ハッピーさんとファイトソング
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ちっちゃなネコのチビが言うのだ。「ハッピーさんはいつもほんとうに幸せそうですよね、うふふふふ」。チビはかわいい。鼻血が出るくらい。
でも、いやいやいや、ちょっと待て、待ってくれ。俺は派手なトラネコで見た目はえらくハッピーかもしれないけれど、それほど豊かで健やかな人生を送っているわけではないんだぞ? むしろなんというか、自分の生き様はどんどん暮れなずみの方角を向いている気がして……。
「えっ、ハッピーさん、どうしたんですか? どうして泣いているんですか?」なんて言うあたり、チビはまだまだ子どもなのだ。「ぼく、わかりません。なにかあるなら教えてくださいっ」
よぉし、それならチビよ、ハッピーさんが話してやろう。
我が身に降りかかった不幸のあれこれを。
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ハッピーさんこと俺はイエネコとして生きる運命を獲得したのである。それはもう幸せな家庭で生を刻み始めたのである。俺がよちよち歩いていた頃にはときを同じくしてかわいいかわいいマメシバがいた。そいつはソトイヌだったのだけれど、行く人行く人に「かわいいかわいい」と言われ、そのたびちぎれんばかりにしっぽを振っていた。あんなにかわいいイヌコロは見たことがない。俺はときどき外に出してもらって奴さんと話をした。ほんとうにかわいい奴だったのだ。
――かわいい奴だった。
そう、過去形だ。よくある話だ。マメシバはすぐに「飽きられた」。面倒を見てもらえられなくなった。始まりが幸せであることはあたりまえだ。だけど、その幸せな家庭なんてなにかの拍子にすぐに壊れ幕を下ろしてしまうものらしい。旦那が出ていった。奥さんと娘だけの家族になった。要はそれに伴うようにして、マメシバはほったらかしにされた。同じくほったらかしにされた俺はどうあれ根が強かったのだろう、がんばれたけれど、マメシバは身も心もすぐに壊してしまった。常に何かに怯えるようになり、ヒトに近づかれると必要以上に吠えるようになった。みながマメシバを怖がり、だから俺くらいしか声をかけてやる奴がいなくなってしまった。それでも、マメシバのことを心配するヒトはいた。そのヒト――近所の太ったおばちゃんはいつもマメシバのためにご飯をやりに来てくれて、だからマメシバも、太ったおばちゃんにだけは心を許していた。でも、まもなくして、太ったおばちゃんが来なくなってしまった。俺の情報収集の結果によると、病気で身体を悪くして、死んでしまったとのことだった。
俺は世は無情だなぁとは思いながら、マメシバにきちんと事実を教えてやった。ニンゲンは知らないかもしれないけれど、俺みたいなネコだってマメシバみたいなイヌだって泣くし、わんわん泣く夜だってあったりするのだ。
マメシバが頭をおかしくして自分のしっぽばかり追いかけてくるくるくるくる回りに回った挙句いよいよ狂って死んでしまったことは言うまでもない。
奴さんとはまだまだ話し足りなかったように思う。
無念だ。
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地獄だったのさ、あの家は……。
そんなふうに呟くと、チビは「えっ、えっ?」と目を白黒させた。
「そんな、ハッピーさんなのに、ぜんぜんハッピーじゃないじゃないですか」
俺――ハッピーさんはしくしく泣く。
ああ、そうさ。
俺はハッピーさんだけど、そのじつ、ハッピーさんじゃないのさ……。
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俺は七歳だ。なんとも中途半端な年齢である。上からは見下され、下からは軽んじられる。ハッピーっていう名前もあまりよくないのかもしれない。解釈のしようによっては馬鹿みたいな名前だろうから。でも、俺自身、そんな名前を嫌いになれないから、まるっきり嫌いになることができないから、なんとなく、しょせんしょうもない意地なのかもしれないけれど、がんばって生きようとか、思ってしまうのだ。
「ハ、ハッピーさんは悪いヒトじゃないですよ!」
いや、まあ、それはそうだ、チビ、だって俺、ヒトじゃなくてネコだもの。
ところでだチビよ、俺にもだ、立派な時期くらいはあったんだ。うるさい外野くらい黙らせてやるって気概があった時分もあったのさ。だけど、どうしたって、マメシバのつらい最期を思い出してだなぁ、あの狂ったようなくるくるくるくるを見ると、こっちも頭がおかしくなっちゃいそうでなぁ……。
なお、チビはしっかり根っからのノラネコである。ヒトの温かみなんてろくに知りもしない小さな小さなオスネコである。だけど、「にぼしをもらいました!」とか、「今日のツナ缶はノンオイルです!」とか喜ぶ、ほんと、とことんかわいい奴なのである。「一緒に食べましょう!」と誘ってくれたりもする。当然、断固拒否する。後輩のエサを恵んでいただくなど、男として……っ。俺はチビがいつか、誰かの家のイエネコになれればなぁと祈っている。チビならうまくやれるはずだ、きっとうまくやれるはずだ。
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なにがハッピーだよ、こらぁ、こらぁっ。
俺は今日もオヤブンネコやセンパイネコからのリンチに遭っていた。「イタイイタイ」とか「ヤメテヤメテ」とかは言ったりしない。なにせ俺はハッピーさんだ。ハッピーという名を背負う一匹のネコさんだ。ハッピーでなければならないのだ、いついかなるときも。
木陰で震えて観戦していたらしい、戦いですらなかったけれど、チビが「ハッピーさん!」と飛び出してきた。俺が自身の身体を舐めて自身を労わっている最中にも、チビはしくしく泣く。
「ぼく、悔しいです。ハッピーさん、なにも悪くないのに……」
だけど、誰も助けてくれないからなぁと俺は苦笑する。ぺろぺろぺろぺろ自分の身体を舐める。しょっぱい。ずっとずっと海沿いの町に住んでいるからだろうか。年を重ねるにつれて塩辛くなってきている気がする。
「わかっただろ、チビ。俺はじつのところ、ハッピーさんでもなんでもないのさ。だからって不幸ムーヴもしたくないから、強がって生きるのさ、ふはははははは。……いい加減そのへん、もうわかったろ?」
「……ハッピーさん」
「うん、なんだい?」
「ぼく、その、飼いたいって言ってくれる、女のヒトがいて……」
おぉ、ついにチビにも話が持ち上がったか。
俺はそう思い、ばんざいした。
「ま、待ってください、ハッピーさん。ぼく、嫌です。ハッピーさんと一緒がいいです!」
「住所さえ教えてもらえれば、俺のほうから会いに行くのさ」
「ハッピーさん……」
「イエネコになるのは幸せなことだ。だから泣くな、チビ。地獄は良くないぞ。天国のほうがいいに決まっているんだぞ」
チビががしっと抱きついてきた。
俺は天を――曇天を見上げた。
大嫌いな雨が降り出してきた。
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ついにチビがもらわれる日が来た――というより、その場面に遭遇した。茶色い髪がとてもふわりとした若い女性だった。「見ぃつけた」と女性は言った。なんだかんだ言っても、チビは今日もビットのそばで海を眺めていたらしい。そこをうまいこと拾われたのだ。チビと話をしようと俺はチビに近づこうとしたわけだけれど、ま、そういうことになったわけで――チビは俺のほうを見てしきりに鳴いた泣いた。ニンゲンにはわからないに違いないのだけれど、チビは「いやだいやだいやだ! ハッピーさんハッピーさぁんっ!」と言って鳴いてくれたのだ泣いてくれたのだ。俺はもうそのセリフだけで充分だったので、なにも応えることなく踵を返した。なにせチビが大声を使って鳴くものだから泣くものだから、女性もびっくりしていたことだろう。
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思えばどうして生きているのか。
なんの夢もなく、目的もなく、目標もなく、どうして生きているのか。
俺はその日もビットのそばでオヤブンネコとかにいじめられていた。「おまえ、ちっともハッピーじゃねーよなぁ!」とか、「だったら生きててもしょうがねーだろ! 死ねっ、死ねっ!」とか言われた。オヤブンネコは俺の首根っこをくわえ、引きずり、挙句、海に放り込もうとしてくれる。「落とせ落とせ!」という歓声、大歓声。そうか、みんな、俺の死を望んでいるのか。みんな、よくわかっていないんだな、生きるとか、死ぬってことが。マメシバの最期が思い出される。あいつはほんとうにかわいそうだった。ニンゲンの愛を欲しがって、誰よりもそれが欲しくて、欲しくて欲しくてしょうがなかったのに、なにも得られず、死んでしまった。
結果的に、そんな家に飼われたネコだ。
いくらめでたい名前――ハッピーだとか名づけられたところで、俺も狂ってしまった家の住人だ。あるいは自分の中でなにか許せ溶け出すようなものがあれば、あるいは一度くらいは夜、安らかに眠ることができたのかもしれないし、もしそうなれば、俺はそこに幸せを――ハッピーを――見つけ出すことができたのかもしれないなぁ……。
「ハッピーさん!」
声がした。
――チビ?
まさか、あいつは立派なイエネコになったはずだ。
そも、まだちっちゃいあいつだ、心配され、だからそう簡単に外には出してもらえないはずだ。
「でも、逃げてきたんです! ハッピーさん、死なないで!!」
そうか……。
もうろくに目すら見えやしないが、そうか、チビ、おまえさんはそこにいるのか……。
俺は身をぶんぶんと震わせ、拘束から逃れた。
一歩二歩と退いたが、それでもオヤブンネコと向かい合った。
最後の喧嘩になるかもしれない。
でも、最高の喧嘩になる予感がする。
「ハッピー! てめぇぇぇっ!!」
「ハッピーさん! がんばって!!」
だいじょうぶだ、チビ。
失くしてしまったと思っても、そこになにかはあるんだな。
ハッピーさんは負けないぞ。
最後の最期まで身構えて、背中の毛を逆立てて、ふにゃーっと吠えてやる。
ありがとう、チビ。
おまえの声は力いっぱいの鳴き声は泣き声は、俺にとってなによりのファイトソングだ。