漢字嫌い [2005年6月]
漢字嫌い
このブログでよくネタにする「サヨク」の人達は、ときに漢字を忌避しているように思えることがあります。ここでは実際に漢字を排斥していことする団体についてご紹介したいと思います。
これは、子どもと教科書全国ネット21というHPのリンクにある国字研というHPのリンク先にあったものです。
ただ、ここは先に述べたサヨクな人達なのかは不明です(先日のエントリで予告したときはそう思っていたのですが・・・)。ただ、不思議な世界でありますのでご紹介したいと思います。
その団体とはカナモジカイ。
まずは、会の主旨から見て頂きましょう。
-----引用開始-----
私たちは、日本語の表記(文字)について考え、その改革をめざして運動しています。
漢字は字数があまりにも多く、また、使い方も音読み・訓読みそれぞれいろいろあり、規則性がなさすぎて学習にムダな時間がかかり、しかも日本語の本来のすがたをゆがめています。また、もとからの日本語にたいしては、漢語の乱用の結果、これにおきかわってしまい、そのため聞いただけでは分かりにくい言葉が多くなっています。
漢字をあつかうことのできるパソコンやワープロの出現により、漢字による事務の非能率についての問題も解決されたかのように考える人もいますが、漢字変換をしなければなりませんので非能率はかわりません。
カナモジカイは、この問題に早くから気がついた人たちにより、1920年に創立され、日常使う文字としては、漢字を廃止して、横書きのカタカナを用いることをことを訴えて運動してきました。世間ではカタカナは読みにくいと感じる人が多いのですが、これは書体の改良によって解決できます。
実際の運動としては、この横書きカタカナばかりでなく、横書きがふえるのも、漢字がへるのも、それなりの収穫と考えていますので、機関誌「カナノヒカリ」やこのホームページでは、ほかにもいろいろな書き方をこころみています。
このホームページを訪れてくださったことを機会に、文字とコトバの問題についてお考えいただければ幸いです。
-----引用終了-----
とりあえず、この会の主旨の中からサヨク的な匂いを嗅ぎ取ることはできませんでした(それでも十分不思議な世界ですが・・・) 。
>漢字は字数があまりにも多く、また、使い方も音読み・訓読みそれぞれいろいろあり、規則性がなさすぎて学習にムダな時間がかかり、しかも日本語の本来のすがたをゆがめています。
漢字に字数が多いというのは、上の国字研というところも同じ主張です。
音訓があることで規則性がなさ過ぎる、学習にムダな時間がかかるというのはどうでしょうか?私はそのように考えたことは一度もないので彼らのこの考えは理解ができません。尤も、今から「日本語」を学ぼうとする人にとってどうかと言えば難しい言語なのかもしれませんが、少なくとも普通の日本人であれば、私の感覚に近いのではないかなと思います。この国が好きとか嫌いとかに関係なく。
日本語本来の姿を歪めているというのは、どういうことなのでしょうか?
本来の日本語というものがどのようなものか浅学にして知りませんので、判断がつきかねますが、少なくとも私の身の回り(親の年代ぐらいまで)にいる人にとっての日本語とは、常用漢字が混じった日本語が普通の日本語であると思います。
彼らの言う、本来の日本語が私の知るそれと異なるとしても、現在の日本語で十分に意思の疎通ができていることを考えれば、それを変えるというのはかえって歪められる(彼らにとっては正常化するとしても)ことになるのではないかと思います。
>もとからの日本語にたいしては、漢語の乱用の結果、これにおきかわってしまい、そのため聞いただけでは分かりにくい言葉が多くなっています。
漢字を乱用したことによって、元のものが置換されたというのが彼らの主張どおりだとしましょう。しかし、それによって「聞いただけでは分かり難い」とはどういうことでしょうか?彼らは、日本語の表記について考え、改革を目指していると言います。ということは、聞く分には違わないが読み書きに支障がでている(と彼らが考える)部分を変えていこうとしているのではないでしょうか。
ならば、聞いて分からないというのは、妙ですね。
尤も漢字に置換されたときに、「音」まで変ったのかもしれませんから、一概には言えませんが。
>漢字による事務の非能率についての問題も解決されたかのように考える人もいますが、漢字変換をしなければなりませんので非能率はかわりません。
漢字による事務の非効率というのは、よく分かりませんねぇ。漢字変換が非効率というのも理解できませんね。彼らが言うところの効率のいいカナモジとは次のようなものです。
>スモモ モ モモ、モモ モ モモ、モモ ニモ イロイロ アル
これを普通に変換すると
李も桃、桃も桃、桃にも色々有る
になります。まず大きな違いは、漢字によって余分なスペースが要らないということ、そして品詞の違いが表記によってはっきりすることです。彼らはわかりやすくするために「分かち書き」(上のようにスペースを空ける)を推奨し、それが英語などのそれと同じだと言います。
また、漢字で書かないと分からない、分かり難いものについては、「コトバ選び」「コトバ直し」という方法を取るようです。その部分を引用すると、
-----引用開始-----
漢字で書かなければ意味がわからなかったり、取りちがえられるオソレのあるコトバは、避けなければなりません。「ヘンシュ スル」(騙取する)ではなく、「ダマシトル」と書きましょう。「バイカ」では「売価」か「買価」かわかりません。「ウリネ」、「カイネ」と書きましょう。
-----引用終了-----
自分達の主張を正当化するために、このようなことを求めているのですが、なぜそうしなければならないのか?という根源的な疑問は解消されません。無用なスペースにしてもこういう書き直しにしても、それだけの手間(現状に比べて)をする必然性というものが彼らの主張からは、スポンと抜け落ちているように思います。
漢字の字数が多いから、音訓読みが面倒だから、かつてはそうだったから、という理由では、得心できるものではありません。
彼らは、読み難いという批判に対して、次のように弁明します。
-----引用開始-----
おそらく皆さんは、カタカナだけの文章なんて読みづらいとお思いでしょう。カタモジ文が読みづらいとしたら、その原因のひとつは「慣れ」の問題です。皆さんのほとんどは、こどもの頃から「漢字かな交じり文」に慣れ親しんできましたから、それと違った文を見て、読みづらいと感じるのは当然です。慣れれば読みやすくなります。
もうひとつの原因は「書体」にあります。
英語では、漢字ではなく、アルファベットで書きますが、慣れれば読みづらいとは感じないでしょう。それは、たとえば「dog」ならば「d」「o」「g」と一字ずつ読んでいるわけではなく、「dog」を「語形」として、ひと目で理解しているからです。カタカナの大部分は、本来、漢字の一部(だから「片カナ」なのです)ですから、「語形」をつくる力が強く、たとえば「イヌ」ならば、それがひとつの語形として、ひと目で理解できるはずです。ところが一般に使われている「明朝体」や「ゴシック体」は漢字と交ぜて書くことを前提に設計されたものなので、「語形」をつくるということは、まったく考慮されていません。
-----引用終了-----
詭弁もいいとこです。
>カタモジ文が読みづらいとしたら、その原因のひとつは「慣れ」の問題
>こどもの頃から「漢字かな交じり文」に慣れ親しんできましたから、それと違った文を見て、読みづらいと感じるのは当然
確かに、幼少の頃からこのカナモジなるものを学べば、というより漢字がない状態だとしたら、慣れることもあろうかと思います。しかし、それは仮定の話であり、現にカナモジでない漢字交じりの言葉に慣れ親しんでいる人にとっては、無用のことです。
今、漢字交じりで意志の伝達などで難渋することが問題になっているというならまだしも、そこに大きな問題がない状態で、読み難い、分かり難いというハンディがあるカナモジを習得する意味も慣れる必要もないでしょう。
>英語では、漢字ではなく、アルファベットで書きますが、慣れれば読みづらいとは感じないでしょう。
>たとえば「dog」ならば「d」「o」「g」と一字ずつ読んでいるわけではなく、「dog」を「語形」として、ひと目で理解している
>カタカナの大部分は、本来、漢字の一部(だから「片カナ」なのです)ですから、「語形」をつくる力が強く、たとえば「イヌ」ならば、それがひとつの語形として、ひと目で理解できるはず
>「明朝体」や「ゴシック体」は漢字と交ぜて書くことを前提に設計されたものなので、「語形」をつくるということは、まったく考慮されていません。
ここに至っては詭弁ですらないというか、みょうちきりんです。
「英語では漢字ではなく、アルファベットで」って当たり前じゃん。慣れれば読みづらいと思わない?確かにそうでしょう。
ただ、日本語を知っている人がカナモジを習得するのと違って、英語を習得するという目的があり、それに慣れる必然性があるという違いはありますけどね。
この人達は、dogを一つの形(語形)として認識しているようですね。3文字なら、まだいいでしょう。これが「language」とか「japanese」とかでも形で覚えるんでしょうかね。これじゃあ、かえって自説の弱さを露呈していることになりませんかね。
更に、「イヌ」を例にとって、形が覚えやすく、一目で理解できると言いますが、なら「犬」でもいいでしょう。形も単純だし、画数も同じで文字数は漢字が一つ少なくて済みますがねぇ。
フォントがどうのこうのと言っていますが、語形で言葉を覚えることが文字数などによって困難ならば、語形を意識したフォントを作っても解消されないでしょう。
最後に彼らの意図ですが、
>この横書きカタカナばかりでなく、横書きがふえるのも、漢字がへるのも、それなりの収穫と考えています
>1920年に創立され、日常使う文字としては、漢字を廃止して、横書きのカタカナを用いることをことを訴えて運動してきました。
だそうです。横書きで漢字レスな世界が理想だそうです。大正時代後半から85年もこんなことしていたんですねぇ。
彼らのHPを見るとどうも中国から来た漢字文化、縦書き文化がどうもお気に召さないようです。ということは、思想的にはどうなんでしょうね。不思議です。
ただ、ここがリンクにあった国字研などを見ると彼らとは違う主張も散見されます。次回はそれについて「ことばの力」というエントリにしてまとめたいと思います。
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When we were children, we used to think that when we were grown-up we would no longer be vulnerable. But to grow up is to accept vulnerability....[続く]
現場の掲示板に帰ってきたことは褒めてあげよう。(←棒読み) しかしその回答のあまりの失礼さ、手前勝手さに、 とうとう管理者からそれを糾されていますね。 で、現場でそれを問わないことをいいことに またマルチポストをしましたね? (6/17付・拙ブログ掲示通算7つ目..
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