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13/11/1 松岡 佑子
黒柳『みなさんハリーポッターってお聞きになったことは、もちろんお読みになった方はこれから3冊目が』
松岡「でたばっかりですね。」
『終わりは何冊目って決まってるんですよね』
「ええ7冊ありまして原作の方は7冊を書き終えて金庫にカギをかけてしまってあります」
『それをかかれた原作者にお方は生活保護を受けながらシングルマザーで喫茶店で書いたっていうんですよね』
「それも本人に会って本当にそうなのかとたずねたらそうでしたし、コーヒー店にいったら本当にそこで書いていたということでしたし生活保護を受けながらがんばったとういうことで一冊目が」
『その本を出版なさってですねそれで社員がお宅の出版社がですね』
「はじめ私一人でしたけど今は私含めて4人、アルバイトを含めると10何人ということになります」
『ハリーポッターシリーズは今三段目が出ているところでこの方が訳された。私も読んでるんですけど本当に面白くて最初の所から引き込まれるんですね』
「ええ私も原作を読んだときに第一章の一番目の所からはまりまして、一章を読み終える頃にはこの本は私が翻訳するんだと決めていました」
『私は松岡さんの翻訳を読ませていただいたんですけどとにかくたくさんの国で読まれてるんですけど全世界180カ国以上で売られている』
「最初は27カ国語で訳されてるとお聞きしたんですけど今は38ヶ国語で訳されてると、今後は40ヶ国語で訳されることになると言われています」
『これを翻訳なされた松岡さんは通訳をされていて同時通訳?』
「同時通訳の経験は何十年とあるんですけど通訳がらみのものは翻訳したことがあるんですけど文芸書はこれが初めて」
『でもこういう大人が読んでも子供が読んでも面白い本をお読みになるのはお好き?』
「小さいときから本の虫でしたし、通訳になってからは通訳がらみの難しい本が多かったんですがファンタジー物が好きでしたし夢見る少女という感じでした」
『国際労働機関っていう会議の通訳をすごく長くやってらした』
「ええ、ILOは日本語が準公用語として採用されてからですずっとですから20年近くやってました」
『でこのハリーポッターってなんなのっていう方がいらしゃると思うので説明してくださる』
「私もハリーポッターと賢者の石を読んだときはまったく分からなかったんですが、ハリーポッターって言うのは魔法使いの男の子の名前で年齢は11歳という設定ですね、賢者の石というのは中世の錬金術師の使った石なんですが」
『イギリスの方ですからユーモアーが』
「ユーモアーありますね作者と会ったんですが本人もユーモアーがあってしっかりとし自立した強い方です。書きたいものを書くんだというしっかりとした意思を持った方でしたし」
『翻訳をされた方も意思の強い方で何が何でもこれは私が翻訳しなければと思ったそうです。これだけ売れた本ですからどこの出版社も飛び掛っていったんじゃないでしょうか』
「イギリスの場合は代理人が版権を持ってるんですけど本を読んだ一晩で読んだんですがその次の日の朝に電話をしたんですが日本にはまだどこにも版権を渡していないと、ただし3社すでに申し込みをしてきているあなたで4社目だといわれました。あなたにもチャンスがあると言われました。もちろん私は小さなとこですし通訳であって翻訳はしたことは無い。でも本を読んで感動した。でもどうしても私が翻訳をして出版したいということを電話で伝えた所から版権の交渉が始まりまして」
『どのくらいの規模の出版社ですかって向こうは聞かなかったんですか』
「電話では聞かれませんでした。でも私は主人から引継いだちいさな出版社を経営していて通訳歴は何十年とある。とにかくこの本を読んで感動したとお伝えしただけなんです。その後何回とFAXやメールで自分の立場を伝え出版したいという気持ちを伝えそして向こうが小さい出版社なのにどうして売るつもりなのかという質問が来て数回やり取りが合っただけなんです。ですから特に変わったことを申し上げたつもりはないです。2ヵ月後にあなたに決めましたというEメールがきました。」
『そのときどういう気持ちでした』
「ええ100万分の一の確立と思っておりましたからボーっとしましたうれしかったですけどまずボーっとしました。」
『売れた本ですから大手の出版社に頼むと思っちゃいますよね』
「幸いしたのがJKローリングが処女作でイギリス・アメリカでは有名でありましたけど世界ではそれほど知られては居ないという状況の中で自分も大手から出版を断られて小さなブルームズベリーという所から出版したという経験がる」
『そう』
「情熱と能力があれば出来るという情熱を作者がもってたんじゃないですか。私が1番情熱のある出版人であると代理人から聞かされていたから任せたんだと著者から聞いたことがあります。」
『でも情熱があってもこの人が本当に情熱のある翻訳者なのかっていうことがねでもお手紙や何かで向こうは分かったんだと思いますけど』
「ただ私が英語が出来るということがありましたから直接代理人と電話でもメールでもFAXでもやったということは確かでそれは普通ではないことだったのかも知れません。」
『ところでこういってはなんですけどそのころは本当に人数が少なかった出版社なんでしょ?』
「主人がたった一人でやっていた出版社を主人が亡くなって引継ぐことになったんですけど私も本作りを傍で見ていていいものだなあと、もちろん出版が儲からないことも分かってましたけど引継いだときは借金を返す状態で一つでもほんを出すとかえって赤字を出すんじゃないかという条件の中で友人がパートタイムで手伝ってくれて、だんだんひとが周りに集まるようになってプロジェクトチームとしては10人ぐらいで第一巻をすすめました。」
『日本で3話目まででどのくらいの部数』
「610万部になっておりまして」
『この分厚い本が610万部。印刷した所から直接お宅の所に持ってくるんじゃないからいいけどお宅の出版社に持ってこられたら入りきらない』
「幸い私の自宅が出版社だったんですけど今年の2月で別の事務所をかりる所まで成長しましてすこしはスペースのよゆうがあるんですけどただ第一巻を出しましたときに初版が3万部という部数だったんですね。それは無謀だと2万7000ぐらいがいいんじゃないかと言われながら昔3000部しか出してなかった出版部ですからもし本が売れなくて帰ってきても自分ひとりしか住んでない家ですからどっかに積んどけば何とかなるだろうと思いまして3万部生きましょうと決心したのも私ですし」
『ただこんなに厚くて手のかかってる本なのにお値段としては』
「ええ安いと思ってるんですが1900円。3巻目もじつはページ数でいうと20%増えてるんですねそれにもかかわらず据え置きで。でも第4巻はこの厚さですから第一巻の倍の厚さなんですねだから同じ値段というわけにはいかないかと思いますね」
『でみなさんこれだけ売れたんですからずいぶん儲かっただろうとみなさんおっしゃるんじゃあ』
「版権料やいい本を作っているので儲け率は低いのですがうちは少数精鋭の女性3人ががんばってくれてるので効率のいい人件費なのでそういういみでは赤字になることはありません。ただ自宅から事務所を自宅ではなく写すことが出来た利益はあります」
『松岡さんのお考えとしては何代にも渡って大事にされる本にしたいとお考えで』
「21世紀の古典になる本だと思いますし、孫・子の時代に渡って大事にされる本になればなっと思って」
『翻訳なされる方の考えで面白くしようと印刷屋さん泣かせなんですけど字をこういう風に
半人前魔法使いって字を大きくする。これは原作の方もやってあるんですか』
「いえここは静山社オリジナルなんですけど。原作者は声の大きい所を字を大きく書いたりそれに挿絵は一切ないんです。この本には挿絵は認められてないんですよ。想像力の世界を豊かにするということで。字という字から想像力を膨らませる工夫をするということはいいだろうということで編集者と一緒にいろいろと工夫しまして先ほどのような文字にしまして」
『お分かりのようにルビがふってあってこのごろは大人にもルビがふってあったほうが読みいいということで』
「活字も大人用よりは少し大きくして、子供用よりは小さくして。ルビもあまりうるさくないぐらいにルビをふって同じページであれば必ずルビがありますよって読みやすいように読みやすいようにしています」
『これに関しては日本の子供ずいぶん読んでるんですって。お手紙ときます』
「今610万部ですから5〜6万部の愛読者カードが1巻からきてるんですよ。普通はアンケートの回収率1%なんですけど内は1.4〜5%なんです。その中で今までは本を読むと頭が痛くなったけどこの本だけは読めましたとか部屋のドアに面会謝絶っていう札をつけて出てこなかったんですよとか子供が夢中になって読む、もちろんおとなも夢中になって読むんですけど子供がこれほど夢中になって読む本が無かったてことが児童書としての側面がずいぶん取り上げてくれてます」
13/11/2 東海林のり子
『ご主人の話なんですけど今すっごくラブラブなんですってだけどあなたの苦闘の何年間・・・』
「あの65歳が定年の会社だったんですけど外資系なんですけど全国を飛び回って仕事大好きなんですよ。部下をしかったりして熱血営業マンだったんですね。それで60ぐらいになったときに仕事がどんどんどんどん減ってきて実働するより見ているだけになってくるんですね。そしたらつらくなってきたらしく行きたくないっていいだしたんですよ。」
『登社拒否』
「そうでもパパに楽じゃない見ているだけでこんなにお金もらえるのよって。最初のうちはそうだねって言ってたんですけど会社行こうとすると具合が悪くなるんですよ。お酒の量なんかも増えてきて”パパ辞めようよ”って早めに退職したらってすすめたんですよ」
『お辞めになったの』
「はい。辞めると今度余計にやることが無いんですよ。釣りに行きたいとかゴルフ行きたいとかいっぱい希望があると思ったのに行きたくないんですよ」
『ビックリしたでしょ。辞めたら次の日からルンルンで』
「そうでも最初の内ですね元気になったのはやっぱりずっと座ってテレビ見て。それと大きな仕事は終わったんだけど体力的には若いから何かしないといけないと思ったんですね」
『ちょうどあれなんですってね不況がだんだん押し寄せてきて60くらいのかただと新しい仕事が中々ない』
「そして考えたのが私がこれだけ毎日忙しく仕事に飛出しているのがパパにとってはプレッシャーなのかなって」
『そういうときに離婚しちゃうってこのごろ定年離婚ってありますよね。そういう気持ちってわかります』
「わかります。だって今まで素敵な人と思ってたのがお酒をのんだらダラっとしちゃうんですから。今まで通り仕事して楽しみの無くなった人を置いておくのは駄目だなって思って」
『楽しみを自分で見つけようってことも無い?』
「無い。いまから考えれば”亭主改造大計画”なんですけどいままでは私も主人も仕事忙しかったから旅行って考えたこと無いんですよこれはね旅に連れて行かなければと思って一泊でいいから箱根だったら一泊でいけるじゃないですか」
『行きましょうっておっしゃったときは初めどうでしたか?』
「すぐに行くって。それと映画に連れてったんですよ。この映画が良かったのは私も主人も千円で見られるんですよ。シニアだから。朝一番にいくとガラガラなんですね。指定席に座って。最初は寝ちゃうんですよ」
『ああ行く気が無いから。でもいらっしゃることはいらっしゃる』
「でも予告編なんかを見てるとあれ面白そうだねって次あれ見ようって」
『赤いお洋服を着ましょうって改造計画の中には』
「赤がいいんじゃないかって。闘牛じゃないんですけど」
『ヒゲもいいわねっておっしゃったんですって。』
「色んなこと言ってねそしたら少しかっこよくなてきたんですよそしたら段々段々盛り上がってきて仲良くなってきたんですね」
『その前はケンカしてたの』
「そうでもないんですけど前は”パパお酒飲んじゃ駄目よ”とか言ってたのが」
『やさしくなるのね』
「やさしくなったらお酒もやめて今は飲みません。」
『すごいですね今まで猛烈社員だった人が仕事が無くなって自分は必要とされてないって男の人のプライドやなんかは女には計り知れないものがあるんですね。女はその日限りですからなんとかやってきゃって』
「出世したいとかあんまし思わないじゃないですか」
『そうですね元々がね』
「会社の為とか思わないじゃないですか。自分の為ってのが比較的多いから」
『自分とか自分の家族ですよね。女の人はね。男の人は自分の能力を伸ばしたいっていうのがあったと思うから仕事がなくなったときのガックシの感じって女には理解できないですよね』
『ご主人は車の運転お好きなの?』
「車大好きなんですよ」
『車も新しいの買いましょうとかいちゃって』
「多少無理してそれを磨いたりしてる姿をみてると好きなことさせてあげたいとか思うじゃないですか」
『無理して車を買ったらこんどはあなたを迎えにいってあげようかとおっしゃって』
「行こうかといわれてもね終わる時間がはっきりしないじゃないですか」
『迎えに来るとそのあと食事にいって、映画に行ってってご主人がどんどん自分で動くようになって。4・5年はかかったんですって』
「そうですね3年はかかりました」
『ご主人もとっても前向きな方だと思いますよねそういってもいやだっていうひともいるかもしれません。それとご主人と一緒のポスター私はすごいびっくりしたんですけど』
「徹子さんねえテレビなんかに一緒に出てくれませんかっていうのが最初すごく嫌がったんですよ」
『あなたもイヤだって』
「そらイヤですよ。一人の方が気を使わないですから隣にいるとなにかと気を使いますから。だんだん連れて出て行くと銀行のポスターに」
『皆さんこれ見てください横に書いてあるんですね”一緒に長く暮らしていても新しい発見ってあるものですね”って』
「ポスターをね色んな所にあげるあげるってなんかうれしかったんじゃないですか。よく撮れたなって」
『そうこの方はモデルさんて思った方も多かったんですって』
「そうですか。そんなこと徹子さんいったら喜びますよ」
『このごろはあれなんですって家のこともすいぶんやってくださるんですって』
「すごいお料理上手なんですよ」
『前はぜんぜんでしょ』
「前は子供のお弁当作ってくれたりしてたんですけどそれはちょっとよかったかなって思って何も出来ないと大変ですからね」
『一人でお買い物に行ってそこでいろんな人と仲良くなるんですって』
「魚屋さんとかスーパーの人とかと今日いったらこんな話が合ったとか話すんですよ」
『ガラッと人生変わりましたよね』
「そうですね。顔つきも変わりましたしやさしくなったし。私もそういう顔つきみてるとやさしくなったし」
『イキイキとしていたいですね』
「面白いと思ったのは恋愛結婚だったんですけど私が大学4年の時1年で入ってきて3つ下ですからそれでこう来て色んな形ありますよね夫婦って今がねこう落ち着いて幸せだなって思えるようになりました」
『(拍手して)ラブラブっていうことはそういうことですね。結婚してからずいぶんなるでしょ?』
「もう40何年。だからあのときにねなんて気力の無い人でしょって思ってたら今の幸せは来ないですからね」
『女の人はそうあるべきだと思いますねえ』
『幸せな東海林さんに今年のあなたのお誕生日に』
「ちょっと前に4月なんですよ私仕事してましたら電話かかって来て”ママちょっと早いんだけど誕生日祝い買った”ってそん時になんだろうって、地元で仲良くしている時計屋さんがあるんですよそこは宝石なんかもあつかってるんですけどそこで私に似合わない宝石なんか買ってきたらどうしようっていろんなこと考えたんですよ」
『取り替えられるかしらとか』
「何?っていって”帰ってきたら分かるから”ってそして帰ったんですよそしたらこんなケージがありましてそんなかにネコちゃんが居たんですよ」
『うん』
「スコティッシュホールドていってネコちゃんなんですよ。それまでねパパがね犬が好きなんですよ。犬が飼いたい飼いたいって言ってたんですよ。息子なんかとも電話で話してたら犬を飼って上げたらって言われてたんですよ。でも大変だしって言ってたら私がネコが好きなんで犬をあきらめてネコを買ったんですよ。で耳が垂れてたから名前を考えずにミミちゃんって。またミミちゃんがよくできていてパパが大好きなんですよ。パパが餌を作るものですからパパにべったりなんですよ”僕はこんなにネコに愛されると思わなかった”ってつまり犬好きですから一日中ゴロゴロやってますよ。でママなんとか散歩させたいんだけどって”ネコは無理よ”って」
『今この局でコメンテーターとかをされてるんですけど大きな事件とかは止めてらっしゃるんですって?』
「阪神大震災の取材をしましたときにその日のうちに阪神に入りましたから本当に生と死をわけるような場面を何度も見たんですね。今まで色んな事件を取材してきましたけどこれで見終わったって思ったんですね。これ以上のことは起きないんじゃないかと。ここでけじめをつけないと阪神大震災という大きな事件にたったということをケジメとしないとこれからずっと取材していかなければいけないと」
『最近見ないなって』
「そこでけじめをつけないと今のような生活はないですね。」
『でもロックにお詳しいのね』
「はい。ライブに行くのが好きでひとつのバンドと知り合うと次のバンドって。」
『ご主人と行かれるの?』
「ご主人は行かないです。ロックは私だけです」
13/11/21 伊藤 俊人
黒柳『よくいらしてくださいました。”ショムニ”、”お水の花道”、”さんま御殿”に出てらっしゃるんですが。メガネなんですけど』
伊藤「ドラマとかにですね出るときに監督にお尋ねするんですよ”メガネはどうしましょうって”すると”外してみて”、”はい”、”うわ〜目つき悪いねえ”メガネをかけると”それでいこうかバカぽいよね”とか言われて。」
『メガネをつけるのとはずすのではあなたずいぶん眼光が鋭くなるのね外すと。外したときは犯人とか多いの』
「そうですねやっぱり目つきが悪くなってしまうんで」
『でもハンサムでいらっしゃるから。目がずいぶん大きいんですねえ』
「メガネをかけるとやさしくなるんですかね」
『普段はかけてらっしゃる方なんですか』
「はいかけてます。コンタクトの方が楽だとは思うんですがソフトもハードも持ってたんですが合わなくて。2週間ほど続けなくてはいけないらしいんですが続かなくて”辛抱足らないね”と言われて止めました」
『芝居のときはメガネがあってもなくてもかわらない』
「舞台ですと最前列から4,5列目まで見えちゃうんで上がっちゃうんで」
『じゃあ無い方が』
「はい舞台は無しでやってたんですかテレビは目つきがあれなんで”伊藤さんはメガネでしょ”って言われて」
『今舞台とおっしゃいましたが三谷幸喜さんの”東京サンシャインボーイズ”でずっとやってらしたかたなんんですけど(伊藤さんがいつのまにかメガネをかけてるのを見て)あなたメガネをおかけになったのね、そうすると突然違う人と話してるように思えて』
「よく言われるんですそれ」
『そうですよね振り返った時「わ〜びっくりした(会場笑)」違いますよね。お家の中ではどうなんですか』
「かけてます」
『奥様は慣れてらっしゃる』
「そうですね」
『別に私みたいに驚かない(会場笑)』
「はい」
『お父様はあなたを野球の選手にしたかった』
「僕の”俊人”の”俊”と言うのは父親は”俊慈”というんですがその”俊”から来ているのですが”人”は南海の鶴岡一人の”人”をとって俊人となったんですが私は球技が苦手で玉が怖くて怖くて」
『お父様もビックリしたでしょ』
「はいすぐにしたの弟に託したみたいで」
『お実家は酒屋さんで場所は?』
「新潟市です」
『お父さんは映画が好きで』
「はい映画音楽がラジオから流れて気に入ったのを見に行ってたみたいです」
『あなたは映画館に行くのはいいんですけど2本立てというのが気に入らなかったんですって』
「はい。これみたいなあとおもっても同時上映がはあ〜みたいな」
『例えば』
「”ゾンビ”が上映されてたんですが同時上映が”ケンタッキーフライドムービー”だったんです。」
『その時間に行って1本だけ見るっていうのはいやなんですね』
「はい」
『”007”が見たかったのに”エマニエル婦人”が同時上映だったんですって』
「中学1年の時に正月映画で007が公開されたんですが同時上映の”エマニエル婦人”がふさわしくないと言うことで我が校では見に行ってはいけませんということになりまして」
『校内放送で流れて』
「はいガクっとなりました」
『エマニエル婦人を見たかったでしょ』
「はい、いや」
『日大の芸術学部にお入りになったんですけど家族には違う学部に入ったと』
「両親にいってもうまく説明できないんでうちは酒屋なんで商学部に入ったといいました」
『その後お父様が亡くなられて』
「大学4年のときに亡くなりまして死因が肝臓ガンで」
『お酒をお飲みになってた』
「はい大好きで」
『じゃあ酒屋を継げと言われて』
「はい大学を卒業しろという意見と直ぐに止めて酒屋を継げと言う意見に分かれましたんですけどわがままを言わせて貰って卒業しました。大学を卒業するときに進路って書くんですけど僕は未定とかいたんですが教授から問いただされて進められた所に就職しました」
『アナウンサーとか俳優さんを養成する学校そこの先生に』
「でもこっちの世界に生きたいというのがありましたので1年3ヶ月で止めてしまいました」
『それでいよいよ高層ビルの窓拭きをされるんですが。あれは中とかみえるんですか』
「みえます。ですが我々は見えてないよと言う風にして。とんでもない所に出くわしたりしました」
『事件とかには』
「ありました。銃を見たことがありましてでも見てませんよおって感じで下に下りていって」
『ずいぶん高い所。何階ぐらい』
「僕がやってたのは17階」
『ずいぶん長くやってらした』
「10年弱。きついですから辞めていくんですね。冬は寒いし夏は暑いし。でも時間的に融通がきいたんですね早く終わったら早く帰れたり。ずいぶん長くやったものですから独立しないかって」
『これにならないかって』
「はい」
『でもその内ゴンドラの揺れかたが変わってきたんですって』
「横揺れは当たり前なんですけど縦揺れしてきましてこれはワイヤー部分に問題がありまして辞めさして下さいといったんですねするとホテル側が困ると言われたんですけど窓拭き会社の方から我々は人命を尊重しますということですったもんだがありまして1つ現場を失ってしまいました」
『それから俳優の方にいかれたんですけどタップが大変お上手』
「お上手と言うかすきですけど」
『ドラマでやったことあります』
「ないです」
『タップダンサーの犯人とか駄目かしら』
「いいですよね」
『新婚なんですけど奥様は衣装のほうをやってらした』
「”ショムニ”という番組で衣装のほうをやってまして僕の一目ぼれです」
『結婚していろいろなものを捨てられちゃったんですって』
「全部2枚重ねで着てたんですね半袖の上に長袖を着てたんですがお願いだから止めてといわれて全部捨てられてしましました」
『奥様若いの』
「5つ下ですね。34歳です」
『テレビに出るようになったらお母様に誰かが息子さんが出てるみたいっておっしゃたんですって』
「母親もそういう仕事に関して理解がなかったものですから”お前は東京で何をやっているんだ”といわれて7転8倒してたいへんなことになりました」
『今はお喜びしょう』
「なんとか」
13/11/22 ヒロコ・ムトー
黒柳『ヒロコ・ムトーさんはTBSのタイムキーパーをやってた。生番組でしたか』
ムトー「生番組はとても持たせられないタイムキーパーだったんでVTRのタイムキーパーでした」
『なにか覚えてらっしゃる番組あります』
「私は1本しか持ってなかったんですけど”天使と野郎ども”っていう音楽番組をもってました。黛ジュンさんとスパイダースの音楽番組だったんですけど」
『大変な番組だったんですね』
「はいいつも部長から怒られて」
『タイムキーパーって大変な仕事なんですよね。』
「私に出来る仕事じゃなかった」
『私ベストテンでね緑ちゃんっていう本当に冷静な人がいてね1位まで入らないと大変なんですよね。まだ時間があると思って久米さんとしゃべってたので緑ちゃんにあと何分あるってきいたら”緑ちゃん泣いてます”っていわれて大車輪で一時までに入れたことありますけど。何年間ぐらいやってらしたの』
「1年間です」
『でも大変だったでしょ』
「毎回お前クビだって言われて」
『でも「のちに作詞家になられてペギー葉山さんの”雲よ風よ空よ”を作詞になったんですけどちょっとここでコマーシャル』
『タイムキーパーで一生懸命やってた頃音楽家のいずみたくさんが』
「ピンキーとキラーズっていうのが大ヒットしてた頃にうちの番組に出たんですね。サブっていう上の部屋にいたんですけどそこで泣きながら計算してたらいずみさんがいらして”タイムキ−パーさんこの仕事好き?”って”嫌いです”っていって”それじゃあ何がやりたいの?”って言われて”作詞家になりたいと思うんですけどチャンスがなくて”って言ったら”じゃあ僕の所に来るっ”って」
『ええ』
「このTBSを止める覚悟があるんなら僕の所で勉強するって言われて”はい、やります”っていってそれがきっかけで」
『この徹子の部屋のテーマソングはいずみたくさんで』
「はいそうです」
『いずみさんのとこにいって作詞家に』
「タイムキーパーを1年やってその次の年に作詞家デビュー」
『代表作が”雲よ風よ空よ”、郷ひろみさんの”天使の歌”、坂本九さんの』
「白いラブレター」
『そうなんですって。あのころの郷さんってすごい可愛かったんですって?』
「女の子みたいでした」
『これがすごい売れたんですって』
「アイドルっていうのはこんなに売れるものかってすごい印税が入ってきたんですけど次の月になったら新曲がでて」
『50万枚ぐらい』
「そうです。ペギーさんのは1年ぐらいかけて30万枚ぐらい売れたんですけど」
『ペギーさんはすごく詩を大事にしてくれる方で』
「すごく大事に歌ってくれる方であれから20年ぐらい経ってるんですけどいまでもCDに入れてくださってくれて」
『ペギーさんにとっても大事な曲で』
「そうですね」
『タイムキーパーをやってた頃にいずみたくさんが可愛く思ったんだと思いますけどねえ』
「いやいやあまりにもかわいそうだったんでしょうね」
『何年ぐらい前ですか』
「大学でてから直ぐですからね」
『まだお若い頃』
「いずみさんが1番売れてる頃じゃないですか出す曲出す曲売れる頃で」
『お母様の話なんですけどとてもユニークな方なんですけど。目が不自由で右目が』
「70の時に緑内障で失明しましてこう片っ方のメモ手術して人口水晶体なんですけど」
『なにか同居しているお兄様のお嫁さんがパステル画を薦めになった』
「はいボケ防止に」
『70歳ぐらいから始めてこういうことが出来るってのはすごいですよね』
「母の生き方に励まされます。失敗しても恥じかいても母の年までは30数年あるんですから」
『”のらねこムーチョ”ていう本があるんですけどこれはテレビ朝日出版から出ているんですけど詩はヒロコさんが、絵は』
「森田あずみさんが」
『その中からヒロコ・ムトーさんがお書きになった詩を朗読していただくことになったので』
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ちょっと休ませてくれないか。
遠い街から歩いてきたんだ。
ちょっと休ませてくれないか。
この街は昔住んでいたような懐かしい匂いがする
あんた見かけない顔だねえ?
でも誰かに似ているよ?
誰だっけねえ
どこの町であったんだろう
実をいえば私たちも昔はよそからの流れ者
もちろんこの街にだって争いはある
気難しいやつもいる
だけど恋もあれば愛が芽生え家族ができる
お前も誰かを好きになりあんな子が出来るかもしれない
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『ああ可愛いんですね。この絵をお描きになった森田あずみさんはネコが好きな方』
「好きなんですね。野良猫の悲しさとかたくましさとか」
『でてますよね』
「本来のプライドとかを捕らえて描いて下さってるんでね」
『こういう本をお描きになるのも・・・前はネコが好きではなかった』
「さわるのはもちろん見るのもいやだったんですね」
『ゴールドというネコに会ったのが人生観がかわるぐらいの』
「ゴールドは野良猫だったんですね」
『姿を消したんですって』
「ある日子猫を連れてきて。ああこのネコ、メスだったんだって」
『また甲斐甲斐しく面倒をみたんですって』
「そうです。私ネコって性格悪いとおもってたんですねでも子育ての姿を見ていると人間と同じで家族愛があって。いろんな意味で私に食い込んできたんですね」
『お姉さまにもお母様にもよろしくおっしゃって』
「はい」
13/11/23 ミハイル・ゴルバチョフ
黒柳『みなさん語存知だと思いますけど東欧諸国を解散させる、ベルリンの壁の崩壊、つまり世界を大きく変えた方が今日のお客様です。あの今どういうお暮らしをされているのですか』
ゴルビー「そうですねこれは簡単な問題ですけど答えるのは難しいですね。ライザ(妻)がいない生活というのはつらいものです。人生を一緒に生きてきた彼女がいないということはつらいです。でも娘や孫娘が一緒に住んでくれてますから」
『お嬢様のイリーナさんは奥様に似てらっしゃいますね』
「はい似てます。私に似てなくて良かったと思います。ボランティアの慈善事業もしています。」
『ゴルバチョフさんの回想録を拝見していたら学生のときに演劇に興味をお持ちになって芝居で巡回されていたこともある』
「私もライサも演劇が好きでした学校にいたころから劇に出ていて面白かったです。いろいろな村を回って戦争が終わって直ぐの頃は着るものも無かったですが私たちは演劇で得たお金を無い人たちに上げてきました。政治には叶わないかもしれませんけどできるだけのことをしてきました」
『詩も大変お好きということですけど』
「そうですねロシアの詩人の」
『覚えてらっしゃる詩ってあります』
「もちろん覚えてます」
『覚えてらっしゃる詩を披露してくださいません』
「私の好きな詩でレールモントフの”帆”をいってっましょうか」
『お願いします』
「
”海原の蒼める霧にほのぼのと白帆がひとつ漂っている遠い国に何かをもとめるのだろうか故里に何かを棄てたのだろうか。波は荒れ、風はうそぶき、マストはたわみ、きしんでいる。ああ、彼は幸福を求めるのではない。また、幸福を避けるのでもない。その下にはまことに明るい瑠璃(るり)の潮。その上には、金色の陽が輝いている。されど 彼 反逆の子は嵐を願い。安らぎは嵐の中にありという。”」
『(拍手)この詩がすきなのはどういうところなんですか』
「若いときからロマンチックなとこが好きでしたね」
『ありがとうございました。モスクワ大学にいらっしゃいましてそこで奥様になるライサさんにお会いになったんですけど』
「いやダンスパーティーで会ったんですよ」
『お上手ですか』
「いやそんなことはないですね。自慢できるほどではありませんが好きです。ライサも好きでした。」
『ライサさんにすぐにお会いになったんですけど他の女の人からもてたって事はありませんか』
「ええ彼女に私にも友達はいましたよ。学生でしたからね。でも一度彼女と別れてそれで彼女は2度と男性を信じないと」
『それは回想録に書いてないですね』
「そうかもしれません。でも彼女はもてたと言うことは確かです。わたしは勝ち抜いたのです。競争に」
『第二次世界大戦に突入したときゴルバチョフさんは10才、終戦の年には14歳でいらしたそうです。お父さんも兵隊にとられて戦争が終わったときには勉強する気もなかったそうです。お父様からのお手紙で家財を売り払ってもミハエルに服を着せ本を買って上げなさい。彼におは必ず勉強させてほしいというお手紙をお母様にお書きになったことが今日に繋がっていると思うのですけど』
「戦争の後15才から19才まで一度も休んだことはありませんでした。その後モスクワに入って勉強を始めるわけですけど」
『モスクワ大学での勉強が1番影響を受けたとおっしゃってますけど』
「本当にそう思います。モスクワとモスクワ大学。モスクワでの生活が田舎から出てきた私にとっては最初に出てきたときは汽車で出てきたんですけど本当にまったく新しい世界でした。生活がガラッと変わって頭が破裂しそうになりました。色んな情報が一気に入ってきたからです。」
『モスクワ大学を卒業になって奥様と故郷にお帰りになって中央にでるまで20年ぐらいいてその頃が今ご存知のゴルバチョフさんの元になったんじゃないかと思いますけど』
「そうです彼女は25歳で哲学を教えていました。それからいろいろな社会調査をしていました。私は政治ばっかしでしたけど全人生を政治にささげてしましました。これは第2の恋ですね」
『ですから奥様の家族には受けがよくなかったって』
「革命的に行動したんですね。ライサも私も結婚するまでするといわなかったんですね。結婚してから親のとこにいって徐々に関係を作っていたんですね。でもすべてうまくいきました。お母さんが私に最初に会った時のことを言っているのですがとても心配したそうです。でもとてもお母さんといい友達になりました。」
『向こうにしてみればうちの娘が分けも分からない人と結婚するということは心配したと思います』
「私も心配してたし彼女も私のことを心配してたし心配しあってたんですねえ。家に帰ってくると誰かが待っててくれると言うのは大変な幸せです」
『前に日本にいらしたときに奥様とランチをしたんですけど大変すばらしいひとでした』
「彼女は本当に日本が好きだったんです。日本の人も良くしてくれました。」
『この番組に出演された感想を聞かせていただきたいのですけど』
「こういった政治だけではなく人間の生活に関わったお話をさせていただくと言うことは非常にすばらしいことだと思いますし黒柳さんの進め方もすばらしいと思います。テレビというものはこういうふれあいというものを作り出していくとても大事なものだとおもいます。視聴者のみなさんも気に入ってくれると思います。日本の皆さんに幸せな日々をお祈りしたいと思います」
『ありがとうございます。まったく話が違うんですけど1989年からアフガニスタンから撤退を明言なさいましたよね。私は7月の末にアフガニスタンに行って状況をみてきたんですけど今の状況をどういう風に見てらっしゃいます』
「そうですねアフガンの国民にとって不幸ですね20年間も内戦が続いているんですから。そして外部からの私たちの侵入があってそういう決定がとられたんですけど。そして兵をあそこから故国に戻したわけですけど。そしてノーマルな生活に戻ったと思ったらまた悪くなってしまってたくさんの不幸が生まれて本当に心が痛みます」
『私が行きましたときには3年雨がふらないので食べ物が取れない状況でしたしねえ』
「本当にどうやって手助けをしたらいいのかと思うとアメリカとどうやって協力したらいいのかよりもどうやってあそこの人たちに手助けをしたらいいのかと。テロリストは罰しなくてはいけないのですが今はこの人たちを助けなくてはいけないのでしょうか」
『ゴルバチョフさんのお母様も大変すばらしい方だと伺ってますけどどういうことを教えてもらったと思います』
「そうですね農家の家庭であるように特にどうと言うことはありません。でも母から学んだことはお互い助け合って生きていくということを学びました。農家がやる毎日の労働をとおして私自身育ってきたと思います。よく働く人でしたし父のことも大変尊敬してます前線に出てファシストと戦って負傷して帰ってきて、あと40年間機械技師として働きました。とても賢いあたたかい人でした。母は歌が好きだったし私も好きですけど下手ですし歌いませんけど」
『でも本当にお元気で世界のためにこれからも働いていただきたいと思います。今日はおいでいただいてうれしかったです。スパシーバ』
「ありがとうございました」