| ------茨城の中学生による妹への殺人未遂事件の総括---------  
           
       少年犯罪の「凶悪化」「低年齢化」「質的変化」というものが、メディアに創作された虚像であることを以前から指摘してきた。総理府の世論調査でも日本人の9割以上が、「少年犯罪が凶悪化している」と回答しているのだが、これは犯罪統計とは正反対の認識であり、マスコミへの過信は深刻な事態だと言えるだろう。 たしかに治安は悪化しているのかもしれないが、社会が根底から崩壊するような深刻な事態ではない。検挙率の低下は警察が事件を受理するようになったことが統計に表れているだけで、犯罪者が進化しているわけではない。アメリカの公立高校のように、薬物の取引や武器の持ち込みを武装した警官が監視している事態を見れば、日本の学校がいまだ健在であることが分かる。 児童虐待にしても、公的な枠組みの中で事件を処理するようになって見かけの実数が増加しているだけだとも言える。 メディアが株式会社である以上、煽情的な事例のみを取り上げてサラ金のCMをひたすら流すのは止むを得ないのかもしれない。ただ、それを見る側の視聴者は、伝えられている事実が「ある意図に基づいて選択されている」ということを忘れず、批判的かつ公平に判断しなければならない。 120万人いる14歳の少年のうち、ごく一部が凶悪な事件を起こした時に、彼以外の圧倒的多数の14歳が犯罪者ではないことを忘れてはならない。久米宏が「最近の少年たちはどうしちゃったんでしょうね」と言っていたが、彼が少年だった頃は凶悪な少年犯罪が現在の2倍以上起きていた。断片的事実によって構成された虚像を信じるということは不健全極まりない。   
        情報は以前には政府が独占していた。政府は思い通りに情報を操作し自らの考え通りに国民に再配分することが出来た。・・・日本国民に、世界を相手に銃を取らせるという狂気を植え付けることさえ出来た。これはリアルタイムに近いスピードで事実をつかむことが出来たのが政府だけだったからだ。  (大前研一/ボーダーレスワールド p48)  
        
       メディアが発達した現在、情報を操作することは限りなく不可能に近くなっている。ただしそれは、情報を受け取る側が受け取った情報を客観的に分析できるかどうかにかかっている。本来はこうした分析を行うのはメディアであるはずだが、彼らが高利貸しに魂を売ってしまった以上、視聴者には情報を解釈・分析する能力が求められる。  
        
       妹の頭を鉄棒で殴打した茨城の中学生が、「殺人に関するHP」を見て凶行に及んだというのは、彼が警察で供述した内容であり、警察が発表した内容をそのまま報道したメディア各社の態度には何ら批判すべきものはない(記者クラブの是非についてはここでは触れない)。 しかし、人間の実存は非合理なもので、「太陽が眩しい」といって人を殺し、人々から罵声を浴びることを渇望する人もいる。一人の人間がある行動をとるには、動機の総数はゼロから複数であり、その動機を持つようになった要因、あるいは動機なしに行動した要因に至っては、ほとんど無限大に近い。 人間の行動は複雑で難解である。短絡的な説明を乗り越え、客観的に分析出来たと思ってもそれが真実である保証はどこにもない。よって、犯罪の責任は犯罪者本人のみが背負うべきであって、教育・親・テレビゲーム・ハリウッド映画・地域社会など外部要因に責任を転嫁するのは間違っている。 仮になんらかの外部要因とある特定の犯罪の間に科学的に明確な因果関係が証明された場合、その外部要因は法的な責任を負う。それは当サイトも例外ではない。  
        
       我々は言論の自由の中で生きており、天文学的な数量の情報を無制限に受け取ることができる。ただ、意図を持たない無色透明な情報は存在しない。津波のように押し寄せる情報の中にあっても、いかなる意図からも自由で独立した個人であり続けるという気概だけは、現代民主主義社会の住人として忘れたくないものである。   2003/12/22   
      プロファイル研究所・管理人とまと  
        
          
        
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