都へと
朝の陽射しは不思議だ。空気は冷たくても、温かさが上から降ってくることに安心感を覚える。
吸血鬼の身体でもそういったことを感じられて、なおかつ歩き回る事ができるのは、転生したときにきちんと耐性を取っていたから。ロリジジイさんに感謝しないと。
冷えた空気を取り込んで体温として馴染ませながら、桜湯の庭の敷地を歩く。
本当ならばもっと寝ていたい時間だけど、今日は出発の日だ。眠るなら移動の馬車にしよう。あまり揺れないといいのだけど。
……今日までゆっくりできましたね。
温泉のことを解決したあと、僕たちは数日を桜湯の庭で過ごした。
ゆっくりと言ってもクズハちゃんたちが僕を連れ回すので、毎日寝っぱなしというわけではなかったけど。
温泉が枯れたことについてはサツキさんが「エルシィの気まぐれ」だと報告したようだ。
それで通じたということは、エルシィという吸血鬼はよほどいろんなところに迷惑をかけているらしい。
ハクエンたちのことは伏せられた。彼らも被害者だし、流れを止めなくても温泉はふもとまで届かなかったのだから、必要ないという理由だ。
群れの怪我や温泉のことを解決したことを含めて、エンチョーさんたちには感謝されている。
その上で桜湯の庭から見ても僕たちは恩人だ。貴重な観光資源を取り戻してきたのだから。待遇はとてもいいどころか、なんと無料でもてなされていた。
いっそここでもう暫くぐうたらするのもアリかなとも思ったけど、さすがにそういうわけにもいかない。
桜湯の庭が僕たちを丁重に扱うのはあくまで恩からくるもので、その恩は「問題の解決を数日早めた」という程度だ。
元々解決する予定だったことは、温泉の重要性を考えればすぐに分かる。サツキさんも、放っておいても三日で解決すると言っていたし。
つまり僕たちがしたのはちょっとしたお節介。解決を早めた三日分の恩返しが済めば、そこで恩義は果たしたということになる。いつまでも甘えられる場所ではない。早くそんな場所がほしいなぁ。
「おはようございます、ネグセオー」
桜湯の庭の敷地の中。馬を繋ぐために設けられた屋根付きのスペースに、僕はやってきた。
他の馬よりも明らかにいい餌を与えられて高待遇なネグセオーに、朝の挨拶をする。
毎日話をしに来ているので、ネグセオーは驚いた顔はしない。丸めるようにしていた身体を起こして、
「アルジェか、今日は早いな」
「そうですね。いつもはもっと寝てますから」
「……その格好は?」
「新しい服ですよ」
今、僕が着ているのは赤色が鮮やかな振袖だ。滞在の間にクズハちゃんが作ってくれたお手製のもの。色は赤だけど帯の紫が全体を締めている印象があって、派手すぎない。
共和国は多くの人間が和服を着ているので、メイド服よりはこっちの方が自然だという判断から着ている。
自分で言うのもなんだけど僕は絶世の美少女と言っていいような見た目をしているので、これでもかなり人目を引いてしまうけど、メイド服よりはマシだろう。
目の前にある黒い毛並みを撫でる。ざわざわとした感触と筋肉の硬さ、そして体温。そういったものを感じながら、僕は彼を労った。
「お疲れ様です、ネグセオー。ありがとうございます」
「む……どうした、改まって」
「いえ、ここまで連れてきてもらったので。約束通り、王国の外まで」
「なんだそんなことか。気にするな。それこそ約束通りだろう」
「ええ。ありがとうございました。お元気で」
「……話が見えないんだが」
ネグセオーは困惑した様子だ。馬なのでその表情の作り方は人間とはだいぶ違うのだけど、言葉が通じることもあり、血の契約を抜きにしてもなんとなく感情は読める。
少し言葉足らずだったかな。そう考えて、言葉の意味を説明をすることにした。
「元々、王国の外まで乗せて行ってもらうという約束でしたから、もう、ネグセオーは自由ですよ」
本当なら国を跨いだらすぐに別れてもいいくらいなのに、ここまで連れてきてくれた。その恩として、ネグセオーの餌を良いものにしてもらうように頼んでいたのだ。
繋いでいる縄をほどけば、彼は自由の身となる。
裸馬の状態なら、野生の馬と変わらない。国境だって誰にも怪しまれずに難なく超えられるだろう。動物が国境を行き来することまで、気にはしないはずだ。
「外まで送りますね」
馬の脱走だと思われる可能性もあるので、町の外まではちゃんと連れて行こう。そう思って促すと、ネグセオーは僕の近くにやってきて、
「はむ」
「ふにゃっ!?」
噛んだ。僕の髪の毛を、ぱくっと噛んだ。
正確には噛むというよりも唇でつままれるような感じだ。今までネグセオーがそんなことをしてきたことはないので、驚いて飛び退いてしまう。
悲鳴とともに置き去りにされたネグセオーは、ぶるん、と顔を振って鼻を鳴らした。
相手が馬とはいえ、どうもああいう女の子みたいな声が出てしまうことと、それを聞かれるのは恥ずかしい。やりづらいものを感じながら、僕は彼に抗議の言葉を送る。
「急になにするんですか、ネグセオー」
「いや、今のはお前が悪いだろう」
「僕が……?」
返された言葉の意味が分からなくて、困惑する。僕が悪い、そう言われてもどこがだろうか。
ネグセオーの顔を改めて見てみると、少し怒ったような雰囲気がある。どうやら冗談ではないらしい。
「ええと……もう少しいい人参が食べたかったですか?」
「違うわ!」
今度は少しどころか明確に怒られた。恐らくはふつうの人間には「ひひーん」と鳴いたようにしか聞こえないのだろうけど、僕の耳には明確な否定となって届く。
否定のいななきは朝の空気を踏み荒らし、まだ眠っていた他の馬たちの眼を覚まさせた。
こちらに迷惑そうな視線が送られてくるけど、ネグセオーは気にしない。周囲を無視して、こちらにだけしっかりと目を向けてくる。
ほんの数秒。それだけの時間を使って僕を見つめたのち、ネグセオーは大きく鼻息を吐いた。
「アルジェ……お前、本当に分からないのだな」
呆れのような、諦めのような言葉。
ネグセオーは蹄で地面を打ち鳴らして、歩んでくる。艷やかでつぶらな瞳をこちらに寄りそわせるよう、ゆっくりと。
飛び退いた分の距離を埋めて、改めて彼が話しかけてきた。
「アルジェ、俺がいるのは迷惑か?」
「そんなことはないです。助かってますよ」
「それなら、俺をこれからも連れて行け」
「え、でも、約束はもう……」
「ああ、お前の言いたいことは分かっている。だから新しい約束だ。今、俺が怒ったのがなぜか分かるまで、俺を連れて行け。いいな」
新しい約束。それならば過去に交わしたものとは別件になる。
拒む理由はない。今言ったように、ネグセオーがいてくれると助かるのは本当だ。足があることのありがたさは、ここに来るまでで十分に感じている。
ネグセオーの意図は分からない。彼はそのことを知って、今僕が分からないことが分かるまで、自分を連れて行けと言う。
……それ、ずっとじゃないんですか?
思考放棄するわけではないけど、僕が答えを見つけられなければ彼はずっと僕についてくることになる。
僕の方にはメリットしかないけど、ネグセオーにはデメリットしかないような条件だ。いいんだろうか。
「それではアルジェ。次はどこに行く?」
「あ……ええと、サツキさんたちが用意した馬車に乗って、首都の方に」
「なるほど。では、俺も馬車を引くのに加わるとしよう」
随分と素直な言葉だ。初めて出会った時は、「俺より遅いやつは乗せない」なんて言っていたのに。なにか心境の変化でもあったのだろうか。
「それじゃ、えと……ネグセオー。これからも宜しくお願いします」
「ああ。任せておけ。どこへなりとも連れて行こう」
ネグセオーはどこか楽しげにそんなことを言う。さっきまで怒っていたはずなのに、変な人、いや馬だ。僕と一緒にいることが、そんなに楽しいのだろうか。分からない。
舞ってきた桜の花びらが僕たちを追い越して、空へと昇っていく。朝の空気は少しずつ温度を持ち始めていて、もう一時間もしないうちに、温かいと感じられるようになるだろう。
馴染みのある桜色を見ているせいか、ほんの少しだけ昔のことを思い出す。乱れた銀髪を手櫛で直して、僕は花びらを一枚捕まえた。
顔を寄せれば、慣れた匂い。なぜ異世界に桜があるのか、そんなつまらないことを忘れるには十分な懐かしさだった。
共和国の首都の名前は、サクラノミヤというらしい。
そこはこの町よりも、桜が舞っているのだろうか。
手放した花びらは指の周りで一瞬遊ぶように浮いてから、やはり舞った。それをただ見送って、僕は歩き出す。
僕を養ってくれる人が、この行き先にいるといいのだけど。