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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
●リンク・パクリは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。
●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。
●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。
●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。この日記は一種の羞恥プレイです。
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規制前の世界。80年代の燃えかすみたいな絵柄が圧倒的。製作/販売元として今や大手の各社がずらりと名を連ねている、絵に描いたような黒歴史。
なお最近はたとえばこんな絵らしい。解像度の問題を別にしても、たった20年かそこらでこれほど絵柄の好みが変わってしまうことが感無量。絵柄は安定に向かっているのか、それとも今後20年でまたしても変わってしまうのか。100年後には今の浮世絵のような地位を得るのかそれともただただ細分化して互いに孤立した無数の小宇宙を形成するのか。
今年は個人的には今までより少し落ち着いた年でしたが、世間は災いだらけでした。温暖化が進んで海水の濃度が薄まり、ある日海流が激変して農業が壊滅するようなことがあっても、カネゴンの知っている皆様に十分な食料の備蓄がありますように。そして願わくは、カネゴンの知らない人も。
渋谷のGodafoneというイベントに途中から顔を出す。どのバンドも水準が高く、主催者の選球眼の確かさをうかがわせる。ここに出場していたGREAT ADVENTUREというトリオのパフォーマンスがあまりに素晴らしくて度肝を抜かれる。過去のプログレから完全にへその緒を断っているのに見事な様式美、レッチリ並の高度な演奏力、お笑いや客への媚を一切排除しているのに熱いステージング(今回のバンドの中で唯一アンケートを取らなかった)、ブライアン・イーノのようなエモーショナルなシンセ、なぜか声はジョンライドンそっくり、三島由紀夫みたいなアジテーション、そしてラストの圧倒的なノイズ。没入系の音楽でこんなのは初めて見た【見聞狭いおれカネゴン】。まだ平均年齢22才ぐらいだとか。思わずシングル買ってしまいました。
新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解くを一気読み。青木薫さんの訳はいつも読みやすくて助かります。
ここに書かれている個別の事実は既に知られているものも多いかもしれないけど、それを系統立てて説明してくれているのはありがたい。ネットワーク理論はつい最近(1999年かそこら)まで「成長」という概念がない静的なモデルだったのが、成長と優先的選択という概念を取り入れたことによってべき乗の法則が見出されスケールフリーモデルが確立したことによって一気に開花したとのこと(それまでのモデルでは分布がベル曲線になっていた)。すごく大雑把に書くと、平均値から大きく外れた例外がほとんどないのがベル曲線、ノードの大多数が線をわずかしか持たない一方、線をいくらでも多く持つ少数のノードがありえるのがべき乗。応用はあっという間に広がるのに、パラダイムは本当にゆっくりとしか進化しないことを痛感。あんまり書くとあれなのでこの辺で止めておきます【↓終わっておらぬがおれカネゴン】。本書の後半は突如ネットワーク礼賛&ビジネスチャンス云々の記述が増え、まるで別人が書いたみたいだった。
ちらりとしか書かれていなかったのだけど、言語(たぶん自然言語のこと)をネットワーク理論の目で見ると(単語をノード、共起する意味を線とすると)、まったく同じようにべき乗の法則に従うとあった。プログラミング言語ももしかすると、一つの表現が厳密に一つの意味しか表さないことを徹底させるよりも、一つの表現にいろんな意味がありうるもの(いわゆる「汚い」とされる表現)がほどよく混ざっている方がよかったりするのだろうか。
何となくだけど、鍼灸の経絡秘孔がいつかネットワーク理論で説明され(ようとす)る日が来る予感。
全国かくれキリシタン研究会。「和算とかくれキリシタンの関係」は初耳。
個人的にはとても好きな言葉。かくれキリシタン。「マリア観音」と言えばあの伝説的なパンクバンド。ところで、かくれキリシタンって海外には知られているのだろうか。きっとほとんど知られていないような気がする。
Firefoxでインクリメンタル検索を利用できるXUL/Migemo。
今月の日経サイエンス「温暖化が氷河期を招く」は恐ろしさのあまり叫びだしたくなりそうな内容【狼少年おれカネゴン】。詳しくは本誌で。
言うまでもなく、世界の気候を支配しているのは海流なのだけど、温暖化による極冠の氷の溶解がある程度以上進行すると、氷が溶けて大量の水となって海に注ぐために海水の塩分の濃度が下がり、それが巡り巡って地球の気候をある日突然激変させる可能性があるとのこと。
通常、赤道近くの暖かい海水が海流となって極近くまで流れると、そこで冷やされて(つまりその地域を暖めて)から海流が海底まで潜り、海底をたどって再び赤道付近まで還流し、そこで再び上昇する。しかし温暖化によって海水の塩分の濃度が下がると、真水の氷が水に浮くことから想像できるように、薄まって真水の性質に近くなった海水は冷やされても密度が上がりにくくなる。その結果、極付近で冷やされた海水が海底に潜らなくなり、海流の流れが突然停止または大きく変わる可能性があるという予測。
海流が停止したときの影響として真っ先に考えられるのが、これまで暖流によって暖められていたヨーロッパなどの地域で大規模な温度低下が発生すること。他の地域でも同じような影響が生じることは当然考えられる。怖いのは、徐々にそうなるのではなく、カタストロフィにも似てあるとき突然起こる可能性があるということと、そういう急激に変化する現象を正確に予測することが難しいこと。この危機は、隕石の衝突よりは断然ありえる。これまでの、どちらかというとうすぼんやりした温暖化の危機より遥かに具体的。今カネゴンたちにできるのは、皆で大海原に向かって絶え間なく放尿を繰り返すぐらいしかないのかもしれない【黄色く染まれおれカネゴン】。
そうなるとカネゴン悪い想像が止まらない。気候が激変して農作物が地球規模で壊滅的な打撃を受け、人類がもう一度創世記からやり直さなければならなくなったりするのだろうか。7年の豊作の後に7年の大飢饉が訪れ、飢饉のあまりのひどさに豊作のことが思い出せなくなるほどになると、それに備えて賢くも食料を備蓄し、かつ資源と軍備の豊富な国に他の国が頭を下げて食料を買い求め、金がなくなったら家畜を差し出し、家畜もなくなったらフィギュアやヴィンテージのギターや家宝の伊万里焼や秘蔵のビデオを差し出し、それもなくなったら土地ごと人間を奴隷として差出し、すべての人民とあらゆる富をどさくさに紛れてちゃっかりパロのものにしてしまうような究極の寡占化が起こったりするのだろうか。その前に大陸があらかた氷漬けになり、皆こぞって南の島に殺到したりするだろうか【乗船できないおれカネゴン】。こういう事態になっても経済システムは動くのかどうか、資源を持つ国は鎖国より貿易を選ぶのか、そこのところが知りたい。
最上教授の「正論化するコミュニケーションスキル」。仕事ができる人があまりできない人を支えるのは(是非や好き嫌いはともかく)必然だと思う【前者でないとはおれカネゴン】。ノーブレス・オブリージュってそういう意味かと思ってました。
家人が見つけた妖精現実さんの「矛盾」を弁護するへりくつ集。久々に声を上げて笑ってしまいました。
hiraxさんのページで紹介されていた「芸術をいやらしい目で見てみる」。田中圭一の漫画に、芸術作品に靴下を履かせると途端にいやらしくなるという画期的なアイディアがあったことを思い出す【感激するとはおれカネゴン】。
その一方、荒木経惟が撮った写真で、単に女子高生が公園で水を飲んでるだけの姿がとてつもなくエッチくさかったことも思い出す。「いやらしさ」というのも不思議なパラメータで、「こうすれば必ずいやらしくなる」という普遍的な方法があるようでいてない。いやらしさは個別のパラメータを行列の形にしたときの固有値か何かのような姿で立ち現れるのかもしれない。行列の対角に近いところにある要素(靴下とか)は影響が大きかったり、対角から遠いところにある要素は影響が小さかったりするのだろうか【わかっておらぬおれカネゴン】。アラーキーを始めとする業者たちは、どんな要素が対角に近いところにあるかを失敗を繰り返しながら手探りで求めていたりするのだろうか。もしかすると文化が進歩する(=退廃が進む)ということは、この「いやらしい行列」のサイズがずんずん大きくなるということだったりするだろうか。大規模な戦争が起きたり巨大な隕石が落ちたりするとたちまち行列のサイズがコンパクトになり、多少難があっても皆問題なく欲情を刺激されるようになるとか【前途は多難のおれカネゴン】。
「ドラゴン桜」の三田紀房氏の新連載を見かける。タイトルはどこかで見たような感じだけど、漫画に登場した一万円の札束の福沢諭吉の表情が一つ一つ全部違っている(=同じにできない)ことに少なからず驚かされた。コピペで済まそうとしない氏の人柄がよくわかる仕事。
先日構築したcoLinuxで、VNCで接続したときにウィンドウマネージャが動かなかった問題が多少格好悪いながら解決。手動でウィンドウマネージャを起動すると動いたので、VNCサーバーが起動するときに見当違いなxsessionが呼ばれているのではないかと思ったらそのとおりだった(ホームディレクトリのxstartではなく、/etc/X11/xsessionが呼ばれていた)。/etc/vnc.confを修正し、ホームディレクトリのxstartを起動時に読み出すようにしたのだけど、それでも動かない。xstartの「exec wmaker」を「exec wmaker -display :1」に変更してやっと動くようになった。ポート固定はどことなく気持ち悪い。VNCから自動ログオンする設定はなぜかうまくいかなかったので用心のためすぐkdmを削除。
やっとのことで喜び勇んでxemacsを導入するも、今度は「xserver not responding」で起動せず(emacs21はGUIで起動する)。うう。
昨日知った竹熊健太郎氏のブロクを読み漁っているうちに、サルまんの頃にはカネゴンちっとも気付かなかったのだけど、さすが編集家だけあって内容とはうらはらに文章の品位と水準が高いことに気付かされる【足を引っ張るおれカネゴン】。
mozilla thunderbird 1.0日本語版がリリースされていたのでインストール。
ところで、出エジプト記はエジプト側ではどんなふうに記録されているのだろう。吉村作治先生なら知っているだろうか。検索すると、一応ラムセス2世の時代という説がなきにしもあらずらしい。
その出エジプト記を初めてちゃんと読んでみると【今まで何をおれカネゴン】、ところどころに、これはもしかすると元の羊皮紙での落丁/乱丁なのではないかと思える箇所がいくつかあった。前後とどうにもつながらないパラグラフがいくつかあり、もしや書き損じがうっかり紛れ込んだのかと。職業柄そういうことが気になってしまう。
後、「恋なすび」という見慣れないものが出てきたので何かと思ったらマンドラゴラだった。それならエコエコアザラクで知ってました。
↑久石譲はこれを聴いて作曲家になろうと決心したらしい。オルガンとエレクトリックピアノと若干のパーカッションとテープエコーだけ。しかも全部手弾き。アイディア一発なのに今聴いてもぞくっとするというか、テクノの後白河法皇みたいなこの人を凌駕するのは大変そう(神武天皇はシュトックハウゼン)。この人の他の曲は知らないし、同業のフィリップ・グラスはサントラ以外では聴いたことがなかったりする【それでも書くとはおれカネゴン】。
以前も書いたのだけど、カネゴンの老人ボケが進行したら、日記に毎日同じ事を書くようになってしまうのだろうか。
いろんな意味でカネゴンに似すぎているような気がして【特に顔とはおれカネゴン】共感ともについ近親憎悪に似たものすら感じてしまう【おのれを知らぬおれカネゴン】竹熊健太郎のブログを発見(from hiraxさん)。巡回決定。読んだ端から面白すぎる【おぬしのよりはおれカネゴン】。
はてなアンテナの登録方法がいつの間にか変わっていて相当とまどう。
コレステロールが高くなりつつあるという結果が【マックが晩飯おれカネゴン】。
全数学の論理学化(from yomoyomoさん)。「常識でわかることでも論理学ではわからない」のあたりがすこぶる面白い。こんな簡単そうな部分がまだまだ解決していないみたいで何だかとても安らぐ【そんな安らぎおれカネゴン】。
この間指摘されるまで、カネゴンは立ち居振る舞いと言動がまぎれもなく秋葉者であるにもかかわらず、そう思われることをとても嫌がっていたことに気付かなかった【あそこが故郷おれカネゴン】。虎の縞は洗っても落ちない。うう。
ノートPCは派手な追加機能より基本機能が求められている。パソコンに多少詳しい人に相談すれば、まず間違いなくそういうものを薦められるだろうと思うので、そういう無意識の布教活動が実を結んだのかも。その根底には、それを薦める人からの「トラブルの種を減らしたい」という圧がかかっているのかも。あるいは質実剛健な方が通っぽく思われそうでかっこよさげだからかもしれない。そのうち、ありとあらゆる(生活必需品でない)成熟した商品のデザインが揃いも揃って通っぽさを目指して殺到し、何もかもドイツっぽくなってしまうのかもしれない【サードライヒのおれカネゴン】。
video.yahoo.comで「YMO」を検索すると、トップに物凄い映像(ahoaho.wmv)が現れた【喜びいさんでおれカネゴン】。
三浦先生の書評。
というのも、文系の学者や作家に宇宙論の話題を語りかけると、「ごめん。宇宙には興味ないんですよ」式の拒絶ばかり、いつもガッカリさせられてきたからだ。
もうカネゴン膝を叩きたくなるくらい痛快【早起きハイとはおれカネゴン】。理系も文系も、残りの半分の世界をきれいさっぱり排除することによってアイデンティティを保護したいという願望を抱く点ではいい勝負であることを痛感。
理系/文系という分類を一刻も早く改めるか、練活/薬活/妙活というカテゴリをベースに新たなカテゴリをどしどし追加し、いっそのことまるでドメイン名にすべてのデータを収録するかのような巨大なカテゴリ縦列大隊を作り上げてしまい、名が体を表し本人がその名に影響されて本当にそうなってしまう「理想の占い世界」に突入することを希望。そうすることで逆に得られる自由があるかもしれないし、拒否したところでどこかで誰かがとっくにそういう作業を始めているかもしれない【選別待たれるおれカネゴン】。たとえば色川武大をカテゴライズすると「妙活小説焼跡おセンチ股旅幻想芸能賭博麻雀路上生活眩暈入院運天...」みたいな感じで無理数のようにいくらでも続けられる。いっそ本人の全作品もそこに収録してしまうというのは【じゅげむじゅげむのおれカネゴン】。
今月のScientific Americanで、「意外にも、専門家より素人の集団の方が正しい結論を出す可能性が高いらしい」という記事があった。例が少なかったのが残念。これはもしかすると選挙とか陪審員制度というものを聖別しようという試みなのだろうか。考えてみれば、先日超大国の統領を選び出すとき、諸外国はこぞってフランス語の得意なK氏を推したのだけど、それは当の超大国にとっては国益を損なう(=諸外国にとって有利)からだったりしたらどうしよう。さまざまな思惑に捉らわれて大騒ぎした素人集団が全体としては国益を最優先した(=他の国は別にどうなってもいい)結論を出したということが、この記事で正当化されてしまったりするのだろうか。正しい結論というのが「全員一致で死刑」だったりしたらどうしよう【被告の席にはおれカネゴン】。
山本義隆の本からカネゴンが勝手に学んだところでは【信用ならぬおれカネゴン】、科学者がしくじる原因として、思想のバイアスが原因であることが少なからずあるらしい。せっかくいいところまでこぎつけていながら、たまたま持ち合わせていた自分の思想とそりが合わないせいで、せっかくの発見やアイディアを台無しにする事例が豊富に紹介されていた。
東京農大の教授のボランティアページ物性なんでもQ&A;はものすごく膨大。すべての質問に丁寧に答えていることもさることながら、質問者の大半が社会人というのも圧巻。
一度だけ禁を破って今日記を書きます。
働くことには、そのほとんどがやりたくないことだという悲しさがある。それと同時に、もう一つ別の、そしてもっと深い悲しさが働くことにはつきまとう。それは、自分には能力がないのだという圧倒的な現実を思い知らされることである。
働けば、自分の能力の限界という不幸をつねに感じる。仕事がうまくいかないのは、場合によってはまわりのせいでもあるが、結局はほとんどの場合、自分の実力がないからだという否定しようのない事実を、ほとんどの人がつきつけられる。
フリーターは、「やりたいことがみつからないと働けない」という。しかし、それはまちがっている。「働いてみないと本当にやりたいことはみつからない」のだ。
カネゴン初めて、自分が一人ではないような気がしてきました【わしらもおるがおれカネゴン】。
カネゴンは、自分が落ちぶれて路上に寝ている姿をいつでも容易にスーパーリアルに想像できてしまう。それが恐ろしくてたまらないから、働くことをやめられないでいるのかもしれない。
職場からいつも見える巨大な観覧車を眺めていて、窓枠越しに観覧車をじっと見つめながら身体というか頭を左右に(ただし右や左を向いたりせずに)ゆっくりスイングさせると、その瞬間だけ観覧車が止まって見えることに気が付く。観覧車は常に動いているので、これは明らかに目というか脳の錯覚なのだろう。自分の脳が自分のものでないように思える瞬間【脳も借り物おれカネゴン】。
これやこれを読んだ限りでは、人の心は一枚板ではなく、いくつだかわからないほどのモジュールがせめぎあって全体として一つの人格を形成する一方、モジュールが完全に独立しているかというとそうでもなく、それらが集まってせめぎあうことで初めて発現する機能もあるらしいことがカネゴンにもうすぼんやりとわかってきた【うすらぼんやりおれカネゴン】。ということは、人間が集まってできた組織とか国家などを全体としてまるで一つの人格のように扱うことはよくあるけれど、それもまったく同じようなものだったりして。個々人はとてもいい人で家族思いなのに全体としては凶悪な集団になったりするのも同じように説明できたりするだろうか。
健康診断。しなくていい直腸検診を申し込んで、やんわり医者に諭される。
ここ数年は頭音で済ます癖がついてしまい、コピーバンドのときを除いてほとんど音楽を聴いていなかったのだけど、iTuneを導入してからというもの死蔵していたCDをやっと次々にデータ化し、本当に久しぶりに音楽を大量に聴いている。ただほとんどがBGMには不向きで、集中力を持っていかれることおびただしい【あってもなくてもおれカネゴン】。CDジャケのみ残し、中身がどこかにお隠れになったものもいくつか発見。他の肝心な音源はほとんどがテープで、データ化の手間暇をいまさらかけるべきかまた買い直すべきかどうか【聴かぬがよいとはおれカネゴン】。
2chのどこかの板で見かけたのだけど、coLinuxをサービスにすると、案の定Windowsのシャットダウン時にまともな終了処理が行われないらしい。そう思ってサービスを[手動]にし、いちいちシャットダウン処理を行って正解だったのかも。
Asian Horror Encyclopedia。漫画も小説も伝説もごた混ぜ。
みなさんは、どんな人に近親憎悪を感じますか。
やっとディスクスペースが空いたので、もしかしたら次に聴くことはないかもしれないと思いつつ改めてiTuneにCDを食わせる。気が付くと、カネゴンが本を買うときと同じく、なるべくジャンルが雑多になるように入れていた。カネゴンが聴いていて最も落ち着く音楽は、どうもバート・バカラックらしい。
水琴窟というものが15年ぐらい前に少しばかりブームになったような覚えがある(名前が思い出せなくて「鐘 土の中 音」で検索して見つけ出す始末)。確か当時のSound&Recording; Magazineという雑誌だったと思うのだけど、この水琴窟について100%憶測かつ大間違いの説明が載っていたことがあり、しばらく経過するまでカネゴン頭から信じ込んでいたことがあった【イワシの頭もおれカネゴン】。それによれば「水琴窟とは土の中に鐘を埋めてそれを金槌で叩くと何とも心に滲みる玄妙な音がするものらしい」「土は関東ローム層に限る(鈴木慶一談)」みたいな調子だった。しかも勘違いのまま実践してみたらしく、もしかしたらそれはそれで新しい楽器になったりしたのかもしれない【掘り返さぬとはおれカネゴン】。
↑ドラムは20代半ばのバディ・リッチ、ビブラホンはライオネル・ハンプトン。
X windowこそ動かないけど、そこそこ環境ができてきたので、2台目のハードディスクをNTFSで厳かにフォーマットし、イメージファイルをそこにバックアップ【さらばさらばとおれカネゴン】。
平田弘史の実弟でもあるとみ新蔵氏の漫画を見かける。画風は兄と同じく獣の臭いが漂ってきそうなリアリズム路線なのだけど、剣術および古武道を恐ろしいほど研究しており、K-1より断然迫力のある、即実戦に使えてしまいそうな戦いの描写とは兄よりも遥かに凄いかもしれないと思わせた。鉄扇だけで対戦相手の真剣を瞬時に叩き落とし、2秒後には組み伏せてしまうシーンなど身震いがする。いや本当に、これほどリアルな剣術描写は他の誰にもできないだろう【平伏するとはおれカネゴン】。武道に詳しい人にとってはまたとないテキストになったりするかもしれない。いずれにしろ未来に残すべき貴重な科学研究の遺産。
カネゴンが大昔に読んだ絵本「桃太郎」では、桃太郎がその鉄扇で鬼の金棒を叩き落とすという描写があったのだけど、子供向けなので「てっせん」としか書いておらず、挿絵は違う内容だったので、長らくてっせんが何なのかわからずじまいだった【悪い癖とはおれカネゴン】。
これまた当時持っていた絵本の中に「中将姫」というのがあり、白雪姫を中途半端にしたような継母いじめの話と、蓮の茎から糸を取り出して曼荼羅を織る描写を覚えている。この曼荼羅は今でも残っているとその絵本に書いてあったけど、カビが生えたりしないのだろうか。今検索してみると、「この桜の花や枝葉を大切に保持する婦人には、あらゆる女性特有の災厄から守り、安産に、育児に、良縁に、夫婦の生活に、女の幸せをいっぱい与えてやって下さい。」と祈願した桜が残っているらしい。カネゴンもつい「女の幸せ」と口にしてみてしまった。当時の極楽浄土へのあこがれは、現代のカネゴンたちからは想像も付かないほど切実だったのかもしれないとも思わせた【こっちはよいぞえおれカネゴン】。あらゆる開発が一段落してしまって何も作るものがなくなってしまうような近未来になったら、今度はあの世で極楽浄土をカスタマイズして思い思いに「私だけの浄土」を作り上げることが流行ったりするのだろうか。
などとやっているうちに、何も変更していないのにcoLinuxサービスが起動しなくなる。単体で起動すると、not enough physical memoryと表示されていたので、仕方なく256Mから128Mにメモリ割り当てを落とす。
やっとのことでmuttでメールを受信。400件もたまっていた。しかし今度はeximが入っているにもかかわらずメールが送信されない。急ぐ返事もあり、苦悶の末Thunderbirdベータ版をWindowsにインストール。こうなるとemacs以外debianが用無しになってしまう。何をしているのだろう【つんではくずしのおれカネゴン】。
北斗柄さんによるベルトランのパラドックスについての考察。ちゃんとシミュレーションによって確認されている。
後半の「先験的に正しい確率モデルは存在しないからだ」という言明はカネゴンにとっても大ショック【こけつまろびつおれカネゴン】。そして「素直さ」を評価するための基準が必要なのかもしれないという考えもうなずける。
coLinuxで遊んでいる間、メールチェックをずっと我慢している【一週間もおれカネゴン】。もう少しで何とかなりそうです。
結局knoppixではなく、debian3.0から再びやり直すことに。coLinux+debianに関しては、Cooperative Linux(coLinux)のメモが最もまとまっていてとても助けられた。後はX Windowsをどうにかすれば。特に感激したのは、coLinuxをWindows XPのサービスとして実行するというもので、邪魔なプロンプトも出ない上にFireFoxが重くならずに済み、実にありがたい。トップページはメモ置き場とあるけれど、SICPの原文を思わせる実に無色透明な文章。カネゴンはこういう文章が書きたい【主観大敵おれカネゴン】。
先日のdd for windowsでisoイメージを退避中、ハードディスクの容量がぎりぎりいっぱいになり、それとほぼ同時にPC内部から「ギリギリ、ギリギリ、バチッ」と不吉な金属音がする。その後特に異常は見られないのだけど、行く手に暗雲たれこめたような心持【わしらの仕業よおれカネゴン】。
knoppixはcoLinuxで動くようになったけど、ここから先、どうやって環境を作るかを思案。空のext3パーティションをマウントし、knoppixをハードディスクにインストールするスクリプトknx2hdでインストールしようとしたのだけど、/dev/hd*形式でマウントされていない(/dev/cobd*というスペシャルファイルを使用せざるを得ない)せいか、パーティションを認識してくれない。knoppixをパスワードなしのrootで単に起動したり、設定を無理やりどこかに保存したりするのではなく、以前のように(knoppixをHDにインストールしてdebianになったみたいに)ちゃんとユーザーを追加して普通に運用したい。どうすればよいだろう。
1つは、何とかしてknx2hdを使えるようにすることだけど、こちらは見込みが薄い。もう1つはあきらめてknoppixを素のままで使う。もう1つはcoLinuxのインストーラでdebian 3.0をダウンロードさせ、またいつかのように日本語環境をしこしこ構築する。見込みがありそうなのは3番目なので、これに挑戦。
もう大分前、知人のハッカー氏がmathematicaを使って、コンピュータ ネットワークの構成を診断するソフトウェア(だったと思うのだけれど)をさくさくっと作っていたことがあり、そのときに参照していたのが確かグラフ理論が発展したところのいわゆるネットワーク理論の書物(洋書)だった。数学の無縁仏だったカネゴンがこわごわ覗いてみたら強烈に難しそうだったのを覚えている。今後この方面が世間に流布して「あるある大事典」で消費される予感。読んでもないのに憶測すると【激しく外すおれカネゴン】、友達を増やせば増やすほどそれに伴う心労も指数関数的に(またはそれ以上に)増大するみたいな話が展開されているのではないかと。
J.G.バラード(カネゴンはほんの少ししか読んでません)が往復手紙によるインタビューで開陳していた説:
一人の人間が親密な関係を持てる相手の数は、実はかなり少なく、せいぜい20人ぐらいらしい。ニューヨークで貧困から犯罪に手を染めた人を更生させるプログラムが実施されたことがあり、そういう人たちは悪い友人との関係を断てないために再び犯罪に関わってしまうことに注目し、そういう悪縁を絶とうとしてカウンセラーが躍起になったにもかかわらず、大半が失敗したという事例から推測されたらしい。ちょうど、人の心にはピンがささる穴のようなものが20ばかりあり、ある人と親しくなるたびにそのピン穴が1つずつ埋まっていくようなものなのではないかと説明されていた。それが本当なら、社会がどんなに発展しても戦争はなくなりそうにないのかもしれないと当時思った覚えがある【発展停止のおれカネゴン】。
なぜ左耳に受話器をあてたがるか?。カネゴンはおしなべて右耳ばかり使っていることに気付く。「左耳で聞くと面白くない話も面白く聞ける」というのがにわかには信じがたい。左脳右脳の話も俗な情報がいろいろ入り混じっていてどれが本当なのか今ひとつわかりづらかったりする【おぬしが言うとはおれカネゴン】。カネゴンの場合左脳とか右脳とかいう以前に脳の前方がひからびているのではないかと恐れおののいていた時期があった。
恒例:よかった探しリース。時間がないので、とりあえず書くだけ書いてみます【手間暇かけぬおれカネゴン】。
よかったこと:生活が落ち着いたこと。長距離移動がそれほど苦にならなくなったこと。知らないうちに陥っていた根拠のない思い上がりを早いうちに叩きのめしてもらえたこと。
掲示板で教えていただいたdd for windowsを使って、Windows XPでext2パーティションをあっさりisoイメージに変換できた。ありがとうございます。今日は時間切れなのでこれまで。
いろいろあって【いろいろなくてもおれカネゴン】、自宅のPCをknoppixからWindows XP SP2に変更。いきなりこれまでの環境をつぶすわけにもいかないので、OEM購入のためもあって40GB HDを購入。
早速40GB HDにインストールし、各種パッチを適用。これまで満足に動かなかったサウンド関連が初めてまともに動いて感激。今はその環境でWZEditorで書いている。ただ意外に困ったのがHappy Hacking Keyboard(初代)で、日本語と英語の切り替えがAlt+`キーというのは実に使いにくい。何とかコマンド+Escあたりに変更したいのだけど、どうすればいいのやら。手つきがついxemacsになってしまうので、保存もついCtrl+x,Ctrl+sを間違って押してしまったりする。
そして念願のiTuneを導入。音楽CDの取り込みも驚くほど速い。しかし今までずっと頭音で済ます習慣だったせいか、PCで音楽をかけるとてきめんに集中力を削がれることが判明。うう。
内田百ケンと芥川龍之介。百ケンの字がEUCコードでは化けることを初めて知る。
ずっと昔は、人が音楽をあっさり思い出と絡めることを知ってとても驚いてしまったことがあった(大滝詠一を聞くと初恋のときを思い出す、など)。カネゴンは当時そこのところがとんちんかんだったので、音楽は音楽、思い出は思い出なのではないかと思っていた。そして自分にもそういうことが起きることを、iTuneでトム・ウェイツを聞いてみて今更のように気が付く。数年前のたうち回っていた頃に聴いていたせいか、当時のつらさが無駄なぐらいリアルに甦ってくる。これは考えようによってはかなり危険な状態で、腹の底から何にもする気が起きなくなってしまう。たぶん今後もこの先入観とは縁が切れないのだろう。なおトム・ウェイツは冬が似合いすぎるので、他の季節、特に夏はとても聴く気になれなかったりする。
カネゴンの悪い癖で、曲とタイトルをまったく別々に覚えていて、後で頭音のタイトルを今更のように知ることがやたら多い。
カネゴンがやたらと引合いに出す色川武大の論旨は、要約すると実は非常に少なく、さまざまな小説やエッセイや対談でも、手を変え品を変えつつも実は大局的には同じことを言っていたりする。でもそれは桑田佳祐やポール・マッカートニーが手を変え品を変えつつもワンパターンなのと同じなので、カネゴンは特に気にしていなかったりする。で何度も何度も読み返してしまう。カネゴンの日記もそうあれがしと何とかしてそういうワンパターンに持っていこうとするのだけど、どうにも拡散が止まらない【集中できればおれカネゴン】。