標高246メートルの旗振山を過ぎ、標高237メートルの鉄拐山を過ぎ、私はようやく対流圏と成層圏の境となるおらが茶屋の展望所に着いた。あたりの景色や見下ろす町なみは神戸市が1960年代からおこなった、山をごっそり削り取って海上都市建設用の埋め立て土砂に使うという「山、海へ行く」と呼ばれた(今の時代にはあらゆる意味で出来そうにない)開発手法の舞台、ど真ん中である。出発した時には靄が出ていて夜を引きずる薄暗さもあったがもう完全に朝である。ベンチに腰をかけ、本格的な休憩に入るべく靴と靴下を脱いだ。素足を空気にあてると気持ちいい。むきだしになった足裏が呼吸を始めている。靴下を脱いだままあぐらを組んでリュックの中からメロンパンとSAVASのプロテインドリンクを出して朝ごはんを食べた。
最近ファミリーマートのメロンパンにハマってしまい「メロンパンってすごくおいしい!」と気づいたのだが、自分としてはこれはメロンパン全般が好きになったのだろう、そういう体質になったのだろうくらいにとらえていた。だから今食べているのは昨夜のうちに近所のスーパーで買っておいた88円のメロンパンである。しかし、食べ始めてすぐに理解した。私はメロンパン全般ではなくてファミリーマートの『ファミマ・ザ・メロンパン』が好きなのだ。
これはなんの違いだろうか。まず何よりも名前の「ザ」の位置がキン肉マンで言うところの「ビッグ・ザ・武道」みたいで格好いい。あとさくさくの部分も全然違う気がする。近所のスーパーのメロンパンがおいしくないわけではないのだが、これは別になくても困らないおいしさであり、あの時の出会いがもしもファミマのメロンパンではなく今現在手にしているこのメロンパンだったらそれは運命の出会いとはならず、私はこんなにもメロンパンが好きにならなかっただろうから、そうなると今は別のパンを手に持っていたのかもしれない。出会いとはどこまでも偶然である。何かの偶然で一瞬自分の手のひらの上に何か(この場合はファミマのメロンパン)がのって、それをしっかりとにぎりしめていればよかったのに私は別のメロンパンを買ってしまった。「ビッグ・ザ・武道」て名前は文法的にどうなんだろうな。
出発段階からここに至るまでに健脚老人たちとすれ違いすぎて孤独の旅路感はすっかり色褪せてしまった。しかし88円のメロンパンをかじりながらこうも考えた。私もこの先想定外の要因で中途で死なないかぎり高齢者になるのが生命体としての既定路線である。ならば、どうせなら将来的にはここですれ違ったような健脚老人の側にいたいものだ。日頃から近所の山に出入りするだけの体力と気力を有した彼らの側にいたい。たぶん体力と同じくらい気力も大事なのだと思う。ファミマのメロンパンがメロンパン全般ではないように彼らもやっぱ老人全般ではなく人生の岐路ごとに勝ち残っていった特殊老人コマンドーみたいな勝ち残りジジババたちなのだ。
そう、岐路である。自分にしたって、体重を25キロも落とすというのは人生的に重大事件なわけで、その最中の私には明確かつ重大な岐路が見えていた。このままでいるのか、それともあちら側を目指すのか、というような。いまでも五十を前にしてそのような岐路が見えている。何かに到達できたわけではない。ともかく私には子供が生まれた四十歳の時には子供のことだけを考えていればよかったから見なくて済んだ岐路がこのたびはくっきりと見えてしまっているのだ、などと熱心に語るとその話を聞かされた他者は冗談だと思って100パーセント笑う。本気で語っているのになぜ他者は笑うのだろうか。それは他人事だからだろう。結局自分の目の前にあらわれた岐路は自分で処理していくしかない。その姿が真剣なものであるほど他者からは滑稽にうつるのだとしても。
ともかく山で出会う健脚老人問題である。こんな感じの岐路がこれから六十代を前にしてもやって来て、七十代を前にしてもやって来て、出発時に私は「初老をつきつけられる」などと書いたがそんな言葉遊びみたいな「初老」じゃない、本格的な老いと死を突きつけられるような岐路がいつかあらわれるのだろうよ、そのとき自分は「じじいのくせに往生際の悪い、じじいは家にこもって猫でもなでとけや、おまえはじじいやのに何をやっとんねん」みたいな側、つまり朝っぱらから山に登ってラジオ体操をしている側に行けるのか、それが問われている気がした。私の足裏はその気持に応えてくれるだろうか。十分風にあたった足裏に、しっかりがんばってくれよと声をかけながら靴下を履き、おらが茶屋の先の階段を降りた。せっかく成層圏近くまで登ったのにまた地上におりてきて、そしたらまた天空にまで伸びていく長い長い階段が私の前に立ちはだかる。はたして無酸素で登れるのだろうか。ここからはいよいよ須磨アルプスである。