2005-10-19 逆噴射続く
民主党のためを思っていうわけだが、早めに手を打った方がいいんじゃまいか。
前原氏はA級戦犯に関して「内外で被害者を出した戦争の責任を負うけじめが必要。死後は神仏になるという考えもあるが、政治は結果責任であり、現役政治家の甘えにつながる。人生を終えても責任を取り続けるからこそ、国民の負託を受けている」と、政治家としての姿勢を訴えた。
http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2005101700156
人生を終えても責任を取り続ける、って文学的修辞としてはわからなくはないけど、それって、本人に責任の取れようはずはなく、単純に、後の世代が該当者を罪人扱いしても無問題、って言ってるだけではある。
そして、人生を終えても責任を取り続ける、ということは、人生を終えないうちは責任を取り続ける、が内包されるわけだから、つーことは、人は一旦罪をおかしたら、生涯罪人ってことか。そして、死刑でも足らない、と。ふわぁああ。
EU諸国とかカナダとかのリベラル関係者が聞いたらひっくり返りそうなことを言ってる。
この人、個人的にリベンジの方向にふわっと寄っていってしまう心理的背景があるのか?
■ 民主党議員のみなさん、自重してくださいませ 
まじめに思うわけだが、朝日、共同とかの懸念の嵐といい、前原氏の発言といい、これってもう、チャイナが取り組んでいる「靖国」を超えちゃったと思う。
誰でも知ってるように、チャイナにとってこれはカードってか、一応使えるネタなわけで、そのことは本人たち、共産党政権だってよく知ってるだろう。強気に出てみたり、突拍子もないところで脅しをかけてみたりも「芸」のうち、と。
でも、日本の側の靖国反対の反応は、それを超えてる。自分達の橋頭堡が完全に流れてる。個人の信仰の自由(あるいは良心の問題かもしれない)には聞く耳もたないだし、死んでも罪人OKだしと、あんたら誰?状態になってるっすよ。
ただ、この場合こうやって騒がれることによって、一番ダメージを受けているのは、多分、中共政権だったりするところはいいんだか悪いんだかわからんが。。。。多分、結構、「やばし」と思ってるんじゃないのかな。なぜなら、コントロールしながら振り上げていた拳に、大リーグボール養成ギブスよろしく、強烈な支えをつけられてしまったも同然だから。でもって、昨日あたり、「報復も辞さない」みたいなことを言ったとかなんとか報道があったけど、あ〜た、首相やら閣僚が神社に詣でたといったって、誰かケガしたわけでもなければ命に別状があったわけでもないのに、「報復」って、やったらそっちの方がどうかしてる。しかし、養成ギブスはきついので、そう言わないとならない。チャイナの国内的な要因というより、日本の一部とNYTなんかが、堅いギブスをつけちゃった、みたいに読んでもいいんじゃないかと思う。(京都新聞、ダブルエージャントか?わはは)
もちろんこれは、これを見越してこういうタイミングが出来てるってことでもあったんでしょう。だから、小泉は恐いわけだが、それにしても、わざわざ養成ギブスの役割を買って出てしまって、自分で逆噴射してる人たちはいったい何がしたいんざましょ。
私としては、10年スパンで、とりあえず自民党とタメをはれる党ができるように、と思っているので、こうやって、いわゆるリベラルの側にある人々が逆噴射して自滅していくのは、ちょっともうハラハラしてる。どっかでストップかけなきゃだ。
しかしさりとて、お遍路に行っちゃう党首ももう賞味期限切れだったんだし、じゃあ、どうなるのよ、で、結局ここが解党的な行動に出ることによって、自民党にも波及して、がらがらぽん時代到来ということになるのかな。
そういうわけで、素質のある人は、お願いだから、ここで、逆噴射に混ざってミソをつけないでほしい。
■ 逆噴射ではないが 
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20051019AT1E1800K18102005.html
こっちは宗教団体がらみだからもはや何を言ってもなぁというところもあるけど、上の流れから考えて、いったい全体日本の中で機能していた法と秩序はどうなっちゃうのよ、この人たちに任せておいたら、という危惧はそうとうありまっせ。
そもそも、人権と市民権が区別なく使われていてもいい加減に放置したのがことこうなってきた理由ではあるんだろう。永住外国人って、それ相応の覚悟で自分でその国のメンバーにならないことを選択しているわけで、そこに、わけのわからない(韓国もそうだから、とか)理由をつけて、法整備が急務だとはへそで茶をわかすほど馬鹿げている。馬鹿げているけど宗教団体さんだから恐いから放置したくなるというところが、まじで言えば、靖国問題なんかよりよっぽどディープだ。
日本って寛容だよなぁとほんとに、心からそう思う。
■ 「「靖国」カードが消える日」 
馬車馬さんが、The Economistの先週号のまとめをしてくれていた。非常に正しく読みやすいまとめ(いつものことですが)。
http://workhorse.cocolog-nifty.com/blog/2005/10/post_7e0b.html#more
何日か前にもちょっと書いたけど、私も読んでて、ああここまで書いちゃったら、もう「ヤスクニ」は世界的にマジックワードとして威力ないわな、と思ってました。マジックワードの中には、昨日も書いたように、反省とかいて謝罪と読む、みたいな日本と特定アジアでしか通じないことも含まれていて、こういうものが渾然となって、ともあれ日本の側がなんでも前向きに謝罪(笑)みたいなプロトコルで話が進んでいた。で、そのプロトコルが成立するのは、世界というより東アジアの日陰でぼそぼそやってきた、もろもろ(何が何でも日本が悪いという土壌の養成みたいな)があったと。しかし、これはどこかに日が当たった瞬間から、あれ、なんかこの話の進め方へんじゃないですか、と、隠れた前提群を一気に洗ってロジックを見直す作業が続く。すると、このプロトコルじゃなくてもいけるわけですよね、なんてことになる。
The Economistはほぼ間違いなく世界で最高の経済誌であり、その誌面でこういった情報がきちんと蓄積されていると言うのは結構ありがたいことだと思う(実際、欧米の人間は極東で何が起こっているかをまるで知らない。もちろん、日本だってアメリカとカナダの最近の確執を知っている人の方が少ないわけだが)。
と、おっしゃられるように、極東ものは欧米人にしてみると、時間も空間もめちゃめちゃに語られやすいものではあると思う*1)。現実感ないし、通史をやってない人が圧倒的多数だから。だから、NYTみたいな妄想系でも読まれ得る。物語として面白いから。で、そこでとりあえず誰もが知る高級紙が結構丁寧にこのタイミングで論説してしまったことで、物語と現実の線引きは完了というところかと思う。
物語として面白いからと書いたが、物語としてこれを好む層が確実に存在するから、でもいいかもしれない。それはつまり、盲目レフトのことなわけだが、アメリカで見ていて、leftって、別に現実の人の暮らしがどうなるのかにあんまり関係なく存在しているのがこの頃の(あるいは60年代以降の?)トレンドなんじゃなかろうか、など思えるものがある。このへんは、カナダとかイギリスの左翼の人とは根本的に違っているかも。後者は争うべきものが国内政策なので、楽しいなんていられないという人が(今のところ)多数存在する。
で、アメリカとか日本の場合は、国内政策というより外交政策レフト、あるいは戦争反対レフトなので、現実から切り離されても生きていけることはいけるんだろう。話、大きいし。事の性質上、異国の事情なんかよくわかってなくても言えるテーマだから。その代表例が、この間から何度も言っているアメリカのレフト、60年代と同じ主張で同じ方法でいることに安堵してる、それって同級会ですか?みたいなことをしている人たち。相手を戦争屋だと決めつけると安心する、みたいな(酷い戦争しているのは民主党なんだが、ってのをこの人たちってどうして忘れられるのだ?というのが私には根本的に常に疑問だが)。
1)関係ないが、非東アジア人で、私が会った中でこれまでで最もチャイナを通しで見てる人だなぁと思ったのは、トルコ人のインテリ(だが冴えない。すまん)のおっさん。さすが元帝国人なのかなぁとか思った。
# Baatarism 『前原氏は儒教的な考えが強い人なのかもしれませんね。だから死生観か責任観では儒教の本場であるチャイナに通じる考え方をしてしまうのかなと思います。』
# Soreda 『なるほど、です。ただ、それはセオリーとしては、って感じで実際どのぐらいその「チャイナ」がそうなのかってのはかなり疑問のような気もします。』
# Soreda 『自己レス。
そうなんですね。恨み満載。死者に鞭打つ・・・。チャイナについては隠宅風水をする人たちだからなあとは思ってましたが、こんな目につくモノがまじであるとは知りませんでした。笑っちゃうような東條像。(finalventさんのところで知りました)
http://blog.goo.ne.jp/tomotubby/e/0c7627d10e636fbc5a41bd018ed24ff5』
# Baatarism 『日本でも吉良上野介や田沼意次のように、儒教的価値観によって不当に何百年も叩かれ続けてる人物はいますよね。まあさすがに銅像を作って叩くところまではやってないけど。
どうもこういう風土は好きじゃないです。』
# Hiro-san 『前原の親チャイナと関係があるかどうかわかりませんが、彼の愛妻は創価学会員という話が広まっています。本当でしょうか。
http://wilosn.blog15.fc2.com/blog-entry-560.html』
# Soreda 『Baatarismさん、どうも。またまたなるほど。でも、それをrelegiousだ、宗教的だという場合「すりこみ」でなくちゃならないわけですよね、疑問を抱かずA→Bと。吉良の場合とかは、半分以上後で知ったハンチクな知識の結果として、まぁイヤなヤツには見えるわけですから、あいつはいかん、とむしろ正邪の感覚で言ってるような気もします。ま、もちろん、恨みを抱いてそれをオヤの因果が子に報い式にマジになる人がいるのも認めますが、なんつか日本って実は血縁信仰が薄いから(養子とか、生みの親<育ての親)、儒教式って全体としては続かない風土なんだろうとは思いますけどね。ただ、近年になってそうでない人が増えてたりするかもという感じも少しします。』
# Soreda 『Hiro-san、たびたびびっくり情報どうもです。事実関係には興味はないんですがなんかしら当該団体に便宜を供するようなことになってたりするのかしらね、というあたりを見守りたいとは思います。』
# Soreda 『relegious→religious』
# 馬車馬 『TBありがとうございます。
このThe Economistの記事はタイミングが最高でしたね。WSJが同じ記事を書いても意味はありませんが、リベラルな高級誌がこれを書いたという意味は大きいと思います。
ルールというよりも、プロトコルという言葉の方がしっくりくる感じですね。ルールというと第3者から与えられたかのようなイメージが出てしまいますし。プロトコルというのは明文化されたものではなく、時間をかけて積み重ねられてきた慣習ですから、時勢と共に変化する。しかし一方で慣習には一定の惰性が伴うので、その変化はある程度の摩擦を生むことにもなると。
議論の対象が自分から完全に切り離されているからこそ言える「盲目レフト」というのはおっしゃるとおりだと思います。ただ、この件でなによりも違和感が強いのが、いわゆるレフトな方々がこの件に限って中韓との外交関係への影響というパワーポリティクスな、どちらかというと右な論法を使用することでして・・・。Soredaさんが指摘されている通り、リベラルならばまず最低限守るべき一線ってものがあるだろうと思うのですが。NYTですら、参拝それ自体を非とする表現は使っていません(NYTでもEconomistでも、併設されている博物館の問題が強調されるのは、靖国参拝が単なる参拝以上の政治的意味を持つものであることを示す意味があり、それがないとリベラルとしては批判しにくいという側面があるのではと思っています)。finalventさんも書かれていましたが、日本のリベラルの論理的な退潮はちょっと問題だと思いますね。保守の議論が高邁だとも決して思いませんが(というか、文学者上がりのひどいものがかなり・・・)。』
# Soreda 『
馬車馬さん、丁寧なコメントありがとうございます。プロトコルはルールのように明文化、制定法的ではないですから変更に際してうんざりするほど時間がかかる場合もあり、またある種のデモンストレートが必要だという点で、慣習法的な裁きなのかななど思ったりもします。
リベラルならば最低限守るべきもの、というのが東アジア(日本を含む)で失われやすいのは、いろんな問題があるんでしょうが(歴史的な左翼の発生と位置など)、liberalという小文字の意味が日常にないのも原因なのかななど思ったりもします。小文字のliberalを使ってて、独裁的な方向性を是とするのは明らかな矛盾だと捉えられる措置がない、ということです。
ということは、リベラルはソーシャルエンジニアリングを持ち出す点で独裁に流れやすい(この方が合理的だから)措置を持つが、それにもかかわらず引き返すポイントとしての、つまり、in principleを持つか持たないかで、リベラルに留まるかそうでないかが決せられる。ということは日本に必要なのはこの原理原則を確認することなのかな。(保守はソーシャルな仕事を通さないでものを言うから、道徳的に高い時すばらしいものになるが、そうでない時ただのたわごとになる、というのはユニバーサルではないかと拝察します。)』