『一番風呂と、紅蓮の少女にゃ』
ガンツという、最強にして最凶のドワーフを仲間に引き入れてから、半年が過ぎた。
その間、バウマン領は劇的な変化を遂げていた。
イグニスが重機として岩盤を砕き、整地し、ガンツが不眠不休(ドラゴンの鱗を加工できる興奮で寝られないらしい)で設計と建築を進めた結果、信じられないスピードで計画が進んだのだ。
そして、季節は巡り、秋の気配が深まり始めた頃。
ついに、その「城」は完成した。
バウマン家の裏手にそびえ立つ、純和風……ならぬ、純異世界風の豪華絢爛な温泉旅館。
使用された木材は、ダンジョン深層から切り出された香霊木。現実世界のヒノキを凌駕する芳醇な香りを放ち、魔力を通すことで腐敗することなく、永遠に新築の輝きを保つという超高級建材だ。
明日はいよいよ、グランドオープンの日である。
その前夜、俺たちは完成したばかりの湯を試すべく、「一番風呂」に入ることになったのだ。
◇ ◇ ◇
「ふぅぅぅ……。生き返るなぁ……」
湯気で白く煙る、広大な岩造りの露天風呂。
クラウスが、とろけるような顔で肩まで湯に浸かっていた。
「ああ、全くだ。半年間の激務が、骨の髄から溶け出していくようだぞ」
その隣では、親父が豪快に手ぬぐいを頭に乗せている。
そして、少し離れた湯口の近くでは、ガンツが腕組みをして満足げに頷いていた。
「へっ、当たり前だ。俺が設計した『魔力循環ポンプ』のおかげで、湯加減は常に最適。さらにこの浴槽の岩は、イグニスの旦那が寝床にしていた岩盤を削り出したもんだ。遠赤外線効果が段違いよ」
「ははは、さすがはガンツさんだ。……本当に、立派なものができたね」
男湯からは、そんなのどかな会話が聞こえてくる。
平和だ。
男たちは、労働の喜びを噛み締めている。
だが。
壁を隔てた「女湯」の方では、俺の死闘が繰り広げられていた。
「にゃあーッ!!(離せ! 俺は風呂なんぞ入らん!)」
「もう、ダメよノワールちゃん! 明日はお披露目なんだから、綺麗にしなきゃ!」
俺は今、クラウスの母さんにガッチリとホールドされていた。
元Sランク冒険者(仮)かと思うほどの腕力だ。猫の柔軟性をもってしても、母の愛という名の抱擁からは逃れられない。
「ふふっ、ノワール様。観念してください。背中、流しますから」
「ノワ様ぁ、一緒に入ろうよ~。気持ちいいよ~?」
ミアが手桶にお湯を溜め、エレナが無邪気にお湯を掛け合っている。
ここは地獄か。いや、世の男どもからすれば桃源郷かもしれないが、猫にとっては拷問だ。濡れるのは嫌いなんだよ!
「それっ、ザブーン!」
「ふぎゃッ!?」
母さんの手によって、俺は容赦なく湯船に沈められた。
ボチャン!
熱いお湯が全身の毛に染み込んでいく。
「にゃ、にゃあ……(……あれ?)」
逃げ出そうともがいた俺だったが、ふと動きを止めた。
……悪くない。
ガンツによって選りすぐられた香霊木。
森のような香りがあたりに漂い、適度な湯温が体を包み込む。
全身の血行が良くなり、凝り固まった筋肉がほぐれていくようだ。
猫は本来水が嫌いだが、お湯となれば話は別だ。
「にゃぅ……(これは悪くないぞ……)」
俺が大人しくなって湯に浸かると、女性陣から「可愛い~!」と黄色い歓声が上がった。
やれやれ、好きにしろ。
そう思って、俺が目を細めた時だった。
「わぁい、ノワ様つかまえた~!」
バシャアッ!
背後から、無防備な質量が押し寄せてきた。
エレナだ。彼女が俺を後ろから抱きしめるようにして、湯の中で密着してくる。
「むぎゅッ!?(ぐ、苦しい……ッ!?)」
俺の悲鳴は、音にならなかった。
背中から押し付けられる、圧倒的な弾力と柔らかさ。
濡れた肌の滑らかな感触と共に、彼女の豊満な胸部が、俺の身体を包み込むように圧迫してくるのだ。
薄いタオル一枚では、その暴力的ですらある柔らかさを遮断することなど不可能だ。
湯の浮力も手伝ってか、たゆたうような二つの膨らみが、俺の頭を両側からサンドイッチにする。
「えへへ、ノワ様あったかいねぇ」
エレナは無邪気に笑っているが、彼女は自分の武器の殺傷能力を理解していない。
湯船の水面が、彼女が動くたびに大きく波打ち、その豊かな肉体の存在感を主張している。湯に濡れて張り付いたタオルが、その扇情的な曲線を露骨に浮き上がらせていた。
「……エレナ、ノワール様が潰れています」
ミアの冷静なツッコミが入るまで、俺はその桃色の監獄から抜け出せなかった。
ぷはっ、と息継ぎをする。
『……ふむ。気持ちよさそうではないか』
その時。
頭上から、地響きのような声が降ってきた。
月明かりが遮られ、巨大な影が女湯を覆う。
見上げれば、露天風呂の塀の上から、イグニスが長い首を伸ばしてこちらを覗き込んでいた。
「キャッ!?」
「イ、イグニス様!?」
エレナと母さんが驚いて身を隠す。特にエレナは、その豊満な胸元を慌てて腕で隠すが、こぼれ落ちんばかりのボリュームは隠しきれていない。
ミアだけは冷静にタオルで前を隠し、睨み上げた。
「……覗きとは感心しませんね、古龍様」
『誰が覗きなどするものか。ただ、その湯から良い匂いがすると思ってな。……我も入るぞ』
イグニスがズズズ……と塀を乗り越えようとする。
おい待て。
「にゃあッ!!(バカ野郎! お前が入ったらお湯がなくなるわ! というか宿が潰れる!)」
俺は慌てて叫んだ(鳴いた)。
イグニスの巨体は全長数十メートル。こんな露天風呂に入れば、物理的に大惨事だ。
『む? ……確かに、この器では我の巨体は収まりきらぬか』
イグニスは不満げに鼻を鳴らした。
『ならば、小さくなればよいのだな?』
「にゃ?(あ?)」
イグニスの輪郭が、ボゥッ! と紅蓮の光に包まれた。
圧倒的な質量の塊が、光の中で急速に圧縮されていく。
『変幻――』
光が収束し、弾けた。
湯気の中から現れたのは、小さな人影。
ドボンッ!
軽やかな水音と共に、それが湯船に飛び込んできた。
「ぶはっ! ……ふぅー、なるほど。これは確かに極楽じゃのう!」
俺の目の前に顔を出したのは、一人の少女だった。
燃えるような真紅の髪を、高い位置でツインテールに結い上げている。毛先は焦げたように黒い。
瞳は、イグニスと同じ鮮烈なエメラルドグリーンの縦瞳孔。
生意気そうな吊り目と、口元に見える小さな八重歯。
身長は145センチほどだろうか。エレナよりさらに小柄だ。
そして何より――その体つきは、先ほど俺を窒息させかけたエレナとは対照的に、非常に慎ましやか(・・・・・)だった。
平原だ。見渡す限りの絶壁だ。
「…………」
俺は思わず、その平坦な胸元と顔を交互に見た。
「にゃあ……(お前……性別、そっちだったのか?)」
てっきり低い声で喋るからオスだと思っていたが。
俺の問いに、少女――イグニスは、濡れた髪をかき上げながらフンと鼻を鳴らした。
『勘違いするな。古龍(我ら)に性別などない。肉体の構成など、魔力でどうとでもなる』
「にゃ?(じゃあ、なんでまたそんなナリに?)」
『お主がメスに囲まれて、鼻の下を伸ばしているようだったからな。……郷に入っては郷に従えと言うだろう? 合わせてやったのだ』
イグニスはニヤリと笑い、バシャバシャと音を立てて俺の隣に陣取った。
そして、遠慮なく俺の体に抱きついてくる。
『うむ、やはりお主のそばは魔力が濃いのう。湯の熱気と相まって、酔いそうじゃ……』
「にゃ、にゃあッ!(おい、近い! あと俺は喜んでなどいない! 離れろ!)」
俺は前足でイグニスの顔を押しのけようとするが、華奢に見えても中身はドラゴン。万力のような力で抱きしめられ、動けない。
だが、エレナの時の「埋もれる」感覚とは違い、こちらは硬質な板に挟まれているような……。
「あらあら……。その子、イグニスちゃんなの?」
呆気に取られていた母さんが、目を輝かせて近づいてきた。
彼女には「恐怖」という感情が欠落しているらしい。
「まぁ! なんて可愛らしいの! 髪も肌もツヤツヤねぇ!」
「本当だぁ。妹ができたみたい!」
エレナもニコニコしながら近づいてくる。
自分の胸元に手を当てて少し安堵しているような、余裕の笑みにも見えた。
ミアだけは、「……ライバル増殖。しかもロリ枠」と呟いて眉をひそめたが、すぐにプロのメイドの顔に戻った。
「では、イグニス様。背中をお流しします。……じっとしていてくださいね?」
『うむ。苦しゅうない。丁寧にやれよ?』
イグニスは王族のように尊大に頷き、されるがままになっている。
どうやら、女性陣のコミュニティにあっさりと受け入れられたようだ。
(……やれやれ)
俺はため息をついた。
ただでさえ騒がしいのに、とんでもないのが混ざってしまった。
だが、湯の温かさと、イグニスを通じて感じるどこか楽しげな感情に、俺の警戒心も少しずつ溶かされていく。
外からは、虫の声と川のせせらぎが聞こえる。
明日は、いよいよ温泉宿の開業日。
この静寂が、嵐の前の静けさでないことを祈るばかりだ。
……まあ、このメンツがいる時点で、静かなわけがないのだが。