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●日記の内容をくれぐれも本気にしないでください。ほぼ何にも調べずに書いています。
●何を言っているのかよくわからない場合はとりあえず用語集を参照してください。
●時々同じ事を何度も書いています。心配するだけ無駄だと思うけど。
●敬称略。
●おしゃべりがどうしても治りません。
●リンクは御自由に(リンクを外すのも含め連絡不要です)。
●ここに書かれていることや文章の形式などはごっそりパクっても構いません。
●万一ここに書いてあることが何かの間違いでありがたく見えてしまうときは【あるわけなかろうおれカネゴン】、あなたの精神力が弱っていますので視聴を控えてください。危険です。
●もしここからリンクされると格が下がる/貫目が落ちるとお嘆きの場合はご連絡いただければ外します。
●日記インポート時のエラーがそこここに残っていたり恥ずかしくていたたまれない箇所があったりするので、折に触れて過去の日記も書き直しています。
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旧年中はお世話になりました。地球がさらに暖まって大地が鳴動し、富士山が噴火して隕石がガンガンぶち当たる世の中になっても皆様が健やかでいられますように。
昨日読んだ「風雲児たち(幕末編)」で、村田蔵六(後の大村益次郎)が明らかにヘパイストス以来のハッカー気質を脈々と受け継いでいることを初めて知る。そしてハッカーが情熱を注ぎ込む最大の対象が軍事であることと、予言ができてこそ本物の科学者であるということも。
カネゴンが幼虫(小学校)の頃に放映されていたNHK大河ドラマ「花神」はこの村田蔵六が主人公だったことだけは覚えているのだけど、どんな話だったかはさっぱり思い出せない。辛うじて覚えているのは最終回のナレーション「花咲かじじいのことを、中国では『花神』と呼ぶ」だけだった【終身雑学おれカネゴン】。
特に根拠はないのだけれど、年を取ると皆おしなべて歴史好きになるような気がする。カネゴンは以前から、自分が歴史に興味を持ち始めたら自分が年を取ったことを実感することを予定していた【予定の通りのおれカネゴン】。後数年もすれば、カネゴンも歴史をびゅんびゅん振りかざし、かくあれがしと若い衆を片っ端から掴まえては説教せずにいられなくなってしまうのだろうか【加齢の国からおれカネゴン】。
雑誌(たぶん新聞も含む)の最大の使命は、「今回の号も次回の号も形式が変わらない」ことにあるのかもしれないと思う。制作者側の都合ではなく、読者の方が明らかに「変わらないこと」を求めているような気がしてしまう。
そうなるかどうかまではわからないけど、世にあまたある技術も、やがて変革にこれっぽっちも貢献しなくなり、現状維持のためだけに使われるようになる時が来るのだろうか。
さいとう・プロダクションのスタッフの平均年齢が60を遥かに上回っていることが気になってしまう。
たけくまOff行きたかった【クイズが解けぬおれカネゴン】。
もう随分前になるけど、以前参加したTVサントラ大作戦(著作権をクリアするためにお金は取られなかった)ではカネゴンの頭音が数百倍にまで強化学習され、終わった後数日間は頭音が周りの人に聞こえそうなぐらい頭蓋内にジンジン響き渡ったことを思い出す。
生福(生方氏と福田氏によるユニット)の落しだね「内容のない音楽会」再発希望署名。
ついでに、生福の片割れであり、カネゴンの文章に最も直接的に影響を与えたキーボーディスト福田裕彦のブログをついに発見。なお文体は似ていません。
福田氏が当時(80年代後半)のキーボードマガジンに好き勝手書いていたコラムでカネゴンは毎回腹を抱えて転げ回り、同時に、文章を面白くするのに毒を盛る必要などまったくないことに初めて気付かされる。
ネット上を流通するファイルのMD5ハッシュを検査するためのサイト「hashdb.com」。
アイドルがWeb日記を剽窃。カネゴンの日記ならどれだけパクっていただいても大丈夫です【空しく響くおれカネゴン】。
それはともかく、カネゴンもいつかこんな風にネット上で集中攻撃を喰らって原子レベルにまで分解されて消滅するのではないかという不安が常に付きまとってしまう【明日は我が身のおれカネゴン】。
私事なのだけど、NHK BS「チャングムの誓い」の一番良い(に違いない)回を昨日見逃し、悶絶。
カネゴンが見回した限り、少子化問題への根本的な対策は今のところ世界中のどこにもないらしいので、カネゴンも何か一発逆転のアイディアを考えてみます【草木も枯れるおれカネゴン】。
少年ジャンプを貪るように読みふける高齢者を見かけないのはなぜなのだろう。
CATVのヒストリーチャンネルで放映されていたシベリアの近代史に関する番組を見て、カネゴンはシベリアのことを何にも知らなかったことを知る【知らぬも知らぬおれカネゴン】。詳しくは書かないけれど、20世紀の黒歴史で人間がしでかしそうなことは全部シベリアでも起きていたらしい。
某所からの帰りに東京農大のバイオリウムを見かけて立ち寄り、マダガスカル島の亜熱帯で湿潤な気候を再現した温室に飼われているキツネザルたちを見物【暖が目的おれカネゴン】。
そこにホホバ(化粧品の原料として有名らしい)という植物があり、解説によると、ホホバオイルはマイナス50℃でも凍らない性質のためジェットエンジンの潤滑油として有用とのこと。またホホバ以前は鯨油が使用されていたが、米国はホホバの大量生産体制をちゃっかり確立しておいてから捕鯨禁止に乗り出したらしいとのこと。
その「風雲児たち」で、松平家の名君にして徳川家第二代将軍秀忠の隠し子でもあった保科正之という人物のことを初めて知る。徳川吉宗はこの保科に心酔し、吉宗の行った政策のほとんどは保科が既に行ったものばかりだったとか。リンク先を見ると、日本で最初に国民年金制度を制定したとまである。
カネゴンが見たところ、この保科の最大最強の能力とは「他の人たちが後生大事に守っているものごとを大事にしない能力」ではないかと思う。ほとんどの人間は、放っておけば周りに合わせ、伝統を守って保守的に生きるものだと思うのだけど、その中にあってこういう人物がよいタイミングで伝統を軽んじることで活性化される。時代も職業も違うけど、たとえば諸星大二郎が同様に「他の人が無意識に大事にしているものをあっさりと軽んじる」ことをしているような気がする。
かといって、他の人が皆保科のように行動してしまうと世の中がアナーキーでパッパラッパーな状態になってしまう。こういう人物は一万人に一人もいれば十分なので、それ以外の普通の人々は「チャングムの誓い」に登場する脇役たちのように、古いしきたりや既得権を守ることに血道を上げ革新者を引きずり下ろそうとするのが正しい姿だと思う。慌てて書いたのでまだうまくまとまらず【三歩歩けばおれカネゴン】。
以前も読んだ「論理サバイバル―議論力を鍛える108問」を行き帰りに再読し、あらためてよい本だとしみじみ思う【ナニに真珠のおれカネゴン】。論理学は完成などしておらず現在も発展途上であること、真偽の「真」は一種類ではなくいろんな段階があること、論理だけでは決して解決できないことがあること、神について議論することは(これまで考えられてきた以上に)有意義と思われること、これまで哲学と呼ばれてきた議論のほとんどは議論が整理されておらず時間の無駄にしかなっていなかったこと、などなど、読みながら例によって本書と関係ないことばかりカネゴン考えてしまう【帰って来れぬおれカネゴン】。何かを考えるときに陥りやすい数々のつまづきとその対策がコンパクトにまとめられているので、今後生まれてくる子供たちはますます無駄な時間を過ごさなくなる予感。
同書で雑学っぽく取り上げられている「快楽のパラドックス」がやはり痛快。
自分の幸せだけを考えて行動するとどういうわけか幸せになれず、自分をさしおいて他人のために行動すると案外幸せになれてしまうという経験は誰しもあると思う。
このパラドックスには恐ろしくたくさんの要素が詰め込まれているので、当分これをしゃぶっているだけで持ちそう【タバコの代わりにおれカネゴン】。
(ティンパニに続いて景気のいいイントロ)
幸せは 歩いてこない
だから歩いて行くんだね
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで二歩さがる
人生はワンツーパンチ
汗かきべそかき 歩こうよ
あなたのつけた足跡にゃ
きれいな花が咲くでしょう
腕を振って 足を上げて
ワンツー ワンツー
休まないで歩け
それ ワンツー ワンツー ワンツー ワンツー
それ ワンツー ワンツー ワンツー ワンツー
それ ワンツー ワンツー ワンツー ワンツー
それ ワンツー ワンツー ワンツー ワンツー
「好景気」「不景気」を「豊作」「凶作」と言い換えたい【痩せた土地とはおれカネゴン】。
「旧約聖書に学ぶビジネスの極意」みたいな本はまだないらしい。
ふと思ったのだけど、一般に「対象がランダムであるかどうか」をプログラム的に判定することは可能なのだろうか。何をもってランダムとするかを定義しさえすれば楽勝で作れるのだろうか。
来年当たりに、給与明細をRSSで片っ端からフィードすることが国民の義務になるかもしれないと夢想【日本を壊すおれカネゴン】。
これが実現したら、以前に書いた「既得権益をこそげ落とす方法」よりもずっと効果的に資本主義の最大の欠点が解消されるかもしれない。すべての給与所得者の明細がネット上で透け透けになることで、たくさんもらっている人にはいわれのない嫉妬が怒涛のように集まり、実力に釣り合わない多大な収入を得ている人々はその居心地の悪さに耐え切れずに給料を下げてくださいと続々と泣いて頼むようになる予感。皆が嫉妬心を存分に発揮すれば発揮するほど健全に機能するのでこのシステムは事実上メンテナンスフリーになるし。それが嫌さに日本国民が一人残らずフリーランスまたはスナフキンのような住所不定の風来坊になってしまう可能性もなきにしもあらずだけど、そのときはそのときで【焼け野原にはおれカネゴン】。
# なかの 『数値乱数発生の学問分野では、いろいろな統計検定の方法が提案されているみたいですね (Knuth 先生の TAOCP 2 巻とか、伏見「乱数」東大出版会とか)。ただしこれが決定版、といのはないようです。』
# うりかねぐん 『こんにちは。決定版はないという話が何となくうれしいです。
こんなことを書いたのは、どうして人間が「ランダムさ」を瞬時に認識できるのかが不思議で仕方なかったので。消去法でランダムさを検出しているにしては速すぎるので、ランダムさに反応する脳細胞でもあるのかとひっそり思ってました。』
# 通りすがり 『ランダムさを直接認識してるわけではなく、ある種の規則性を認識する能力が脳にはあって、その限られた規則性認識能力に引っ掛からなかったものが「ランダム」と認識されるのでは?
つまり、「ランダム」っていうのは「規則性の欠如」という消極的な形で定義するしかないと。』
# 通りすがり 『あ、上でかねぐんさんも同じこと言ってますね。失礼。でも、所詮人間の規則性認識能力は限られているので、消去法でやってもたいしたことないのでは?』
昨日の続き。
とするとカネゴンたちは、子供たちを逞しくするために最初から醜い現実の真っ只中に放り込まないといけないのだろうか。一見矛盾するようではあるのだけど、色川武大は「うらおもて人生録」でこれとはまったく逆のことを主張している。例によって記憶からなので相当変形しています:
両親が年老いてから生まれたこともあり、私は幼少期から、傍から見ると常軌を逸しているぐらい溺愛されて育てられました。当時はそのことが疎ましくて仕方なかったのですが、長じて博打の世界に身を投じたとき、今から思えばそうやって溺愛されていたこと、過剰なぐらいに愛情を受けた経験があったからこそ、私はあの世界で生き残ることができたのではないかと思います。
鉄火場には、化け物のように強い男たちがうようよいました。しかし私が観察してみると、強い者が必ずしも生き延び、弱い者が必ず食い殺されているわけではなかったのです。彼らはおそらく、生まれてから他人に愛されたことなど一度もない者たちばかりでした。そしてほんのちょっとしたことで簡単に自分の生命を捨ててしまったり、博打に勝っても人格が破綻してしまったりと、過酷な運命に迎えられたのです。
私は「勝つ」ということを、それだけのものとしては捉えていません。たとえ勝っても人格破産してしまえば、それは「大怪我」です。そもそも鉄火場では延々勝負が繰り返されるのですから、局所的な勝利や敗北など途中経過にしか過ぎません。大事なのは勝つことより「怪我をしない」ことです。
私はあることがきっかけでその世界から足を洗い、自分の中では長らく「博打打ち失格」だと思っておりました。だいたい、自分には「帰る家がある」というだけでこの世界では落第したも同然です。彼らのほとんどは、帰る家も故郷もないのが当たり前でしたから。そしてこのクラスになると、皆同じぐらいに超人的な技術を身に付けていて、勝負が決するほどの技術の差は生じない。
しかし自分の力だけではどうにもできない運命的な瞬間に、他の博打打ちが次々と討ち死にする中、ほんのわずかでも自分の生命を粗末に扱わないでいられたのは、突き詰めてみれば、どんな形であれ愛情を受けた経験があったかどうか、無償の愛というものがこの世に存在することを知り、それを存分に味わった経験があったかどうか、そのことが決定的な差だったのかもしれないと今では思います。
博打やら何やらでさんざん非道を重ねた色川武大がこう言うところに、まっとうな意見を述べる高橋がなりにも通じる説得力があるような気がする。
カネゴンがついつい色川武大に入れ込んでしまうのは、麻雀放浪記?のような爆笑残酷バイオレンスものを書く人でありながら、本質的にはとても女々しいからなのかもしれない【女々しさだったらおれカネゴン】。
何の根拠もないのだけど、リリー・フランキーに色川武大と近いものをカネゴン一方的に感じてしまう【止めて止まらぬおれカネゴン】。
どちらもともに自堕落な自分を何とかしたくて、自堕落さを完全に克服するかわりに、自堕落でも許してもらえる方向に超人的な努力を払っているのと、どちらもともに聖書に入れ込んだ時期があるという理由で。リリー・フランキーの場合、高校生のときに思いを寄せていた同級生と話を合わせるために物凄い勢いで聖書を読みまくったということらしい(最終的に振られる)。
iPodがネットに常時接続されるようになったとき、どんな変化がありうるだろうか。とりあえずカネゴンが思い付くのは、データも何もかもネットの上に追い払ってしまうだろうということ。
しまいにはヘッドホンすらその辺のどのジャックに挿してもよくなってしまい、単なる電子証明書と秘密鍵だけがぽつんとiPodに残されて電池すらいらなくなり、それがアップルのブランドの力で売れ続けてしまったりするだろうか。そして人々はゆりかごから墓場まで、たった1つの電池なしiPodを首からぶら下げて右往左往するようになるのだろうか【何が何だかおれカネゴン】。そこから先何も新しく作るものがなくなってしまったりするだろうか。
以前も書いたかもしれないけど、ボケ防止に脳に適正な負荷を与える「嘘つき健康法」というのはありうるだろうか【嘘で固めたおれカネゴン】。相手や場にに応じて自分の言動をまったく変えてしまったり、「世が世だったら」で始まるあらゆる妄想を心ゆくまで展開してから他人に吹聴するなどし、互いに鋭く矛盾するそれらの言動や言説を自分の内部で完全に統一することで脳を十種競技または百人組み手のごとく極限まで酷使する健康法【廃物利用のおれカネゴン】。
アシモますます歩きが上手になる。這えば立て、立てば歩めの親心。後10年もしたら無精ヒゲを生やして小遣いを要求し、夜毎街へと繰り出して遊びほうける予感【身近なたとえのおれカネゴン】。
他の人はどう思ったかわからないけど、カネゴンが「ナニワ金融道」という漫画から勝手に読み取った最大のメッセージは、「世の中のほとんどの人は、いい加減にしか仕事をしていないのやから、覚悟しときいや」というものだった【出鱈目方言おれカネゴン】。
ファーストフード好きの母親から生まれた子供はアトピー性皮膚炎になりにくい。事の真偽は不明。
これとはまったく関係ないのだけど、自分の子供だけに安全な食べ物や飲み物や環境を用意してあげればあげるほど、その子供は確実に、そうでないほとんどの環境で暮らせなくなり(つまり環境に対して脆弱になる)、世間を狭くしてしまうという物凄いジレンマがあることが、少しずつすべての人に気付かれてしまいつつあるのかもしれない【隠しておったおれカネゴン】。
これは科学とかそういうこと以前に、色川武大が口を酸っぱくして主張してきた冷酷な法則にそのまま合致する【またまたそれとはおれカネゴン】。つまり、親が自分の子供だけに安全な食べ物や飲み物や環境を与えようとすることと、親が自分の子供だけをどんな環境でも逞しく暮らしていけるようにすることは、少なくとも与える親の側においては決して両立しない。そうやって大事に育てた子供の中から突然変異でどえらく逞しい子供が出現することもあるだろうけど、あれこれしてやった後の結果はたぶん科学の範疇なのでそちらに任せるしかない【貴様に任すとおれカネゴン】。
自分の足が臭い。
perlベースのmp3 jukebox ソフトウェアTrickster 2.0。
ソフトウェア技術倫理で検索すると1件も引っかからない。ソフトウェア倫理で引っかかるのは、ソフトウェア開発そのものにおける倫理ではなく、コンテンツの規制に関する話題だけだったりする。
社団法人日本ローマ字会が提唱する「99式」日本語のローマ字表記方式(要約)。
最上さんのブログ「最尤日記」より「考える脳 考えるコンピュータ」。
またしても漫画喫茶に泊まってしまったので、この機会に念願の楳図かずお「14歳」一気読みを果たし、腹の皮がよじれる。
ページをめくったときに何としてでも読者を驚かすことのみに全知全能を注ぎ込んでいるために、登場人物がほぼ一人残らず最初から最後まで取り乱し続け、前のページで言ったことを次のページで完璧に忘れ去るほどの強度の健忘症にかかっている。おそらく楳図かずお以外には誰もできない、恐ろしく間の悪いコマ運びと、外国人がこれで日本語を覚えたら大変なことになるぐらい不自然極まる台詞回しはこの漫画で完成されたと感じる。途中何度もストーリーのおさらいがあるのは、そうしないと自分がわからなくなってしまうからなのかもしれない。さらに、科学っぽいセリフの内容が一から十まで矛盾に満ちていて、殊能さんがうっかり読んだら確実に笑い死にし、完全犯罪が成立する。
ハリウッドで映画化されることはまずないと思うけど、諸星大二郎をしてじゅすへると呼ばしめ、空前絶後な何かを完成させてしまった力量に改めて恐れおののいてしまう【ずらかる準備のおれカネゴン】。
まっこともって下らないのだけど、こういう場合反射的に「ワースト10」と書きたくなってしまう。カネゴンが卵(小学校の頃)、月刊少年マガジンに掲載されていた「権太がきた!」という漫画で「おまえは最低のひどい奴だ」という表現を初めて知り、「ひどさの強度を形容しているんだったら『最高にひどい奴だ』じゃないのかなァ」と些細なことが気になってしまい、結局慣用表現を知らなかったカネゴンが間違っていたことがあった。今でも内心、そっちの方にしたい気持ちがある【過ち正さぬおれカネゴン】。
それはそうと、ディストピアにもお国柄がしっかり表れそうな気がするので、ぜひ中国とインドにもそれぞれアンケートを取って欲しい。
カネゴン同様、最上さんも日記にタイトル付けたくないらしい【聞かずに書くのはおれカネゴン】。
英王立協会の投票で、科学に貢献したのはアインシュタインよりニュートンと決定。
2ちゃんねるでしばしば、いい大人が「トラとライオンとどっちが最強か決着つけるスレ」とか「最強の昆虫を決めるスレ」などで真剣に言い争っているのを思い出す【下から2番のおれカネゴン】。
勝負を恨みっこなしとするため、早速昨日の判断基準を発展させ、アインシュタインとニュートンのどちらが多くの雇用と失業を生み出したかを誰かが比較してくれるまで待ちます【仕事に戻るおれカネゴン】。
コリオリの力。(コリオリの力から「の」を取ると、「力」がカタカナのように見えて仕方がないので、「の」を入れました)
ほぼ雑学にまで落ち着いたと思っていた歴史的な科学実験にツッコミどころがある(再検証の余地がある)ことにたとえようもない喜びを感じてしまうのはカネゴンがいけない人だからです。教育目的も兼ねて、世界中の小中高で手分けしてこれらの実験を片っ端から再検証するという壮大な科学実験グランドツアーみたいなことを実施すると、大人の科学者が失業するだろうか。
以前にも似たようなことを書いていた。
カネゴンは、つい同じ本ばかり何度も何度も何度も読んでしまうのだけど、そうやって味わいつくしてしまった数少ない本の一つに、「アシモフの科学エッセイシリーズ」があった。文庫で安かったというのもありがたい。この本の完成度がびっくりするほど高いわけでもないのにカネゴンが繰り返し読んでしまったのは、科学という分野を俯瞰することのできる本を当時他に知らなかっただけなのだと思う。関係ないけどオライリーも文庫で出してくれればと切に願う【デフレ呼ぶのはおれカネゴン】。
ポリティカルな話を偏らずに面白く読ませることにかけては右に出るもののいない町山さんの映画レビュー再開。
女性のためのクルマ読本。カネゴンこれまで「セダン」がどういう意味なのかわかっていなかったことが判明。
具合が悪くなり、早退。
# たざき 『無粋ですが念のため書いておきますが、コリオリ力について「つっこみどころ」はないと思います。台風のまわり方には影響するけど、お風呂くらい小さいと(普通の状況では他に非対称な要因が多すぎて)影響しない。』
# うりかねぐん 『田崎さん失礼しました。ツッコミどころが多いのは私の方でした。』
# たざき 『うるさいこと書いて、すんまへん。
これでは、「いい思いをする科学者」役ではなく、いちいち何にでもケチをつけて最後はお水さまの怒りに触れて濁流にのみこまれる意地悪科学者役だなあ。』
# うりかねぐん 『いえ、こちらこそ安全圏(?)から適当なことばかり書いてました。
>お水さまの怒りに触れて濁流にのみこまれる意地悪科学者役だなあ
何の映画でしたっけ?』
# nuc 『http://d.hatena.ne.jp/hachi/comment?date=20051201#c1133573215 の映画かと。
じゃあ、僕はコリオリ力の評価を3桁間違えて濁流に飲まれるニセ科学者をやりますね。』
# うりかねぐん 『私もニセ科学者やりたい...』
「頭がいい」とか「あいつはバカだ」といった知性にかかわる判定は「言ったもん勝ち」なのである{内田樹)。
この間Gさんのことを書いて初めて気付いたのだけど、カネゴンの場合「それが必殺の武器になるかどうか」で判断してしまっているらしい【竹やり持ったおれカネゴン】。
ここで、半端に頭が悪いがゆえに無意識のうちに相手を殺めてしまうことがあることにに気が付く【それで殺めたおれカネゴン】。ということで、頭の良さも頭の悪さもひっくるめて「それで一体何人殺せるか」という単位で測定することを提唱したい【薬が効かぬおれカネゴン】。
苦し紛れに、初期映画秘宝に不可欠だったリリー・フランキーの「日本のみなさんさようなら」を初めてちゃんと読む【ますます苦しいおれカネゴン】。2ページ完結の連載もので、読み進めるほどに文章から無駄が削ぎ落とされ、ギャグも比喩も冴えてくるのが手に取るようにわかる。一番笑ったのは:
「うる星やつら」について率直な意見を書いたら、支持団体から半殺しにされたことがあった。
デルモンテ平山(平山夢明)も、かつてサムライトルーパーというアニメを「これが噂の失禁ビデオ、女の股間ももらい泣き!」と紹介したら、親でも殺されたかのような抗議の電話が殺到したと書いていたことがあり、ネタの冴えで勝負するライターの業というか宿命を感じさせた。
遅ればせながらBinary 2.0カンファレンス 2005 発表資料とレポート。
フリードリッヒ・グルダのビッグバンド。クラシックとジャズの両方から鬼っ子扱いされている可能性が高いけど、猛烈に聴いてみたい。
アマゾン川流域に大規模な古代文明があった。フィクションでもMasterキートンでもない、とろけそうなぐらいロマンチックな話【溶けて流れるおれカネゴン】。
結城さんの「幻想の終わり / 失敗してもいいんだよ」が、タイミングよくカネゴンの背中にぶっすりと突き刺さりました。
知人と連れ立って、「奇談」を見に行く。ストレートな和風ホラー仕立てだったことがカネゴンの意表を突いた。カネゴンはこの映画を見るまで、原作の「生命の木」がホラーだとは夢にも思っていなかったことに今更気付く。見てもいないのに申し訳ないけど【言い訳そぞろのおれカネゴン】、てっきり「パッション」のような作りになるのだとばかり思っていた。
上映前に予告編が怒涛のようにかかる。
以前から思っていたのだけど、予告編が洋画(この場合ヨーロッパではなくハリウッド)か邦画かで、歴然と違うものが一つある。同じスピーカーから出ているにもかかわらず、腹に響くような低音の作られ方が明らかに違う。ホラー映画のサントラだと洋の東西を問わずこれでもかとばかりに低音を鳴らしまくるけど、日本のはどういうわけか常に球質が軽い。ハリウッド系の映画の低音は、日本映画のサントラが越えられない低音の壁を楽々と越えて、低音がドロッとつぶれずにずっしりと響く。
特定の映画でなく、全体としてそういう傾向が感じられることから、サウンドエンジニアの低音の感じ方が決定的に違うのではないかと何となく考えている。どちらがよいということではないのだけど、民族性とかそういう安っぽい言葉で説明されてしまう前にまず調査が必要【株価を下げるおれカネゴン】。
全然ちゃんと調べていないのだけど、カネゴンがこの種の低音を初めて耳にしたのはデューン/砂の惑星で、サントラはあのブライアン・イーノだった。それ以降のサントラの重低音はすべてイーノの影響下にあるとカネゴン勝手に思うことにしている。
違いをより際立たせるために、洋画と邦画のサントラ(のエンジニア)だけ互いに取り替えてみたらどんな感じになるだろう。貴重な実験の成果として、むっちりとした重低音の鳴り響く「釣りバカ日誌」や、畳の匂いのしそうなカサカサした低音に彩られたロード・オブ・ザ・リングスに出会えたりするのだろうか【仮定に仮定をおれカネゴン】。
と書いたら誰かがスペクトルアナライザをぶん回して勝手に調べてくれることを希望。
何ヶ月かぶりの休日。家を片付けることすらリフレッシュになる。皿を洗うことすら手が暖かくて気持ちいい【エクスタシーとはおれカネゴン】。
久しぶりに来た「読書猿」メールマガジンで、ターベルコース・イン・マジックという世界最高峰のマジックの教科書が紹介されていた。
昨日カネゴンが好き勝手に列挙した提案について。
想像の域を出ないのだけど、ニセ科学に立ち向かう立場の科学者として一番つらいのは、「いやー、本当はそうしたいところなんだけどね」などと間違っても当事者がポロリと発言できないことかもしれない。なので論理的に考えれば、ニセ科学と日々戦いを繰り広げるまともな科学者は、決してこの日記に言及することはない【躓く石とはおれカネゴン】。
若者だけを選択的に追い払う装置が発明される。若者とそうでないものが真っ二つに分かれて最終戦争する日も近いということでいいだろうか。
年齢にかかわらず、若者を若いというだけで憎いと思ったその日から若者ではなくなるとカネゴン定義しておく【憎まれたいのはおれカネゴン】。
文章力を教えるためには、「良い文章」の他に「だめな文章」の例も豊富に必要な気がするのだけど、それが行われないのは「だめな例」に使われた人がこぞり集まりて丸太を抱えて出版社に突進することが懸念されるからなのだろうか。
文章の技術と文章の表現力(読者を魅き付ける力)は、どうやら独立した事象らしいことにようやく気付く【後から後からおれカネゴン】。つまり、文章の技術はあっても魅力のない人もいれば、文章に魅力があっても構成やら何やらがすっとこどっこいな人もいる。両方凄い人もいれば、両方だめな人もいる。
その割りに、文章力の向上云々について議論されるときに、何かとこの両者が混同されてしまうことが多いような気がする。少なくとも、この両方を混同したまま、欲張って両方とも身に付けさせようとしている(しかし実際には表現力にばかり力が入っている)ように思える。文章の技術は教えられる(つまり教科書にできる)けど、文章の表現力まで教えられるとは到底思えないし、実は表現力などなくても実用的にはまったく困らなかったりする。
# ayahachi 『若者追っ払い機、いいですね〜。あ、でも子供も追っ払われちゃうんですね。「若者を若いというだけで憎いと思ったその日から」私もすでに若者ではないのですわ。あと年下の男の子を見て「若くて可愛いわね〜」と思ってしまったそのときに、あぁ、私はもう若くないのだな、と気が付きました。』
# うりかねぐん 『私も無理とは知りながら、いつまでも年寄りから憎まれたいものです。』
# Satoshi Tanabe 『>丸太を抱えて出版社に突進
そして両手いっぱいの権利を抱えて民事裁判所に突進するわけですね!【言うてもないのにおれサトゴン】』
# うりかねぐん 『夜中にみな松明を灯して出版社をぐるりと囲むわけです。』
いろいろ書いて没。
シンポジウム「ニセ科学とどう向き合うか」。カネゴンに手伝えることがあったら言ってください【科学があぶないおれカネゴン】。
ニセエンジニアリングで検索すると、一件もひっかからなかった。
# BUNTEN 『>地下鉄運転中に奇声。なぜかとっても身につまされる
海に向かって君が好きだと叫びたくはないけれど、地下鉄の轟音に紛れて雅子(←連れ合いの名)愛してるよとか叫びたい気はするBUNTEN。(^_^;)』
# うりかねぐん 『自分の場合まったくロマンチックな衝動でないのがなお情けない..』
# たざき 『シンポジウムの応援、感謝します。企画が成功するよう、四国方面にむけて良き波動を送ってください。
その啓蒙映画で、めいっぱいいい思いをする科学者(さえないおっさんなのにもてもてとか、科学をやっている徳のおかげで宝くじにどんどんあたるとか)の役をやってみたいです。
ところで、マジになって読んでいる人がいるとまずいのでマジレスしますが、ぼくは、「ニセ科学」を信じたい人が信じて楽しくやっているのは大して気になりません。それで商売をされるとちょっとひっかかりますが、それでも、(死ぬほど高価とか露骨な詐欺でないかぎり)買う方もハッピーなら別にかまわない(ぼくだって、お守り買うし)。しっかし、露骨な「ニセ科学」が安っぽい道徳と結びついて小学校の教育現場にはいっていくのだけは許せんとですよっ【どこの生まれかおれハルゴン】。だから、デルタフォースはいいけど、小学校でそういう授業がはじまろうとしたら、セーラーマーズとかゼンダマンとかが突如でてきて、火星にかわって折檻とかをしてくれるのがいいと思う。』
# うりかねぐん 『たざきさんこんにちは。ちょっくら緊張してます。仕事が苦しいあまりあれこれ書いてしまいました。書いた後で、広告代理店なら真っ先にこういうこと考えるかもしれないと思いましたが、科学と広告代理店ってやはり水と油なのかな。』
# Satoshi Tanabe 『>(ぼくだって、お守り買うし)
た、たざきさんって、お守り買ったらハッピーになるんですか!? それって、安っp(以下略)』
# うりかねぐん 『いやまじで、スペースシャトルにもお守りとか御札とかビシバシ貼り付けたいです。もちろん神棚も。無事でありますようにと願ってもらえるのはありがたいことです。』
# なかの 『花神、原作は司馬遼太郎ですね。面白いですよ。』
# うりかねぐん 『ありがとうございます。これでまた老後の楽しみが増えました。』