約束の行方 (12) [小説: 約束の行方]
しばし呆気に取られた。
さっきまで電車に乗っていたはずで、まだ多摩川を渡るところだった。
横浜市内の最寄り駅までたどり着いていなかったというのに?
だけど、確かに私はここにいる。
間違いなく、ここはマンションの5階で、今は父が一人で住んでいるはずの実家の部屋の前だ。
考え事をしているうちに、いつの間にか私は、電車を降りて、ちゃんと改札を抜けて、駅からの道を歩いて、エレベーターで昇って、ここまで来てしまったんだろう。
そう思うしかない。
断片的に記憶を失くすくらいにきっと疲れきっているのだろう。
気を取り直して、私はバッグに手を突っ込んで、鍵を取り出した。
父は用心深い人で、いつも、在宅でもきちんと戸締りをしている。
鍵を開けてドアをあけると、ほんのりとご飯の炊けるいい匂いがした。
薄暗い家の中で、キッチンの灯りだけが灯っている。
約束の行方 (11) [小説: 約束の行方]
気が付いたら、紺色の扉の前に立っていた。
503、という部屋の番号の下に、『山下 昌則』と父の名前が刻まれたプレートがあった。
振り返ると、見慣れたチョコレート色の柵の向こうに、夕焼けの赤いフィルタに沈む街が見下ろせた。
車の流れが絶えない駅前の道路。
角のコンビニエンスストア。友だちのお父さんが経営している小さな印刷工場。
銭湯の煙突。小学校のコンクリートの四角い建物と、校庭。
学校から、チャイムと同時に『夕焼け小焼け』のメロディが流れはじめた。
五時を知らせる音。
子どもの頃、「あれが聞こえたら帰ってきなさい」と言われていたメロディ。
シンデレラみたいだったなあ、と今思うと少しおかしく、懐かしい。
夕焼け小焼けで日が暮れて
山のお寺の鐘が鳴る
お手手つないで 皆帰ろう
からすと一緒に 帰りましょう
(詞: 中村雨紅)
約束の行方 (10) [小説: 約束の行方]
「これ以上時間を無駄にできない」
隣の女性の声に再び我に返った。
彼女はひどく切羽詰った様子で迫った。
「あなたの名前を教えて」
「えっ? なんで?」
「冗談だと思ってくれていいから、名前を言って。もしその人に会いたいと望むなら」
別に彼女の言うことを理解したわけでも、信じたわけでも、ない。
もしかしたらちょっとおかしい人なのか、新手の詐欺かもしれない、と思いながら、別に名前を言うくらいどうということもない、と考えただけだ。
「山下希実」
私は小さく自分の名前を告げた。
もし、会いたい、という気持ちが少しもなかったなら、言わなかったと思う。
「山下、希実さん」
彼女が私の名前を繰り返した時、ひんやりと冷たいものが手の甲に触れた。
驚いて見ると、座席に投げ出したままの手の上に、彼女の手が乗っていた。
次の瞬間、地球の中心に引きずり込まれると思うほど、座席も線路も川もあらゆる物質を越えて真っ暗な闇にすとーんと体が落ちていくのを感じて思わず固く目を閉じた。
約束の行方 (9) [小説: 約束の行方]
木の箱に納められた母の体の上に新聞紙でくるんだドライアイスが置かれた時、死んだ人間の体はただの物として扱われるんだ、と強烈に思ったことを覚えている。
泣き出した私を、親戚のおばさんたちが「まだ若いのにつらいわね。かわいそうに」と口々に慰めてくれたけれど、そうじゃない。
私は取り返しの付かないことをした愚かな自分が悔しくて泣けたのだ。
母に見せた最後の顔は寝起きの仏頂面だった。
そして何より約束の五時に家に帰らなかった。
父からの電話で急を知って病院に駆けつけた時には、死亡宣告を受けた後だった。
二度と謝ることはできない。
現実に流れる時間の中では絶対に取り戻すことのできない機会を失ってしまった。
いつでもそこにいると思って甘えていた。突然いなくなることがあるなんて、考えたことがなかった。
娘の親不孝を、父が叱ることはなかった。
そのことが余計につらかった。いっそ、お前のせいだ、とでも言われた方が百倍ましだった。
私は思い切り叱られたかったのだ。
できることなら、誰よりも、死んだ母に叱られたかった。
約束の行方 (8) [小説: 約束の行方]
あの日、私が家に帰ったのは七時だった。
母の指定時間より遅かったことに罪悪感はあったが、門限は守ったんだからいいだろう、と開き直ってもいた。
ポケットに入れた手の中に残る彼の掌の温もりとプレゼントのピアスで幸福感に満たされていたから、その他のことには関心がなかったのだ。
「ただいま」と声をかけても、誰も何も言わなかった。
家中の灯りは皓々とついているのに。玄関には父と母の靴が並んでいるというのに。
二日連続はまずかったかな、とさすがの私も反省した。
きっと怒って無視を決め込んでいるのだろう。
私は気まずい想いを抱えてキッチンに向かった。
キッチンには、冷えた蛤の吸い物とデンブのピンク色と卵の黄色が鮮やかなちらし寿司。駅前のケーキ屋の箱。ワインのボトルと三つのグラス。
そこに母の姿はない。
隣のリビングを覗いた。そこにも、誰もいない。
ちらりと嫌な予感が頭をよぎった。
実際、その頃にはくも膜下出血で倒れた母は救急病院で生死の境を彷徨っていたのだ。