Deprecated: The each() function is deprecated. This message will be suppressed on further calls in /home/zhenxiangba/zhenxiangba.com/public_html/phproxy-improved-master/index.php on line 456
平凡な愛でいい – Telegraph
[go: Go Back, main page]

平凡な愛でいい

平凡な愛でいい


「あんたのことは嫌いよ」


 一切の躊躇いも遠慮もなく、歌姫は言い放つ。ぱんと跳ねつけるような言葉には、しかし拒絶の色は全くなかった。毅然とした目に嫌悪は一欠片も浮かばず、ただ一直線に五条を見据えている。


「でもそれは私個人の感情なの。後輩が命懸けようとしてんのに知らん顔して、もし死なれでもしたら寝覚めが悪いじゃない」


 あっけに取られた男の、空色の大きな瞳がぱちぱちと瞬きをする。自分一人の気持ちを押し込めるための理由にまた自身の感情を据える歌姫に、らしいなと思い、そしてその理屈のつけ方に彼女の処世術を垣間見た気がした。


「確かにあんたから見れば私なんてまるで戦力にならないでしょうね。弱くてとてもじゃないけど同じ戦場には立てないわよ」


 そこで一旦歌姫は言葉を切り、重くなる口を無理やり滑らかにするための油をさすかのように、舌先で唇を舐めて湿らせる。


「渋谷で宿儺と対峙したとき、戦うどころか逃げることすらできないかもって、恐ろしくて堪らなかった」


 一瞬、その視線が下方向へ逸れる。そして床に落ちたことを恥じるように、再び上を向いた。


「どれだけいけすかなくても、あんたの強さはよく知ってる。でも物事に絶対なんてあり得ないでしょ。あんたは結局ひとりで戦おうとするけど、私の術式がその背中を押せるなら、私は好悪の感情なんて全部投げ捨てて全力で自分の役目を果たすわ」


 その凜とした顔に横たわる、右のこめかみから左目の下までの大きな傷跡。そこだけ皮膚の色が違うために嫌でも目に入ってくる。彼女が表情を動かすたび、引き攣れ痛むのではないかと思わせるが、歌姫はまるでそうした素振りを見せなかった。成人してから負った傷、上下を分断するその隔たりを彼女は寸分も悟らせなかった。

 庵歌姫は何一つ欠けなかった。


「歌姫はさ、感情的だけど割り切りは上手だよね」

「一言多いのよ、アンタ」


 五条の発言に、歌姫は眉根を寄せた。頭の高い位置で一つに括られた、長く伸びた黒髪が揺れる。結ばれたリボンは穢れのない純白。術師の腕は術式の構成や発動までの手順を如何に省略できるかで決まる。要らないと断じたものを省き、切り捨て、打ち遣るのだ。重視するのは過程ではなく結果だ。五条はずっとそう捉えてきたし、呪術以外の物事に対しても同様にそう思っている。

 だが歌姫は何も手放さない。

 取り零すことをよしとしない。


「ねえ歌姫」

「なに」

「僕、御三家の当主なんだ」

「知ってるわよ。何を今更」


 歌姫は怪訝そうな表情を浮かべる。五条は腹を括った。今までだって散々当てこすってきたのだから、今更また馬鹿を言ったっていつものように呆れられるだけだと思った。

 多分、これからする提案は、彼女のこれまでを踏み躙るだろう。連携特化で戦闘能力はさほど高くない女性術師、そして顔に消えない大きな傷跡がある。ただそれだけで庵歌姫という呪術師に向けられただろう心ない評価の数々がうたかたのように思い浮かんでは消えていった。

 でも、きっとこれが最善だった。


「御三家の権力全部あげるから、僕と結婚してくれない?」


 今度は彼女の目が瞬いた。うっすら開いた口は何ごとか、恐らく罵倒であろう音声を紡ごうとゆるゆる動くものの、畢竟それを声として出力することなく終わる。思いもよらないプロポーズに目線さえも右往左往している。動揺をまるで取り繕えていない。嘘をついてナンボの呪術師界隈ではなかなかに稀有な逸材さだ。


「……正気?」

「勿論」


 不審そうな目は真意を汲み取ろうとするかのように五条を捉えている。まじまじと無遠慮に向けられるそれを、しかし彼は不快には思わなかった。罵詈雑言は飛んでこなかった。どちらかといえば心配が勝ったらしい。


「何のつもり?」

「利害の一致。僕が、出来なくもないけどやっても意味ないことを歌姫に押しつけたいだけ」

「何それ。私に何の得があるのよ」

「どうせ結婚せっつかれてるんじゃないの?」

「……それは、まあそうだけど。だからって何でよりによってアンタなのって話」


 探り探り会話を重ねようとする歌姫だったが、五条はあっさり一足跳びに距離を詰めた。


「真希と真依の実家での扱い、知らないわけじゃないでしょ? 憲紀や恵みたいなパターンだってある。でも僕が当主になる頃には加茂も禪院も代替わりが見えてるかな、とにかく、誰かが泥を被って改革するにはうってつけのタイミングだよねってこと!」


 変化に痛みはつきものだ。誰かが血反吐を吐き、手を汚し、喉が枯れるまで声をあげ続けなければ、この膠着しきった狭い世界は受け容れるどころか認めさえしないだろう。文化と伝統を笠に着て現状維持に拘泥する保守派どもは今まさに存在する歪みから目を背け続けている。

 あっけらかんと言い放たれた言葉に、歌姫は言葉を詰まらせた。そしてその意味を呑み下すとてのひらで顔を覆って深々と溜息をついた。顔と手の皮膚の色が重なって、裂け目のような傷跡が隠される。けれども見えにくくなっただけだ。痛々しい断絶が消えて失せることはない。万能のように見える反転術式も火傷のような類の負傷は完全に癒すことができないし、五条自身は他人を治療することはできない。

 けれども、その痛みは、彼女のうつくしさに僅かな翳りも与えなかった。


「……成程、ね。だからアンタじゃダメってこと」

「そ。あくまでトップは当事者じゃなくちゃ。僕が最強の大鉈になるから、歌姫がそれ振るってばっさばっさ切って回ってよ。歌姫だって、どうせ散々煮え湯飲まされてきたんでしょ? そういうのさ、全部ぶっ壊せるよ」

「七海ほど上手じゃないわよ」

「あはは」


 血を継ぐための女性性を求められること。

 戦力として見られないこと。

 そして数百年ぶりに生まれた無下限呪術と六眼を合わせ持つ男がそばにいたこと。

 それが庵歌姫にとっての悲劇であり、幸運でもあった。

 何もかもを持って生まれたこと。

 自分が『五条悟』であること。

 それが五条悟にとっての足枷であり、そして対価として差し出すのに最も価値があるだろうと思われるものだった。


「何で私なのよ」

「歌姫が一番適任だったから。まるで縁ない相手じゃ周りが納得しないし、かと言って非術師家系出身者だとこれはこれで色々面倒そうでしょ。硝子に頼むのも考えたけどさ、他人に寄り添うとか、親身になるとか、そういうのは歌姫の得意分野かなって」


 弱い奴等に気をつかうのは疲れる。

 今もその気持ちは変わっていない。自分の持っているありったけの力を思うまま振るうのはとても心地よく、血湧き肉躍る。どんなにそれらしい振る舞いで演技しても、虚ろな言葉で飾り立てても、それはあくまで善悪を持った人間の猿真似でしかなく、五条自身は結局『普通』からは程遠いままだった。


「歌姫さあ、よく『歳上なんだから敬語使え』って言うじゃん? でもさ、僕からしてみれば年齢がなんだって思うわけ。あ、歌姫のことだけじゃないよ、歳ばっかとってその間何してたんですかぁ〜? みたいな連中、山ほど見てきたからさ」


 歌姫だって思ったことない? 年嵩だからって偉ぶって、じゃあオマエに何ができるんだよみたいな奴。見たことない?

 その言葉に、散々煮え湯を飲まされ続けてきた歌姫の眉間に深い皺が刻まれる。若い女というだけで、一般的には何らかのハラスメントに該当するであろう言動が差し向けられる界隈だ。同じ等級の歳上の異性に変な自慢や揚げ足取りを食らった記憶だけとって見ても星の数ほどあるはずだ。


「年齢より『個人』の方が大切だと思うんだよ、僕はね。例えばさあ、『歳上なんだから敬え』じゃなくて……そうだな、『歳上の人は上の立場にいることが多いから、敬語を使った方が物事が円滑に進みやすい』って感じでメリットや必要性を示してくれるなら、従うかはともかく一考くらいはするかもね」

「……」

「でもそれさ、多分、歌姫が言われてたことなんじゃないの?」


 だらんと垂れた歌姫の手がゆるく拳を握るのを、空色の瞳が捉える。「……そう」彼女がとげとげとしたそれを呑み込むと、男は小さく、そうとだけ頷いた。


「僕は『五条悟』だから、相手を尊重しないと上手く回らない場面はあんまりない。僕の気持ちのまま振る舞ったって、誰が咎めるのかな。傑か硝子か先生くらいかな? 小言言ってくるのなんてね。……ねえ、歌姫」


 傍若無人の権化のような男は腰を屈めたりなどしない。目線を合わせるでもなく、平均よりかなり高いところからただ見下ろしている。歌姫が顔を上げなければ見えるのは彼女のつむじだけだろう。


「僕は、僕より歳上で僕より等級が低くて僕にできないことができるわけでもないのに敬意を見せろって吠える声だけ大きい奴を尊敬するのはできないけれど、僕が上がることさえできない土俵で戦ってる『庵歌姫』を一個人として見ることくらいはできるよ」


 向けられた提示の言葉。五条がそう告げたあと、暫く沈黙が訪れ、そして、


「……遊びならまだマシだったわ」


 低い呟きが落ちる。二人の間に転がって幾らか揺れ動いたあと、居場所を定めたようにぴたりと止まる。眉間を強く揉んでから歌姫は手を下ろし、再び五条を見据えた。

 凜とした、背筋の伸びた居住まい。戦場で歌い舞うときと同じ、張り詰めた空気。


「あんたのことは大嫌いよ。好意も愛情も信用も、一欠片もない」

「うん」

「でも、信頼はしてるのよ」

「光栄だね」


 受ける五条の声は、あくまで軽く、明るかった。


「わかってると思うけど、私の一存で決められることじゃない。だから保留ってことにさせて」

「家や親族でしょ。わかってる。ちゃんと考えてくれるなら待つよ」


 時間による風化という逃げ道を抜け目なく封じつつ、彼はあっさりと頷く。


「相伝を継ぐために僕の子を産んでくれってことになるかも知れないけど」

「だから何よ。出産を軽んじるつもりはないけど、今更命懸けだって言いたいの? 言ったでしょ、そっちが命を懸けるなら、こっちだって一緒に懸ける」

「冷え切った仲の父母を持つ子がどういう気持ちになるか、真希たちや憲紀のこと見てないわけじゃないでしょ」

「子どもに罪はないわよ。あんたとは別人。私だって私一人の人生くらい賭けてやるわ、そんな覚悟もないまま呪術師やってないわよ」


 術師が術師にするお願いは一蓮托生、一緒に命を懸けてくれというのが大前提だ。死ぬときは孤独だと公言して憚らない五条が、ゆっくりと口角を上げた。


「じゃ、よろしくね、歌姫」


 全てを与えられると何もできず緩やかに死ぬ。彼は自分の展開する領域を、その人の心の中の風景の具現化たる生得領域を、そう表現した。

 歌姫は歯噛みする。この飄々とした胸の裡がまるで見通せない己の無力を嘆いた。はじめから私は手駒だ。采配を振るう傀儡だ。こいつが私の『非力な女』を利用するのと同じように、私はこれからこの『権と力を持った五条家の男』を恣にする。利害の天秤が釣り合ったからはじめて成立した互恵関係だ。個々の性質や感情などそこには一切介在しない。そしてその関係は、こいつがうんと小さかった頃から押しつけられ続けた『五条家の相伝と特異体質を併せ持った最強の当主』という符号があるからこそのものだ。庵歌姫は五条悟を嫌っている。嫌ってはいるが、この男を哀れに思うのはまた別の話だ。きっと五条は憐憫など求めていない。だが本当に必要なのは、『五条悟』として生まれたこの男と向き合って、諦めてくれるなと、無限さえも踏み越えていける誰かなのだろうと思った。

 だから。


「誰か他の人を愛しなさいよ」


 飲み会のセッティングを頼むかのような気軽さでプロポーズの言葉を吐いた男に、一世一代の告白を投げつける。

 五条悟は、庵歌姫をその眼で捉える。空、水、そして空気のような淡い青色の目が、面白がるようにすうっと眇められる。


「それはちょっとできない相談だね」




Report Page