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ただ、日本とアメリカは治安の状態が根本的に違う。
●殺人や強姦などの暴力的犯罪の発生率はおよそ日本の10倍
●しかも毎年100万人近くが行方不明
(埋める場所がたくさんあり、犯人も手口を研究し尽くしている。戸籍がないことも要因)
●殺人の検挙率が驚くほど低い
(95年ロサンゼルスでは認知件数の約1/3)
という日本人には考えられない治安の悪さが、アメリカの現実である。
法的確信(opinio
juris)という言葉がある。簡単に言えば、「法律を守らなければいけない」という一致した意識がある場合のみ、法律というものは存在し得るということだ。つまり、規制をしようという国民の過半数の一致した意見がえられない限りは、検閲をすることは不可能だ。
児童ポルノが比較的速やかに国際的規制の下に置かれたのは、それを規制することに各国間で一致した法的確信が得られたからだ。
検閲とは、行政権が、出版物の出版前に、思想内容を審査し、不適当と認めるものの出版を網羅的に禁じることとされる。
検閲の是非は時代とともに論点が大きく変わってきたが、アメリカで暴力的ポルノ規制論が主流になることは、残念ながらこれからもないだろう。
そして筆者も残念ながら検閲には反対で、民間の自主規制で対応するのが最も妥当だと考えている。それは、人間の社会というものが古今東西、常に「無菌室」ではあり得ないからだ。
人間の社会には殺人・戦争・暴動などの暴力が存在するのが通常の姿であって、そうした社会的問題を根絶することは一度として出来なかったし、これからも出来ないだろう。
検閲の議論は、少年犯罪が起きた時に「偏差値教育」のせいにしたがるのと同じ論理構造だ。叩きやすい標的を無責任に攻撃して喜んでいる偽善者が社会を変えられるとは思わない。
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