2005-01-09 エイドと監査
2, 3日忙しくてなんだか書けなかった。忙しくても書きたい時は書くのだから書きたくなかったということかもしれないわけだが。
私が書こうと書くまいと世界は日々ニュースであふれかえっていたわけだが、これは結構目を引いた。
http://www.excite.co.jp/News/odd/00081104995979.html
国境なき医師団(MSF)のフランス支部には4000万ユーロ(約56億円)、ドイツ支部には2000万ユーロ(約28億円)の資金が集まっていて、スリランカ、インドネシアで展開している救急医療支援プロジェクトの資金としては十分だ、ということだそうだ。そこでピエール・サリニョン長官は次のように発表した。
「こうした決定を下すのは初めてのことです。一般の人々が立ち上がっているムードに逆行するものと思われるかも知れません。しかしこれは献金者に対す誠実さの問題なのです。すでに資金が集まっているプロジェクトに献金してくださいと、世間に訴えるわけにはいかない」
私はこれを誠実なものだと思って見たわけだが、そんなことはどこ吹く風的に、世の中は動いているらしく見える。あるいは世界中の殆どの人はこのニュースを知らない、メディアが追わないから、と思ったりもする。MSFのページでも気にしてない風だ。
ロイターが伝えた記事の英文はここ。
http://uk.news.yahoo.com/050104/80/f9mlk.html
エイドを集めるのはいいんだが、これをどう使うかの枠組み、あるいは、実効主体と、そうして大事なことだが監査にあたるところ、ってのはない。善意でやってることだからすべてが善意で終るわけもない。そんなことはないと考えたい人はそう考える自由はあるが、そうはならないと考える自由もある。
国家ごとのプロジェクトなら、結果的にはボロボロだとしてもいつか納税者からつっつかれる可能性はある。しかしその他の組織の場合、エイドをした人びとによる監査は普通ない。寄付をすることと税金を払うことって、ようするに、自発的か強制的かの差があるだけで、ぶっちゃけて言うなら、オレの手元に落ちてきたものをオレのためだけではない目的のために使うためにオレが金を出す、っていう構造は同じだ。
で、対比的に、国連ってあきらかに後者にあるのじゃないのかと思ったりする。基本的に、支払う人びとと使う人と、使われる人に繋がりがない。少なくとも相互に知らされてない。ある意味で通常の募金活動より構造的には不透明であり得る。規模が大きいだけにどうなっているのかトラックするのが難しそうだ。
でもって、国連ってまったく凄いことに、誰がお金を払っているのかわからないお金でプロジェクトを動かしてまったく問題がない、という思考習慣を世の中に広めたという側面もある。
■ Tsunamiってさ
ツナァミィ(tsunami)ってさ、ホントのこと言えばオレはポケモンの新しいキャラクターか何かと思ったんだよ、最初聞いた時。
笑ってしまったが、tsunamiって初耳だった人は世界中に五万(もっと)といるだろうなぁと思った。tidal waveと書いている場合もあるんだが、時間がたつにつれて英語圏の表記は例外なくtsunamiになってきたようだ。
で、笑いながらももしポケモンと結びついた耳の人がいるとしたらその人の耳はいい耳だなとも思った。なんだかわからないが、日本っぽい音だ、って思ったわけだから。名前とか場所を聞いて、なんとなくそれって日本、それってスラブ語のどこか、みたいな発想ができる人ってのはマルチカルチャー万歳のお土地柄だからかもしれないが、ここには結構いる。日本人の名前ってののある種の漠然としたイメージを持つ人はトロントなどで見ると少なくはないと言っていいと思う。
■ NGOとガバナンス不在世界
国際人道援助の投資戦略
http://shinta.tea-nifty.com/nikki/2005/01/donation2.html#more
R30::マーケティング社会時評さんが、援助というか、寄付行為について考察されていた。ただ、「人道援助」と「投資」って、このなんというか、投資というのは当然リターンを期待した行為なわけで、それを直接的に結び付けるのかと、このタイトルには私はいくらか引いた。
しかしながら、誰でも知っている通り実際には多くの国も 個人 も有形無形を問わぬリターンを期待するから援助をするという側面はある。隣国や近隣地域、あるいは遠いけどなんらかの理由で交流のある地域で事が起こった場合に自らが援助行為をなすことは、経済的な波及として、あるいは治安の悪化に伴う波及から自分を助けるという側面もある。もちろん、非常に困っている人がいることを見捨てる行為が自分たちの価値を損なうと考えてもいいし、これによる道徳的な退廃を防止するために 寄付 行為をしている、とも考え得るし、そうならそれはやっぱりリターン期待と言っても悪くはない。
ただ、それでもやっぱり、それらのリターンは、 津波 が多くの島々によって分散されて 日本 には来ないんじゃない、多分、と踏んだであろう 日本 の気象庁 が成す判断程度に、だいたいあたってはいるが確実とも言えないし *1)、 北京 で起こった蝶の羽ばたきが フロリダ でハリケーン になるかもしれないんだよ、という確率でのリターン期待であり、そうしてもっと考えてみれば、 リスク 回避の手段はなんら設定されていないという 意味 で、 投資 判断とは言えない。
1) ここは冗談で書いてるけど、日本の気象庁だか地震研究班だかの判断というのはどういうものだったのだ? ブラジル東部でも津波が観測されているわけだし・・・。
とりあえず、この問題([捕捉:投資と援助の関係])は置くとして、この論考には気づいておくべき点がたくさんあるし、なぜ氏がこれを起稿したのかといえば、下記の状況を呆然と見ているだけなのか、オレたちは、という点についての憤慨ないしは義憤がその主要な モチベーション であったかと思う。その 意味 で、志は理解したつもりではいます。批判的な書き出しをしてしまったことで気がとがめているわけですが・・・
国連 傘下の各機関や海外の大手NGOなどはこうした人道援助産業の「コングロマリット」を形成している。彼らにとって、 日本 というのは活動資金となる「 寄付 」を集める巨大な 資本 市場だ。
コングロマリットかどうかは知らないが、カナダ、アメリカでの生活体験から言えるのは、ここにはともあれ膨大な数のNGOやNPOというものが存在していることは事実だし、またその下部なのかお友達なのかなんだかわからない団体がよく言えばネットになっている、悪くいえば、外からは全然訳がわからないように繋がってる、といってもいいといこと。で、多くの場合それらの目的とするところは、人道、つまりhumanなんとか、といった案件についての集合体なので、一見するとやってることはとても正しく、素晴らしい、是非私も賛同します、となることが多い。
が、しかし、彼らの行為が実際どこまでどうなのかというのはよくわからないことも多い。といって私はすべてについて批判的になっているわけでは全然ないし、基本的には、なんでもまぁ、私的な団体だと思えば別に目くじらを立てることもないような場合の方が多いだろうとは思う。私自身は結社集会の自由は認められた方がいいに決まっているので、なんでも設立してもらって全然いいよに決まってる、という態度で臨んでいるいる。human系とは一線を画しているが、病院を主体とした特定の研究を目的としたNPOが資金集めの手段としてロッテリーなんかやってたりして、なんかこう思いは複雑。この集金方法によってお金が集まるのはめでたいわけだがこのようにして斜幸心を煽られるケースが増加した場合の長期的な結果は公共の福祉を損なうものになりはしないのか、など考えないでもない。でもまぁ、ここの人たちがそれでいいっていうんだからもうしばらく観察していてみよう、といった態度で私は臨む。
実際問題、その活動領域がある国の国内活動にだけ従事しているというのなら、おのずから彼らの行動には制限がかかるのだし、賛否にもガイドが設定されているようなものではある。というのは、ある法体体制が維持されているのなら、そこには倫理 規範 が外在的にではなく内在的に存在しているからだ。そこから外れるのは良くも悪くも難しいし外れれば賛同は得られがたいものだ=お金も集まらない。だからこれが ガイドライン となる(動くにしても順次となる)。
問題は、それが国境を超えて、つまり、inter--nationalになっている場合。例えば、 カナダ にとっての難民のステイタス及び受け入れと、 日本国 のそれとは異なっているのだし、そうなってきた背景、理由もある。が、難民を助けることはいいことだ、となったら最後、どこの国であっても殆ど強引なまでにそれが正しいと譲らないケースまたは人びとが登場する。
具体的なことは今回は遠慮するが、いや、なんつーか、心から、これは困ったことだと思った経験が実はある。
つまり、各国ごとの法制度とそれを支える倫理規定、倫理的 規範 は異なっているのだが、一旦、これが「善意」、あるいはこれが「 正義 」という道を敷かれてしまうと、突き付けられた側にとってはその ルール は外在的なものだから、最初っからすんなりとはいかなかったりすることの方がむしろ自然であるケースだってあるだろう。が、多くのNGOとか、 NPO というのは、政府というある法的団体の代表者を介さないケースが多い。少なくとも心情的には、「人と人」 ベース で、「善意」は必ず勝つ的な発想をしている人がないとはいわない。結果、現実問題としては、彼らの行動は、思想的には実効支配的であるケースもあり得る。(メディアを使おうとする人は基本的には実効支配的なものを志向している。)
経済と 情報はグローバル化した;しかし 政治 の領域、つまり 個人と法の関係はグローバル化してはいないし、できるのかどうかもわからない;これが現在の実情だ。つまり、世界規模のガバナンスは存在していない。
と、そこにあってのinter--nationalな組織への 個人 のコミットメントをどうするのか、というのは結構難しいものがあるし、 日本 はそれら国際組織にとっての集金市場ではあるらしいが、それで一体自分たちは何をしているのかというのは、実にまったく困惑させられる事態になっていることは疑いもないと思う。 で、これを個人の問題、思考や発想の問題としてだけ読み説くのはちょっと限界かなと思ったりもする。もちろんそれが根幹でいいのだが、私たちって、グロバール・ガバナンスはどういうものが望ましいものだと思ってる? という問いも同時に用意されるべきなんだろう。そうでなければ、私たちはいつまでも集金市場かもしれないし、その枠内で善意を語るってのも悪い選択ではないが、納得できない人がいても不思議ではない。
なんか、話がエラク大きい。困った。でもこれが2005年から数年のコアの問題だと思う。と考えてくると、スマトラの地震のタイミングというのは一体なんでしょう、ではあるのだ。
■ 震源近くは5弱か5強
震源近くは5弱か5強 米地質調査所推計値
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050108k0000m030152000c.html
日本の震度では5弱〜5強で、タイやスリランカの揺れは1〜3(日本の震度で1〜2)とさらに小さく、被害のほとんどは津波によるものだった可能性が強まった。