナンスを行うPDM Contractorsを創設。“人件費の削減”と称し10代の少年ばかりを雇用した。妻との性生活はなく、少年のヌード雑誌を愛読していた。

不眠症で、家を空けることが多く、家にいるときはせわしく身の回りの修理などしていた。この頃から同性愛と妻への暴力的傾向が明らかに見え始め、75年妻とは別居している。76年3月正式に離婚。

政治家になるという目標を持ち、会社の従業員も動員して、活発なボランティア・地域活動を行った。

ゲーシーは雄弁・有能で人々から一目置かれていた。地域への献身を認められ、街灯整備委員会street lighting commissionの財務担当書記官になった。

地元の政治家とバーベキューをし、青年商工会議所Junior Chamber of Commerceで指導的立場にたったこともあった。経営していた建設会社は成功しており、積極的な地域活動をしていた。

写真は2万人のポーランド系アメリカ人のためにイベントを実施したときのもの。通常はシークレットサービスが過去の犯罪歴などを調査することになっている。33人を殺害した異常者と大統領夫人が握手しているこの写真は、シークレットサービスへの激しい非難の原因となった。

 

カーター大統領夫人とゲーシー


Johnny Butkovich (17)は車好きでレースが趣味だった。

新しい部品を車に付けるためゲーシーの会社でアルバイトした。給料がよかったので喜んで働いた。

しかしゲーシーが突然“お前のための貯蓄”と称して給料を払わなくなった。

友人二人とゲーシー宅に給料をもらいに行ったが、ゲーシーは払わなかった。所得税を脱税していることを警察に言うと脅すと激怒して手が着けられなくなったため、彼らは諦めて帰った。

Johnnyは二人の友人を自宅まで送った後で失踪、2度と生きて戻らなかった。

 

 

相次いで失踪した少年

Billy Carroll, Jr. (17:写真)

Greg Godzik (17)

John Szyc (19)

Robert Gilroy (18)

 

 

 

Robert Piest (15)がアルバイト先のPDM Contractorから戻らなかった。母親が警察に連絡、ゲーシーは事情聴取を受ける

78年12月13日、アイオワで少年を性的に虐待した前科があり、隣人が悲鳴を聞いたことから、捜索令状をもって警察がゲーシー宅を捜索した。以下が確認された。

  • 紙に巻いたマリファナ、イニシャルJASと刻まれた高校の記念リング

  • 少年の免許証2枚

  • スウェーデン製の男性ポルノ雑誌

  • 亜硝酸アミル(興奮剤・催淫剤)

  • カーペットの汚れ

  • 手錠

  • 両端に2つずつ穴のあいた厚板。

  • 警察のバッジ

  • イタリア製の拳銃

  • 18インチのバイブレーター

  • 注射器と薬品の入った瓶

  • 少年用の衣服

  • ナイロン製ロープ

 

 

このときの捜索で床下からひどく異様な悪臭がしていたが警官たちは下水だろうと考え、それ以上の捜索はせず、警察署に戻った。しかし後に警察の追及で78年12月22日ついに30人の殺害を自供。

少年を自宅に誘い込み、手錠をかけ、騒げば口に靴下や下着を押し込んだ。性的暴行を加え、ロープで絞殺するという手口だった。埋める前に数時間眺めた。

少年たちの遺体は床下から次々と発見された。中には下着が口に入ったままのものもあった。27体の遺体が発見された。残りの死体は“埋める場所が足りなかった”ため川に捨てたという。警察がテラスのコンクリートを壊して捜索するとさらに男性の遺体が発見された。

Piestの遺体はイリノイ川で発見された。かけられた土が強風で飛び遺体が露出したため運良く見つかったが、死因は喉に詰まったペーパータオルによる窒息死だった。家族は、ゲーシーを殺人で、警察を職務怠慢で8500万ドルの訴訟を起こした。

            


裁判


1980年2月6日裁判が始まった。陪審は女性5、男性7。

検察側は計画的で冷徹かつ周到な方法で32人を殺害したことを主張。60人の証人が呼ばれ、生き残った被害者がゲーシーの手口を法廷で証言した。

被害者やその家族が証言していても後悔や反省を見せることは全くなく、人を馬鹿にしたような態度を取りつづけた。中には法廷で我を忘れて叫び出したり、おぞましい記憶から吐く証人もいた。

弁護側は突発的・衝動的な犯行であり精神障害だと主張。精神障害者の更生施設に収容すべきだとした。

ゲーシーの母親や姉を呼び、アルコール中毒の父親に"sissy(腰抜けホモ)"と罵られ、激しく殴られるなど、年少期虐待が脳に障害を与えたため、定期的に一時的心神喪失になったことが連続殺人の原因とした。

弁護側の証人、隣人のLillie Grexaがゲーシーは"聡明な人物”だと言ってしまい逆に窮地に追い込んだ。

弁護側の精神科医は、"精神分裂病と多重人格障害のせいで殺人の重大さを認識できず、殺害時には精神的な障害があった”と指摘。

しかし陪審は評決まで2時間しか審議せず、33人を殺したことで有罪となり、死刑判決。

 

Menard Correctional Centerに収監。

数年にわたり再審請求を繰り返したが、1994年毒物注射によって処刑。

執行官が3種類の毒物を腕に注射した後、6分ほど生きていたという。

証人の一人、Bill Kunkleは“ヤツは6分間余計に生きやがった”と述べた。

最後の言葉は "Yeah!  Kiss my ass!"

52歳

 

 

 

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