もうクリスマスも終わってしまったし、 ごく普通の集会。帰省する人もいるせいかいつもより少々人数が少ないかも。
クリスマスパーティーのポップコーンが大量に残っていたのだが、 子供たちを中心に群がるように食べていた。悪いけど、ピラニアとかハイエナとかを連想してしまった。 食い物には弱いらしい。
印刷した。結局「不自由なソフトウェア」のお世話になってしまった。 負けた気分でいっぱいだ。
表裏を間違えたり、インク切れで色が変になったり、 なぜが画像がずれたりで、6枚も失敗してしまった。余分に買っといてよかった。 失敗したのは(くじ番号をチェックしてから)郵便局で交換してもらおう。
ついでに娘の年賀状も作ってやる。 コンピュータ三昧の生活をしているくせに、 こういう一般の人がよくやるような使い方に滅法弱いのは、家人には理解できないらしい。
クリスマスはイエス・キリストの誕生を記念するキリスト教の祭だが、 イエス・キリストが12月25日に生まれたとする証拠は聖書には見当たらない。 これは「死と復活」をイメージさせるヨーロッパ土着の当時のお祭りが起源となって、 発生したものらしい。
では、キリストの誕生日について推測できるものはないのか。
聖書の記述に誕生日について季節が推測できる記述は少ない。 数少ない例は以下のようなものである。
さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。
[ルカ 2:8より引用]
ここから分かることは、この日はエルサレム近郊で羊飼いが野宿できる季節であった、 ということである。ということは少なくとも冬真っ盛りの12月ではありえない。
『マタイによる福音書』にも生誕についての情報が記されている(2章) こちらには「東からきた博士たち」(Magi)についての記述がある。 しばしば三博士と呼ばれ、 「メルキオール」、「カスパール」、「バルサザール」とそれぞれの名前まで知られているが、 これらは単なる「言い伝え」で、意外なことに聖書には人数さえ明記されていない。
しかし、直後にヘロデ王が
博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した
[マタイ 2:16より引用]
ところを見ると、博士たちの到着は誕生当日どころか、何ヶ月も、あるいは何年も後であることが推測され、 誕生日を推定するための材料にはならない。
結局、聖書からの情報だけでは、イエス・キリストの誕生日は「真冬ではありえない」という以上のことは分からないわけだ。 私たちの教会には「イエス・キリストの誕生日は4月6日」という言い伝えがあるが、 これにも確証があるあけではない。
では、誕生年はいつか、という別の疑問もあるわけだが、これはこれで別の機会に述べることにしよう。
キリストの誕生日が12/25だという記載がない件、大変興味深く拝見しました。さらに考えてみると、12/25ですらそういう状況なのに、なぜ日本では(他の国のことは知りませんが)前日である12/24の方が盛り上がるのでしょうね。不思議です。
「クリスマス」なるイベントは、元々北欧の精霊の祭である「冬至祭」の代用のイベントだったのです。私の通っていた教会の牧師は「ガキのイエスが生まれたことより、イエスの血の贖罪の方が価値があるのだから、クリスマスよりもイースターを主んじるべき」と説いてましたね。
「イエスの血の贖罪の方が価値があるのだから、クリスマスよりもイースターを重んじるべき」との意見には賛成です。
ついでに死の象徴である十字架も重要視する必要ありませんね。
慣習はともかく。
「クリスマスよりイースター」の意見、昔お世話になった神父様も言っていました。あ、私カトリックです。
イースターも元々キリスト教発祥ではないような… いずれにせよ、記念日は「記念すべき出来事があって、それを年1回思い出そう」という意味合いのものですから、それが正確な日時である必要はないと思います。
もちろんわかってますよ > かりやんさん
要するに聖書に書いてあること(+α)でどこまで言えるかということを考える一種のゲームです、ゲーム。
ゲームというのは良く分かります。僕も昔、聖書に日時が書いてないなぁと疑問に思ったクチなのでw
イエスが死んだ日付は聖書からわかる (今で言うと3-4月、祭りの日) ので
死んだ日だけ知ってればいい、誕生日は気にするなってことなんでしょう。
というか、当時、誕生日を祝うのは異教徒のすること
という共通認識があったみたいですね。
使徒たちはキリストの誕生日を祝わなかったでしょう。
なお、ダニエル9の「週の半ばに」をきっちり3.5年と考えると、
3-4月と半年ずれて9-10月に生まれたことになると言われます。
いずれにしても今の暦とは違うので、特定しても「○月頃」となって
雰囲気が出ませんなあ。
いや、福音にとっては「死んだ日」もさして重要ではないでしょう。
いつ生まれても、いつ死んでもイエス・キリストの教えになんの違いもないです。
これは単なるゲームですから。
そういう意味ではイエス・キリストの誕生(つまり神が御子を送ってくださったこと)を感謝する日を祝う行為そのものには価値があると思います。誕生を祝う習慣が異教徒のものだったかどうかは当時の歴史的資料を知らないのでなんとも言えません。
聖書で誕生日の祝いは創世記 40:20のパロのものと、マタイ 14:6およびマルコ 6:21のヘロデのものしか登場しないのは事実ですが、エジプト人のパロはともかく、(エドム人と伝えられている)ヘロデは慣習的にはユダヤ人に近くてもおかしくないかもしれません。もっともユダヤに限らず庶民が誕生日を祝える時代はそんなに多くないようにも思いますが。
ダニエル9章の週を年に読み替える解釈は、『ものみの塔』を配ってらっしゃる方々が多用される解釈ですが、預言の解釈はこれで確定ということがないので、今回の「ゲームのルール」としては採用しないこととします。
ゲームとしてもっと楽しむなら、聖書に書かれている天体現象を元に計算してみるのがいいかと。既にされていて、いくつかの候補が上がってますけどね。
いや、それはあんまり面白くないんですよ。
マタイ 2:2にある「東の方でその星を見た」という星がどのようなものであったかの情報が少なすぎて、確定的な推測ができないので。
せめて、マタイ 2:7にあるように博士たちから「星の現れた時について詳しく」聞いたことが記録されていれば違うんですけど。
予言・預言を使わないとなるとかなり難しくなりますね。
そもそもダニエル予言を使っても、キリストとしての活動開始が
30歳から「それほど」ずれていないという前提が必要ですから、
誤差はほとんど1年になるかもしれないし。
誕生日に近い出来事で時間がはっきりしていることと言えば、
バプテスマのヨハネがイエスより半年先に生まれていたことから
何かわかれば面白いんですが。
なお、イエスの死んだ日が、エジプトでういごが皆殺しに
なった日と同じだというのは重要だと思います。