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被害者はショッピングモールで少年二人によって誘拐され、4キロ離れた犯行現場まで連れて行かれた。手を引いているのはジョン・ベナブルズ。

ジェイムズ・バルガー(2才:写左)の遺体は線路に直角、頭を内側にして置かれていた。腹部にレンガが乗せられており、着衣のない下半身は、電車に轢かれたために、上半身から枕木7本分(4.5m)先に飛び散っていた。上半身の周辺には脱がされた衣服が散乱していた。
レンガの下から発見された下着は血に染まっていた。頭部・顔には多数の傷、頬に蹴られたと見られる靴の痕があり、下唇の一部がちぎれていた。死因は鈍器による頭部打撲で、頭蓋骨は砕けていた。
司法解剖で裏づけが取れた供述を総合すると、暴行の内容は、持ち上げて顔から地面に落とす、鉄棒・枝で顔を殴る、レンガを顔や腹に投げつける、塗料の缶を顔に投げつけるなど凄惨なものだった。さらに下半身の下着を脱がせ血まみれの頭部にかぶせ、さらに石を投げつけた。
真相は不明だが、被害者の性器に損傷があったため、下着を脱がせたことが性的虐待のためだった可能性がある。ただ、加害者2人は「頭からの出血を止めるため」にしたとしている。レンガを乗せたのも止血のためだったという。
被害者に塗料の入った缶を投げつけたために、塗料が顔や遺体周辺に飛び散っていたが、これが「チャイルドプレイ3(精神異常者が人形に乗り移る。7件の殺人を詳細に描写)」の影響ではないかということがイギリス中で大議論になった。殺害の直前にジョンの父親がこの映画を借りた記録があり、映画の中で青い塗料を使用した場面が、本件と似ていたためだ。判事も判決の中で「説明の一部になる」としている。
犯行の直前にも二人は問題を起こし学校ではトイレに行くときすら監視がついた。この頃、ジョンの担任教師は「彼は自らの非を認め、非常に素直だった」としている。その反面、学校では「必ず誰か殺してやる」と豪語していたという証言がある。
動機についてはただそうしたかっただけとジョンが供述、ロバートはジョンがやっただけで、自分は殺す気はなかったと述べている。ただ、ジョンは事件について後悔や謝罪の言葉を述べているが、ロバートはひたすら罪をなすりつける供述に終始している。なお被害者の頬の蹴られた跡は、ロバートの靴と一致した。
事件後、マスコミが学校や二人の自宅に殺到。二人の家族は自治体から支援を受け、誰にも知られぬまま新居に引っ越した。
なお、映画チャイルドプレイに関しては、ブラジルの首都ブラジリア近郊で、9歳の少年がテレビ放映後、友達の7歳の少女を刃物で20カ所以上刺し負傷させたことが問題となった。テレビ局SBTは、番組の前に「14歳以下には不適切」との告知を流したと釈明したが、カルドゾ大統領は「マスコミに番組の自主規制を求めたい」と発言、テレビ局に対する批判も出ている。 自宅で少女と一緒にテレビを見ていた少年は台所から刃物を持ち出し、少女の背中などを刺した。少年は、放映された映画をまねたと証言。少女は入院したが傷は浅く命に別条はなかった。
事件の背景
犯行現場はウォルトンレイン警察署から北へ50mの場所だった。現場付近は失業率が30%で、自家用車を持っている家庭が1/3と貧しい地域だった。

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ジョン・ベナブルズ(Jon
Venables:左) |
1982/08/13日生。父29歳、母25歳。目に斜視の障害。父親は当時、ビスケット工場のフォークリフト運転手。兄弟は3歳上の兄、一つ下の妹。長男は先天的に口蓋裂(唇が裂けている)があって、いじめられており、言いたい事を言えないために突発的に激怒することがあった。そのため特殊学級に通うことになった。
両親は1986年に別居、その後離婚。父親は別居の2-3年前から失業しており、障害を抱えた子供と2人の乳児を育てるのは困難だった。父親は車で子供たちを遊びに連れて行ったり、幼稚園に送り迎えを欠かさないなど努力はしていた。また、母親の所に泊まりに来たり、留守中に子供の面倒を見るなどしていた。
86年母子は当選した広い公団住宅に移る
87年01月、母親は鬱病に
学校の通信簿には周囲と打ち解けないと書かれており、学校では集団的いじめを受けていた。90/06、カウンセラーに相談、「何事にも無関心で集中力に欠ける」と診断。
兄に続いて妹も授業についていけず、特殊学級に移る。
91/01頃、ジョンの担任が異常に気づいた。ジョンは机を両手でつかんで体を前後に揺らしながら奇声をあげたり、うめいたりするようになった。また、担任の机の上のものを払い落とす、壁に頭を激しく打ち付ける、突然行方不明になるなどの異常行動も見られた。
成績は最低レベル。自宅での行動も常軌を逸しており、障害をもつ兄のヘルパーや母親に対して反抗し悪態をつくようになる。また、いじめを受け、疎外されていた。
ヘルパーは、兄・妹へ父母の注意が注がれていることに不満をもっていると考えた。それは兄妹のしぐさをまねる事が多かったからだ。
1991/03、修学旅行への参加を学校に拒否された。奇行はエスカレート、体をハサミで傷つける、壁の掲示物を破り捨てる、顔に紙を貼り付ける、机に乗って椅子を投げる、コート掛けに逆さづりになるなどした。ソーシャルワーカーは人口添加物が問題ありとして食事療法を試み、精神科医も神経過敏症として治療を行った。しかし、木製定規で、顔色が変色するほど強く同級生の首を背後から締め上げる事件を起こす。担任はこの時本当に殺そうとしているように見えたと述べている。この事件をきっかけに転校、共犯のロバート・トンプソンに出会う。
ジョンは父親の家に出入りすることが多くなる。父親はロバートの評判が良くないことを知り、ジョンに一緒に遊ばないよう忠告、自宅をロバートが訪れても追い返した。両親はよりを戻そうと努力、週の半分は父親の家で一緒に過ごすようになる。両親は一緒に借りてきたビデオを見るなど、関係は修復されつつあった。
しかし情緒障害は収まらず、周囲と問題を起こしていた。ただ、この時の担任は問題行動こそあるが教室では大人しかったと述べている。ただ、1992年前学期(秋期)には140日中49日欠席している(ロバートは50日)
起訴後の精神鑑定では、特に目立った異常は発見されず、無人島につれて行きたい人物として、母親を筆頭に父親や兄弟・祖母を上げており、幼少期は他の子供と変わらない幸福な生活だったと述べている。ただし、嘘をつく度合いが高いことは明確に確認された。
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ロバート・トンプソン(Robert
Thompson) |
両親は1971年結婚、当時二人とも18歳。母親は7人を出産。テレビもない貧困状態だった。父親は電気技師見習、アルコール中毒で、妻子に暴力を振るった。結婚1週間で結婚証明書を破り、流しに水を張って妻の頭を押し込むなどの暴行を加えた。
母親は夫の家族と仲が悪く、ののしり合いは絶えることはなかった。1977年長男デビッドが母親から虐待。目の周りに黒いあざ、火傷のあとがみつかり、児童保護リストに登録された。
78/11、母親は精神安定剤ベイリウムを大量にのみ自殺未遂。
80年頃からは、幼い両親も小さいことで喧嘩しなくなった。父親は電気技師として腕を上げ、現金収入も増えた。仕事先で古くなったキャンピングカーをもらってきて家族で毎週のようにキャンプに行った。80年代前半は一家にとって問題のない幸福な時期で、犬を飼い隣人と家族ぐるみでキャンプに行った。
しかし88年、体重114kgとなった妻に嫌気がさした父親が浮気、母親は相手の女性を子供の前でティーポットで殴り怪我をさせる。父親は浮気相手と失踪、家に戻ってくるが、険悪な関係は修復不可能な状態に達した。
88/10/16日、父親は家を出て行く
漏電で自宅が火事に見舞われ、一家は福祉施設に収容。この頃から母親は精神科医にかかるようになり、アルコール中毒に。
兄弟の非行もひどくなった。4男フィリップはシンナー・マリファナを吸い、窃盗、放火などで逮捕、更生施設に入る。
母親はコインランドリーで知り合った男と関係を持つようになり妊娠・出産する。男はしばらくして失踪。
=== 事件の解説 ===
イギリスでは「子供と青少年法(1963)」によって刑事責任を問えるのは10歳以上、14歳までは責任能力が限定されている。この少年法が施行される前は中世からずっと7歳以上だったが、1933年に8歳に引き上げられた。
最後に死刑になった未成年者は1831年の強盗殺人犯ジョン・エニー・バード・ベル(14)で、5000人の公衆の前で絞首刑になった。
なお、中世には靴を盗んだとして火あぶりになった13歳の少年など多数の事例がある。なお、江戸時代の日本では15未満の死刑は禁止されていた(「徳川禁令考」後集第4・99。公事方御定書79条。子心にて無弁人を殺し候もの、十五歳まで親類え領置、遠島)。
2001/04月に犯人は二人とも釈放。裁判所の命令により、一切の報道が禁じられ、名前も変更。少年二人は自らの罪によって不利益をこうむることはないようだ。
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