08.呪われし魂と粛清者◇
◇◇◇
曇天は、今にも泣き出してしまいそうな色をしていた。埃の臭いと血の生臭さが、風に運ばれてくる。
他の班も魔獣と戦闘を行っているのだろう。銃声と刃を走らす音が、フェイヴァの優れた聴覚に届いた。
幸運にも、今のところ大型の魔獣に遭遇していない。フェイヴァたちの気配を聞きつけて襲いかかってくるのは、赤黒い肉を露にした鼠と左腕が刃のように高質化した猿だった。フェイヴァはハイネに援護を任せて攻撃に転じたかったが、彼女が大剣から散弾銃に持ち替えようとしないので、仕方なく自身が援護に回ることにした。ハイネの立ち回りはサフィのような危うさを感じさせないが、ときおりもう少しで敵と接触しそうになることがあった。魔獣の牙や刃を余裕で躱して斬りつけるなど、人間には無理な話なのだ。
フェイヴァたちの足は、居住区の墓地に差しかかっていた。見渡す限りの広大な土地に、質素な墓標が立ち並んでいる。その数の多さは、見る者に痛ましさを抱かせた。国軍によって埋葬された住民だろう。名を刻まれることなく、花を手向けられることなく、都市と同様に墓地は朽ちようとしていた。
「たくさんあるね」
「はい……」
ハイネの後ろに続きながら、フェイヴァは墓地を眺めていた。その時、急に立ち眩みがしてよろめいた。
「どうしたの?」
思わずハイネに寄りかかってしまい、彼女の怪訝そうな声がかかる。ハイネの身体から離れ両足を踏みしめるが、奇妙な感覚は消えるどころかますます強くなってくる。
頭の中に、何かが入ってこようとしているのだ。この感覚は、相手の目を通して過去を垣間見るのと、同様のものだった。
視界に広がった墓地は、手入れが行き届いていた。立ち並ぶ墓標には、どれもしっかりと名が刻まれている。フェイヴァの足は全速力で駆け、鼻孔には濃い血の臭いが充満していた。その足は自分のものではなく、その嗅覚は自分のものではない。息遣いや、視野をよぎる飴色の長い髪。振り上げる手の大きさからして、女だろう。見知らぬ女の中にフェイヴァはいて、彼女の瞳を通して風景を認識していた。
背後に気配を感じ、女は舌打ちした。後方に向かって手を突き出すと、彼女の身体を守るように漆黒の盾が発現した。振り抜かれた剣が、盾に打ち当たり剣火を散らす。
女に剣を振り下ろしたのは、深紫の外套を身にまとった者だった。大柄でいながら引き締まった身体つきから、男だと判断できる。顔には白い仮面を被り、両目と鼻、口の位置に穴が空いている。
『この虫けらどもが!』
女にしては驕り高ぶった物言いだった。盾ごと刃を振り払うように腕を振ると、盾は無数の刃に変化し仮面の男の腹部を貫いた。後方から続いていた仮面を被った男たちは、死体となった仲間を跳び越え、女に襲いかかる。首を狙って振り下ろされた剣を、盾で受け止め弾き返した。
女の腕の一振りによって、盾は瞬く間に刃に姿を変えた。女の周囲に展開した無数の刃は、一直線に敵に向かっていく。女の周辺で噴水のごとく鮮血が吹き上がり、地面に赤い花を描く。
女は足下の影によって、自身に跳びかかってきた敵を認めた。盾で剣を弾き返す。
女に剣を防がれ着地したのは、ひとりだけ漆黒の衣装に身を包んだ人物だった。背丈の小ささからして、子供だろう。頭に被った薄い布によって顔は隠されており、切り揃えられた銀の髪が雪のように光っていた。
『とんでもないことをしてくれたわね。人の身体に宿ったのならば、人として穏やかに生きればよかったものを……。
古の盟約により、あなたの首をもらい受けるわ』
子供でありながら落ち着いた言葉遣いは、少女特有の高い声音に装飾されていた。彼女が慣れた手つきで構える剣は、周囲に散らばる仮面の男たちと同じ物だ。子供の筋力で振り回せるものではない。にも関わらず、切っ先を女に向ける腕は、かすかに震えもしない。
『この私が人間のようにか……? 笑わせてくれる。この鈍重で脆い肉の塊は私の器に過ぎん』
女が放った刃は、少女の眼前で硬質な音を散らして消えた。彼女の目の前には半透明の光の盾が展開しており、漆黒の刃を弾いたのだ。
『無駄よ。どんなに優れた力を宿していても、所詮は人の身。あなたは生前のように力を制御することはできない』
女の胸に、凄まじいまでの増悪が沸き上がる。音が鳴るほど奥歯を軋らせ吠えた。
『この卑劣どもめ! 私は忘れはせんぞ! 貴様ら人間に味わわされた屈辱と苦しみを! 貴様らのせいで我が血族は!』
少女の後方に控えていた仮面の男たちに、一様に動揺が走った。ひとりの男が少女に仮面を向ける。
『耳を貸してはいけません。我々の結束を崩そうとしているのです』
少女が握る剣が、にわかに輝き始めた。闇を払う純白の光が刀身を包み、少女の背丈さえ越えるほどの大剣へと形を変える。柄を腰辺りに構えた少女は、子供の身とは思えぬほどの敏速さで女に迫った。
女は素早く漆黒の盾を展開する。少女が構わず刀身を振り抜くと、盾は砕け細かな刃となる。刃はそれぞれ意思を持ち、空を自在に駆ける鳥のように鋭く、少女に殺到した。彼女の身体を包み込むようにして盾が生成され、漆黒の刃を弾いた。
『我願う──囚われし魂の安息を』
少女は地を蹴ると、宙に跳び上がった。刀身が女の首を狙い、振り下ろされる。
『悪しき魂が冥界の鎖に繋がれ、二度と人の世に現れ出ぬことを!』
刃が女の首にかかる。その瞬間、女の顔に広がったのは憤怒の表情だった。
『私は滅びぬっ! 再びこの地に蘇り、貴様らを一匹残らず殺してやるっ!』
光の刃が、女の首を斬り落とした。地を跳ね転がり、息の根が止まる──はずだった。
頭部は目を剥くと、血の涙を流しながら少女に襲いかかったのだ。予想していなかったのだろう。牙のごとき鋭利な歯が、少女の腕に食い込んだ。
少女はこのとき初めて、子供らしい悲鳴を上げた。頭を掴み、渾身の力で地面に叩きつける。頭蓋が割れ、中から脳漿があふれた。女の頭がけたたましく笑う。
『テロメア様!』
『大丈夫です。これくらいの傷ならばすぐに治癒します』
少女が握っていた剣を払うと、太陽のごとき輝きが失せた。後には、なんの変哲もない剣が残る。
胴体と頭が斬り離され脳が飛び散っても、女の意識はわずかに残っていた。ぼやけ、薄くなっていく視界の中に、腕に残された歯形を手で押さえる少女が映っていた。
薄い布が風に煽られ、少女の顔が露わになる。それはまだ十代にも満たない、けれども強く見覚えのある──。
(……お母さん!?)
フェイヴァは目を見開いた。眼前に唾液にまみれた牙が迫って、ぎょっとする。
横から突き飛ばされ、派手に転倒した。フェイヴァと入れ替わるように【地を弾む】の前に立ち塞がったハイネは、上半身の捻りを利用して刃を振り抜いた。スライトの首に深く食い込むが、絶ち切るには至らない。左足で地を蹴ると、右足を叩きつけた。刃が抜け、ハイネは鼠と間合いを取る。
「ぼさっとするなっ!」
「す、すみません!」
フェイヴァは大剣を背中から抜くと、飛び跳ねるように近づいてくる魔獣の群れに構えた。
(どういうことなんだろう……)
ハイネと協力して五匹のスライトを仕留めたフェイヴァは、無言で足を進ませていた。
脳裏にくっきりと刻まれている、女と幼いテレサの戦い。墓地が清掃され、墓の数が今より少なかったことから、フェイヴァが見たのは過去の出来事だと推測できた。それはおそらく当たっているだろう。
精神を集中することもなく、漆黒の刃は出現し、仮面の男たちを貫いていた。フェイヴァの視点となっていた女が、十七年前にペレンデールの住人や守衛士たちを虐殺した覚醒者なのだろうか。
わからないことが多すぎた。ふたりの謎めいた会話は、フェイヴァの思考を混沌とさせる。
「ねえ」
前を進んでいたハイネに声をかけられ、フェイヴァは顔を上げた。彼女は肩越しにフェイヴァに目を向けている。
「さっきぼうっとしてたけど、なんだったの?」
フェイヴァは言葉に詰まった。自分は過去を見ている最中、立ち尽くしていたのだろう。それがわずかな時間であろうと、魔獣が襲いかかってくるまで反応できなかったのだ。ハイネが疑問を抱くのも無理はない。
黙っているべきだろうと直感した。こんなことを話しても、不審に思われるだけだ。ハイネはただでさえ、フェイヴァが何者なのか怪しんでいる。彼女の疑念をこれ以上膨らませたくはない。
けれども、その直感に従いたくない自分の心も感じていた。自分が知らなかったテレサの一面を見せつけられた不安もある。いくら人間を虐殺した女であっても、躊躇なく人の首を切り落とした──テレサの冷徹さを目撃してしまった戸惑い。それらを吐き出してしまいたい。誰かに話を聞いてほしい。
それに、今はまだハイネの過去を目の当たりにしていないが、これから先もそうだとは限らない。彼女が誰にも知られたくない記憶を、フェイヴァが見てしまう可能性があるのだ。ハイネにも知っておいてもらわなければならない──フェイヴァはそう、自分に言い訳する。
「ハイネさん。私、ずっと黙っていたことがあるんです」
「何?」
ハイネは先に歩を進めながら、フェイヴァに尋ねた。
都市の北に位置する居住区を出たフェイヴァたちは、都市と外壁の間に造られた道を、西南に進んでいた。目指すは西の農地区である。都市の中央にある広場を通り、西を目指すという手もあったが、遠回りになってしまう。
襲撃を警戒してふたりとも大剣を抜いていたが、間近に魔獣の姿はなかった。だからといって、立ち話に花を咲かせれば格好の的だ。
「嫌な気持ちにさせてしまうかもしれませんけど、私……人の記憶が見えるんです」
迷いながら言い切って、大きく吐息を落とす。改めて考えてみても不思議だった。フェイヴァが見た女の記憶は、彼女の瞳を通して脳裏に広がったのではない。墓地に足を踏み入れて間もなくのことだ。もしかして、力が増したのだろうか。嫌な予感が頭をもたげたが、なんとなくそうではないような気がした。
(あの女の人……首を斬られても笑ってた)
首を切断されても、テレサに跳びかかり歯を突き立てるような人間──常識を覆すほどの、凄まじい執念だ。憎しみを炎のように燃え立たせた思念は、今なお墓場に残っているのだろう。それがフェイヴァに過去の幻影を見せたのだ。
フェイヴァの聴覚に、女の哄笑が生々しく蘇る。
「ありえない」
ハイネは立ち止まっていた。眼差しは責めるように厳しい。
「わたしはあんたがぼんやりしてたことを怒ってるわけじゃない。だから」
「本当なんです。信じてください」
ハイネは肩を竦めると前を向いた。今度は早歩きだ。フェイヴァは置いていかれまいと、足を早める。
ユニとミルラに告白したときは、ユニ自身が封じていた記憶をフェイヴァが話したことで信じてもらえた。けれども、ハイネの過去は見えない。言葉だけで信じろと言っても、難しいだろう。
「誰にだって人に知られたくないことがある。私、いつかハイネさんの過去を見てしまうかもしれないんです。だから……」
「そんな心配はしなくていい。私の記憶は人には見えない。……それに、万が一そんな日が来たとしても、あんたが悪く思う必要なんてないよ。制御できないんだから」
「……え?」
フェイヴァは目を見開いた。なぜフェイヴァの能力が制御できないものだと知っているのだろう。それともフェイヴァが無知なだけで、人の過去を見ることができる特殊覚醒者は、力を制御できないというのが常識なのだろうか。現にテレサも、力を及ぼす対象を選択することができないらしい。
──いや待て。そんなはずはない。納得して流そうとしたフェイヴァは、疑問が頭をもたげるのを感じた。授業で特殊覚醒者についても習ったが、教官は制御の可不可については言及していなかった。そこから導きだされる答えはひとつ。
「……孤児院にいた人が、特殊覚醒者だったんですか?」
ハイネが振り向いた。虫襖色の瞳は、忘れ去っていた痛みを眼前に突きつけられたかのように見開かれていた。
「なんであんたがそれを」
「騎乗訓練のとき、ルカが教えてくれたんです」
「……ひどいよ、ルカ」
ハイネはフェイヴァから顔を背けた。その背中が気落ちしているように見えて、フェイヴァは申し訳なくなる。
「気に障ったのならすみません。私、どうしても信じてほしくて」
歩みを止めて、ハイネは長々と溜息を吐いた。
「わたしが知っていることがすべてじゃないから、ね。……信じてあげてもいい」
「本当ですか?」
「前に言ったでしょ? あんたは嘘を吐けるような奴には見えないって」
信じてもらえて嬉しい。緩みかけた頬に気づいて、フェイヴァは自分がおかしくなった。悩みを聞いてもらうために、自分が能力を持っていることを話して聞かせる。本来ならば隠しておきたいもののはずなのに。
「墓地に並ぶ墓を見ていたとき、頭の中に浮かんできたんです。覚醒者の女の人が、斬り殺されるところが」
「それ、都市の人間を殺した覚醒者のこと?」
「たぶん。それで、その女の人を殺したのが……私の、母親代わりの人なんです」
「……はあ?」
ハイネの声はあまりに頓狂だった。これが何気ない雑談だったら、フェイヴァは笑ってしまっていただろう。けれども、フェイヴァを包み込む不安は笑い声を立てる余裕を与えない。
「自分でも突拍子もないことを言ってるのはわかっています。でも、確かに見たんです。お母さんが、女の人の首を斬り落とすところが……。
私と一緒に暮らしていたときのお母さんは、私の痛みに寄り添ってくれる人でした。そんな人が、迷いもなく人を殺せることが信じられなくて……自分が知らない人みたいで、信じたくなくて……」
テレサには、フェイヴァに秘密にしていることがたくさんある。それはフェイヴァ自身も承知していた。けれども、その秘密を見せられてすんなりと飲み込めるかと言われれば、首を横に振るしかない。それだけ、幼いテレサの行為はフェイヴァにとって衝撃的だったのだ。
フェイヴァの表情から真偽を判断したのか、ハイネは歩みながら声をかける。
「……あんたの母親代わりの人のことを、わたしはよく知らない。誰にだって人に知られたくないことがあるって言ったのはあんたでしょ? あんたに話さないってことは、知ってほしくないことなんだよ。陳腐な物言いになるけど、その人があんたに見せてくれる部分だけを信じればいいと思う」
「……そうでしょうか」
話を聞いてもらっても、煩慮は去らなかった。自分は母と慕う人のことを、何もわかっていないのだ──落胆がフェイヴァの肩にのしかかる。