迷惑です! [2005年6月]
迷惑です!
1週間も前の記事なので、ニュースではないのですがこれだけの人を見過ごすことなどできません。
ということで、笑顔が素敵(不敵)な先生のネタです。
asahi.com: 「君が代」不起立で停職の中学教諭、正門前で連日の抗議 - 教育
今春の入学式で「君が代」斉唱時に起立しなかったとして、5月末に停職1カ月の処分を受けた東京都立川市の中学教諭が連日、朝から夕方まで学校の正門前で、処分の不当性を訴えている。約120人の研究者も21日、「処分は憲法などに違反する」とする抗議声明を発表した。
抗議しているのは、立川市立立川二中の家庭科教諭、根津公子さん(54)。都教委が教職員に君が代斉唱時の起立を義務づけた03年秋以降、停職処分を受けた初めてのケース。根津さんを含めて公立学校教職員10人が懲戒処分を受けた。今回の停職処分後、根津さんは5月31日からほぼ毎日、「私が起立しなかったことで迷惑を受けた人はいますか?」「私はまちがっていると思うことには、命令でもしたがえないのです」と書いたプラカードを置いて、朝の通学時から夕方の下校時まで正門前で座り込みを続けている。
こうした根津さんの行動への反応も様々だ。「子どもがおびえている」という親からの批判的な反応がある一方、下校時には次々に生徒が駆け寄り、「先生、頑張って」「うちのおやじも応援しているよ」と励ます姿があった。
根津さんは話しかけてきた生徒たちに「時代によって常識は変わる。あと何十年かしたら、この処分もおかしいということになっているかもしれないわよ」と話す。
根津さんらの処分に対し、堀尾輝久・東大名誉教授(教育学)や西原博史・早稲田大教授(憲法学)ら研究者122人が抗議声明を発表。「個々の職員に起立・斉唱するよう職務命令を発し、その違反を理由に処分することは憲法と教育基本法に違反する」とする声明を発表。22日にも都教委を訪ね、手渡すという。
>今春の入学式で「君が代」斉唱時に起立しなかったとして、5月末に停職1カ月の処分を受けた東京都立川市の中学教諭が連日、朝から夕方まで学校の正門前で、処分の不当性を訴えている。
まず、停職とはなんぞや、です。生徒の場合なら「停学」に相当するでしょう。私も中学・高校と幾度か停学処分を受けましたから分かることなのですが、その期間中は、毎日のように反省文を書いて、外出すらも制限されていました。
ましては学校に出向くなど望んでも許されることではありませんでした。
停学とは、その学校の生徒でありながら、暫定的に生徒としての資格を停止されるということだと思います。従って、その期間は生徒としての権利を行使することができません。
この先生は、その処分が不当であろうとなかろうと停職、すなわち或る一定期間、教員としての権利が停止されているのですから、教員として学校に出向いているだけで「停職」していないと考えることが出来ます。
停職期間は少なくとも教員ではない、のですからこういう人が一日中正門前にいるというのは、不審者への警戒を強めている今の教育現場においても取り締まられるべきだと思います。
処分を不当と思うのであれば、然るべき筋で堂々と争えばいいだけです。座り込んでアピールするにしても学校ではなく、都教委の建物の前などでやるべきではないでしょうか。
>抗議しているのは、立川市立立川二中の家庭科教諭、根津公子さん(54)。都教委が教職員に君が代斉唱時の起立を義務づけた03年秋以降、停職処分を受けた初めてのケース。
義務になっていることを履行しなかった、だから処分されただけなのですが、03年に義務化されて最近初めてのケースと言うならば、ある程度の猶予期間(更正期間)があったということでしょうか。
こんなことで実名を晒されるのは、私にすれば犯罪者の実名報道と同じような気がするのですが、本人的にはどこか誇らしくさえあるのでしょうね。
参考→根津公子先生のHP(弾ける笑顔に注意!)
>「私が起立しなかったことで迷惑を受けた人はいますか?」
こういうバカなことしか考えられない人は停職などせずに懲戒解雇してもいいんじゃないですか?ものの道理も弁えず我意を社会におしつけて恬として恥じることすらないのですから。こういう道理に暗い人間が、まずは自身こそもう一度義務教育からやり直さねばならないような人間が、人に道を説くなんて悪い冗談にもなりゃしません。
細かいことですが、「迷惑を受けた」?とういうのは、ちょいと日本語がおかしくないですか。「迷惑」って「かける」「かけられる」ものではなかったでしょうか?
「私が起立しなかったことで迷惑をかけられた人はいますか?」
「私は、(私が)起立しなかったことで誰かに迷惑をかけましたか?」
ってのが正しいのではないでしょうかねぇ。
「私が起立しなかったことで迷惑と感じた人はいますか?」
でもいいですね。
「受ける」には「被る」という意味も含まれていますが、「迷惑」は被るこのではありません。その迷惑行為によって発生する損害等を被ることはありますが。
言葉の意味を考えて分かったことですが、「迷惑」というのは「かけられる」人が感じることであり、それを「かけた」人が言うべきことではありません。
この先生は自分の行動が誰にも迷惑をかけていないと思っているのでしょうが、それは明らかに独善的な判断でしかありません。
また、誰かに迷惑をかけなければ、きまりや規則、法を犯してもいいということはありません。そこにルールがあるのであれば、それは守るためにあるものであり、破るためにあるのはありません。法や規則が万能ではなくとも、それを個々人が恣意的に解釈していいということはありません。
>「私はまちがっていると思うことには、命令でもしたがえないのです」
>と書いたプラカードを置いて、朝の通学時から夕方の下校時まで正門前で座り込みを続けている。
私が間違っていると思えば、それが命令であっても従えないというのは、民主国家で法治国家である日本では通用しない理屈(理屈にもなってませんが)です。彼女の言い分を逆に考えれば、それが如何におかしいか良く分かります。
「私が正しいと思うことは、命令を違えてでもやります」
ということでしょう。この「命令」をきまり、規則、法などと置き換えればこの人の言っていることはおよそ普通の感覚では受け容れることができないということがわかります。
私の価値観、判断基準が何よりも尊重される、というようなことが罷り通ったら、この世はまさに地獄です。
こんな自分勝手な人間が教職にあるというのは、憂うべきことです。停職期間においても何の反省も見受けることができない、自分が如何におかしいことを主張して行動しているのかさえ理解できないこの人は、教育者と言う前に釈迦人としても不適合であると言わざるを得ません。
>「子どもがおびえている」という親からの批判的な反応がある一方、下校時には次々に生徒が駆け寄り、「先生、頑張って」「うちのおやじも応援しているよ」と励ます
朝日は、賛否両論的な雰囲気を醸し出したいのかもしれませんが、そういう問題ですか?日頃子供の心のケアだの何だのと喧しい朝日にしては意外なほど「子供の怯え」に無関心ですね。
それが数人でも子供の権利だと言って憚らない朝日やかかる教員ですが、こうやって「怯える子」がいるということは「子供の権利」を侵害していることにはならないのでしょうか。
それより、誰にも迷惑をかけていないなんていう彼女ですが、現に「怯える子供」がいる以上、あきらかに迷惑をかけていますよね。
もっとあからさまに抗議してもいいんじゃないかと思いますけど、我が子の将来を憂う保護者のみなさんは。
>生徒たちに「時代によって常識は変わる。あと何十年かしたら、この処分もおかしいということになっているかもしれないわよ」と話す。
時代によって常識が変っても、良識と言われる良心に基づく概念は変って欲しくないと思いますが、時間の経過でものの考えは変りますから、彼女が言うように常識は変るものだとしましょう。
とすれば、こういう処分がおかしいということになる可能性を排除することはできないかもしれませんが、この処分が当然だ、いや甘すぎたなんてなる可能性だってあるわけです。
いずれにしろ言えることは、今、本件のような処分が、「義務」や「職務命令」になっている、つまりある意味における「常識」になっているのであれば、「今」それに従わねばならないということです。
それにしてもこういう手合いは、時間の概念というものを自分勝手に解釈しすぎです。戦前の価値観を現在の価値観で遡及的に裁こうとしたり、どうなるか輪からない未来の概念で自分たちの主張を正当化しようとしたり。
先人から続いている時間というバトンを受取った私達は過去と決別することは出来ません。それが自分が生まれる前の過去であっても。そしてその過去に改めるべきことがあればそれは我がこととして捉えなければなりません。でもそれは今を生きる自分達の価値観だけで判断すべきではありません。
時間によって自然淘汰されるべき因習や慣習もあるでしょう、しかし、何もかも今生きている自分たちの都合だけで変えようとするのは、あまりにも傲慢ですし、次代にバトンを渡すべきもののすることではないと思います。
>堀尾輝久・東大名誉教授(教育学)や西原博史・早稲田大教授(憲法学)ら研究者122人が抗議声明を発表。「個々の職員に起立・斉唱するよう職務命令を発し、その違反を理由に処分することは憲法と教育基本法に違反する」
教育学に憲法学とは、一体教育の何を学び、憲法の何を学ぶのでしょうか。
学問というよりも保身にしか思えないのは、私だけでしょうか。学究の徒とはこんなにもさもしい狭量な人間のことをいつから指すようになったのでしょうか。
思想を学ぶのは問題ありません、そしてどのような思想を好むかも問題ありません。それこそ、思想の自由というものでしょう。しかし、学問を己の思想の道具にするというのは、その学問を汚していることにはならないでしょうか。
起立・斉唱が規則になり、職務命令になったのであれば、それに従うのが当然です。文句を言うなら、その命令に服した上で主張すべきでしょう。命令に背いた以上、しかるべきペナルティを受けるのは自明のことであり、背いた以上文句も言えないというのは、普通の感覚だと思います。
かかる教員が多数の賛同を得られないのは、きまりを守らない上に文句言うからではないでしょうか。
彼らは憲法や教育基本法に抵触するから問題だと言います。しかし、仮に憲法や教育基本法がこんなアタリマエのことさえできない人間の自由や裁量までも認めているとしたら、早急に改めるべきではないでしょうか。
少なくともこういう手合いが重箱の隅をつつくようにして、不正を行えるのなら帰ることは当然のように思います。
彼らが躍起になっているのを見ると、護憲のための「よすが」として、国旗・国歌問題を肥大化(都合の悪いときは矮小化するのにねぇ)させようとしているだけのような気がしてなりませんね。
<おまけ>
彼らの声明はこちら。
因みにあちこちのド左自然薯サヨクなHPに貼り付けられています。
この声明は、旭川学力テストの最高裁判決などと絡めてエントリしたいと思います。
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