|  《エッセイ》もう一度やりませんか、英文法 | 
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<ぶつぶつ(ひとりごと)> もうそろそろ良いのではないだろうか。英文法を教えても。 これまでの英語教育は間違っていた。これまでの英語教育は文法・訳読だった。したがって、文法を教えることは間違いである、との奇妙な三段論法に基づき全国の中・高校現場から英文法が消えて(1978年、文部省指導要領)から、かれこれ20年あまりになる。 しかし、英文法をかなぐり捨てていわゆる「英会話メソッド」に走ってから、日本の英語教育は本当に良くなっただろうか。 確かに中学校の教材は authentic になり、教授法は良くなったように思われる。しかし、高校、大学では書けぬ、読めぬ学生が怪しげな英語を大声でわめくという光景が見られるようになってしまった。街の英会話学校は大流行だったがこのところ一息ついた感無きにしも非ずと聞く。入試地獄が突然かき消えて、カタコト英語と「勇気」だけで世界を飛び回る若者が増えている。 <L1=L2仮説の呪縛> 日本人も、もしアメリカ人やイギリス人のようにたくさんの英語のシャワーを浴びれば英語が上手になる、というのは多分正しい。しかし、問題は、「もし」の後の「たくさんの」である。日本人が日本にいて、たくさんの言語刺激を浴びることは事実上不可能である。仮に、日本にいてなるべく日本語を話さず英語に触れるように過ごしても、その効果は極めて限定的なもので終わる可能性が高い。また、仮にいったん「手だれ」の域に達しても、日本にいてその英語力を保持するには多大の努力が必要である。それが外国語学習というものであり、それほど、言語修得とはその言葉を「生きる」ことなのである。 したがって、日本にいて、英語を生きることのない日本人が英語を学習するにはどうしても文法学習が必要である。文法は言語体験の先取りをするだけでなくその不足を補うからである。 <日本人のための英文法> いったん、ネイテイブのようになることをあきらめ、interlanguageとしての日本人の英語といった存在を認めるなら、その中で英文法はどのようなものとなるべきであろうか。その文法は、(i)演繹的で、(ii)体系化され、(iii)軽量化されたものでなければならないと思う。 なぜ、演繹的でなければならないかというとauthentic な言語刺激を与えながら帰納的に「気づき」を待つようなL1方式では効果は期待できないからである。あまりにも言語刺激の量が少なく、一方で、あまりにも日本語の干渉が大きいからである。 また、なぜ、体系的でなければならないかというと本来全ての言語は体系的な存在である、ということとは別に、プロとしての英語教師のシラバスは本来体系的でなければならないからである。毎時間、毎時間が楽しかった、ではだめなのである。 さらに、なぜ軽量化されねばならないかというと、学習英文法が抽象ルールの束である以上、学習者の言語体験の量に見合ったものでなければならないからである。この言語体験の量を見極め、それぞれの学習者にあった抽象ルールの束を「処方」するのが教師の仕事であろう。言語体験の量は、おおむね獲得語彙数に比例すると思われるので、中学校では語彙数900の、高校では2000前後の、大学では4000〜5000程度の語彙に見合った文法の処方が必要となる。そしてここに教師の仕事のむつかしさと醍醐味がある。 言い換えれば、文法を(i)帰納的に、(ii)非体系的に、(iii)大きなサイズで教えれば失敗するのである。 <いくつかの提案> そこで、これからの学習英文法は、次のいくつかあるいは全てを含むものとなろう。 (1) 品詞は内容語の基本4品詞を中心に。 これまでの伝統的学習英文法では、品詞は内容語(形容詞、名詞、動詞、副詞)と機能語(接続詞、前置詞など)からなる8品詞というのが定説であった。これからは内容語の基本4品詞に軸足を置き、その他の品詞は二次的扱いとすべきであろう。 基本4品詞とその他の二次的品詞との違いは、前者には豊かな語彙性を持ち、開いており、しばしば強勢を持ち、照応形を持つなどの特性があるということである。そして大事なのは、語形成レベルだけでなく句・節レベルでも(i)意味ある語句の離合集散は基本的にこの4つの基本品詞の間をぐるぐる回っているということである。言い換えれば、意味の固まりは必ずこの4つのどれかに収斂するのである。 次に重要なのは、その他の品詞にどんなものがあるか、ではなく、(ii)2つ以上の意味のかたまりが一つになったとき品詞が変わるか変わらないか(Bloomfield, p.194)という点である。例えば、 1) ham and eggs において、and が文法的になんであるかわからなくとも 、ham と eggs が名詞、ham and eggs 全体で名詞とわかることが重要なのである。また、 2) in Chicago では、in の品詞がわかる必要はなく、Chicago は名詞だが、in Chicago 全体では(品詞が変わって)副詞句あるいは形容詞句となるということがわかることが重要なのである。 ちなみに、最近の科学文法では前置詞句(PP)という奇妙な文法カテゴリーが使われているようであるが、前置詞句は一方で形容詞句か副詞句としても働くのでこの分析法は学習文法としては redundancy を生み出すという点で切れ味の良いものではない。 (2) 文型ではなく動詞型で。 まず、英語では文型と動詞型は同じであると主張する人もいるが、違う。例えば、次の 3-a) と 3-b) は、動詞型は同じであるが、文型は異なるからである。 3)a. John kicked the Coke machine. b. The Coke machine was kicked また、例えば、come を動詞とすることに多くの人は異存がないであろうが、have はどうであろうか。have は動詞として完結しておらず後に必ず名詞を要求するという点ではむしろ in などに近い存在である。この have や in が後方の語句に対して持つ文法的期待(expectancy)といったもののセンスをみがくことは英語学習の成果を大いに上げうると思う。そしてここに動詞型を学ぶ意義がある。 さらに、動詞句の中の補部はO(目的語)/C(補語)による分析ではなく、N(名詞)/A(形容詞)による分析にしたほうが良いと思われる。O/CにもN/Aにもそれぞれ長短があるが、初級学習者にはN/Aのほうが向いているであろう。N/Aのほうがより語彙的で(more lexical)より少なく統語的(less syntactic)だからである。つまり、単語の意味がわかればO/Cの区別はできなくとも、N/Aの区別はできるのである。 (3) 受身形は空所 たすきがけ方式の問題点は、あちこちで議論されている(Quirk et al. , p.167)のでここでは触れない。たすきがけ方式でないとすると、例えば、次の 4) を生み出すには2つの方式が考えられる。どちらも空所 4) The Coke machine was kicked 5) a. ( ) + Tense + be-en + kick the Coke machine b. The Coke machine + Tense + be-en + kick the Coke machine 科学文法では 5-a) が定着しているようであるが、学習英文法では 5-b) を考えてよいと思う。5-b) の良い点は、topic--comment の順序が逆転しないことである。もうひとつ、5-b) のように受身形を完了形、進行形の延長線上で考えることにより、動詞句の拡充(大場、16-3)を次のような美しい形(Celce-Murcia & Larsen-Freeman, p.344)で捉えられるというメリットもある。 6) Tense + (will) + (have-en) + (be-ing) + (be-en) + V いずれにせよ、空所 というわけで、英語教師のみなさん、可愛い生徒を絶望的な忘却曲線との戦いから救う為、もう一度やりませんか、英文法。 
 参考文献: Bloomfield, L. (1933) Language. Holt, Rinehart and Winston Celce-Murcia M. and D. Larsen-Freeman (1999) The Grammar Book: An ESL/EFL Teacher's Course. 2nd ed. Heinle & Heinle Chomsky, N. (1981) Lectures on Government and Binding. Forris Oba, M. (2004) 『学習英文法2004TN』 大場昌也HP(http://www9.ocn.ne.jp/~bigarden/) Quirk, et al. (1985) A Comprehensive Grammar of the English Language. Longman 050615 |