02.ディヴィア【ユニ視点】
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ロートレク王国の東。都市ネルガル。
公共区の広大な区画を占領しているのは、都市の住民を集めてもなお、ゆとりがありそうな練習場だ。その奥に建てられているのが、古めかしい色をした石造りの校舎である。木製の長椅子が配され整えられた校庭が周囲に広がっている。長方形の重厚な佇まいは、歴史を積み重ねてきた外観に誇りを持っているようだった。窓枠に嵌め込まれた無数の硝子が、朝日を受けてきらめく。
ウルスラグナ訓練校。一階にある、怪我をした生徒を手当てするための治療室。その隣に位置する療養室に、ユニはいた。
等間隔に寝台が並べられたこの療養室は、長期的な安静が必要な生徒が使用する部屋だった。
ユニはミルラが死んだあの日から、のしかかるような倦怠感と体調の悪さに悩まされていた。何かの拍子に、ふと涙が流れて止まらなくなる。自分の意志では泣き止めないほど、激しい感情が胸を突き上げる。そういうことが頻繁に起こるようになってしまったのだ。見兼ねたセレン水医が教官たちと相談し、ユニをしばらく休養させることにした。
遠征が終了して間もなくは、ユニと同じように不調を訴える者が多かった。けれども、致命傷以外の怪我ならばセレンの水の能力で治してしまえるし、ショックを受けた者には時間が何よりの薬だった。鍛練によって心も身体も鍛えられた彼らは、立ち直るのが早い。六日も経過すると、そのほとんどが回復し授業に復帰していった。残されたのは、ユニただひとり。
竜舎や校舎の壁を突き抜けて、翼竜の低い鳴き声が聞こえていた。
薄手の毛布を捲って上半身を起こしたユニは、寝台の柵に背中を預けた。そうやってぼんやりしていると、料理の香りが鼻先に触れた。そばに置かれた小さな机に、食事が載っている。
そういえば、セレンが朝食を置いて行ったのだ。何かを話しかけられた気がするが、意識が朦朧としていたのか覚えていない。
(目が覚めたか。おはよう、ユニ)
また、声が聞こえる。気心が知れた相手に話しかけるような、気安い口調だった。その正体は、壊れてしまった自分自身なのだ。
──そのはずなのに、女の声を感じる時、確かに自分の中に何かがいるという感覚が生まれる。声の主は、ユニの心にしっかりと張りついている。女の形をした黒い影が、冷たい手でしがみついているさまが、脳裏に浮かんだ。
わななきそうになり、ユニは自分を奮い起たせようとする。こんな想像は、妄想に違いない。自分の意識から立ち上る声でなければ、一体なんだというのか。
(そうよ……。もっと早く……助けてあげられれば……)
ミルラを救えなかった。自分がもっと早くあの力を使えていたら、彼女は死を免れた。この声が自分の心を反映したものならば、なぜあの時ミルラを助けるために力を使えなかったのだろう。
もしかすると、自分さえ助かれば他の人間はどうなろうと構わないと、無意識に思っているのだろうか。
ぞっとした。そんなはずはないと、即座に否定する。ユニが血も涙もない人間ならば、こんなにも胸が痛むわけがないのだ。
(以前までの私は、使える力が限られていた。お前自身が命の危険を強く認識しなければ、現れ出て守ることができんのだ。
……お前の気持ちは理解できる。私は永い時を生き、人間の心の動きにも理解を示せるようになったのだ。私の子供たちが喪われていく辛さは、忘れたことはない。お前もあの人間の死を忘れることはできないのだろう)
自分自身に慰められている。これでは、自分で自分を抱きしめているのと同じだ。
ひとり遊びを始めてしまうぐらい、現実逃避しているのだ。目を背けたからといって、罪はなくなりはしないのに。ミルラは誰のせいで死んだと思っているのか。
胸の底から沸き上がるおかしさを感じた。ユニは小さく震えて笑い出し、そうして堪えきれなくなり哄笑した。
(考えるのをやめろ。あの日から碌にものを食っていないだろう。欲しくなくても口に入れろ)
声はそれだけを告げると、途端に無言になった。
大声で笑っていたユニは、息苦しさに胸を押さえた。寝間着の薄い生地を掻きむしる。涙がにじみ、頬を濡らす。
荒れ狂う津波が砂浜に到達し、海の底に沈めてしまうのと同様に、心の隙間もないほどの痛みに満たされる。ユニは顔を伏せて泣いた。
ひとりだけの療養室に、小さな嗚咽が響いていた。
長いような短いような。どれだけの時間そうしていただろう。
ユニはのっそりと頭を動かして、机に載せられた食事を見た。重りが載せられたように感じられる身体を動かして、寝台から離れる。
根菜の汁物と、穀物が練り込まれた麺麭だった。杯には水が注がれている。
ユニは麺麭を手に取り、千切って口の中に入れてみた。穀物が固い。口内の水分が吸われて、飲み込むことができなかった。杯に唇をつけて、麺麭の欠片を喉の奥に流し込む。
ゆっくり噛んで、水と一緒に飲み込む。それを繰り返し、時間をかけて麺麭を半分ほど食べた。少し腹に入れたら、この世の終わりとしか思えなかった気分が、幾分かましになった。
ユニは本当の意味で目覚めを感じた。
(そうだ、それでいい。気が滅入っている時は、何も考えずに食うか寝るのが一番だ。腐っていてもどうにもならんからな)
ユニの気持ちがわずかに上向いたのを感じ取ったのか、女は嬉々とした声でユニに語りかける。
死天使を倒したあの日から。声は何度も話しかけてきたが、ユニは無視し続けてきた。しかし、このまま頑なな態度を取り続けてもどうにもならないのではないか。
この声がなんだとしても、自分を狂わせたり、苦しめようと企んでいるわけではないと感じた。現に、ユニは命を救われている。
一度だけ、話を聞いてみてもいいかもしれない。
(あなた、なんなの……?)
(私の名はディヴィアだ)
ユニの想像が創り出した存在であるはずの女は、実在すると言わんばかりに名前を答えた。ディヴィア──聞いたことがない。
(名前を聞いてるんじゃないわ。……アタシ、ひとり芝居するくらい頭がおかしくなっちゃったのね……)
(狂気の果ての幻聴とでも言うのか。心外だな。私はお前の中に確かに存在している)
(……本当に?)
(ああ。
前の宿主が死亡してな。急遽、お前の身体に宿ったと言うわけだ)
それが本当だとしたら、自分はなんて不運なのだろう。ユニは頭を抱えた。
(どうして……アタシなの? 何か理由があるの?)
(理由? そんなものはない。ただの偶然だ。私は自分の意思で宿る対象を選択することはできぬのだ。
あれは……そうだな、お前が母の胎内に宿った時だった。ゆえにお前の肉体は私の影響を強く受けている。お前の容姿は私の生前に似ているのだ)
どこの誰ともわからぬ奇妙な存在のせいで、受け継ぐはずだった両親の特徴をすべて廃棄された。自分と、今は亡き両親の繋がりさえ否定されたようで、ユニは激しい苛立ちを抱いた。
「気持ち悪いこと言わないで! 出てってよっ!」
久しぶりに出す大声に、喉に力を込めすぎた。苦しさに咳き込んだあと、杯の水を飲み干す。
「……出ていけるんでしょう? アタシの中から」
(私がお前の身体から離れる時は、お前が死ぬ時だ。私とお前の魂は結びついてしまっている。一蓮托生というわけだ)
「……嘘でしょう……」
ユニは今、杯の中の水があふれてしまいそうなほどに、悲しみを溜め込んでいる。その上に、わけのわからないものの声まで感じ取れるようになってしまった。しかもその声は、自分から離れることは決してないのだという。
(そう悲観するな。悪いことばかりではない。幼い頃、お前を守ってやったのは私なのだ。私が力を使ったから、薄汚い肉袋どもに連れて行かれずに済んだのだぞ。私がこれからもお前を守ってやる)
以前フェイヴァが話して聞かせてくれた、ユニが忘却していた幼い頃の記憶。救ってやったと言われても、感謝の念はまったく抱けなかった。
(……アタシもお父さんたちと同じように、殺されていればよかったんだわ)
そうすればミルラと出会わずに済んだ。彼女が自分のために死ぬこともなかったのだ。今こんなにも思い煩うことはなく、奇妙な声に悩まされることもない。
孤児院に引き取られた日。ユニの記憶の始まりである。
ミルラとはその時に知り合い、親しくなったのだ。いつも困ったような表情をして相手に強く出られないミルラは、男子たちのからかいの的になっていた。そんな彼女を情けなく思いながら側で守っている内に、時は流れた。
ユニたちは、いつの間にか一緒にいるのが当たり前になっていたのだ。十五歳になり孤児院から出なければならなくなった時、ユニが行くならあたしも行くと、荷物をまとめてミルラは飛び出してきた。
ユニとミルラは一緒に暮らし始めた。海岸で網を引く仕事に雇われた。生活が百八十度変化し、ミルラもたくましくなった。孤児院にいた頃が嘘のように、たまに自分が励まされることもあった。
ミルラがいなくなってしまうなんて、思ってもみなかった。
歳を重ねて誰かと結婚したとしても、手紙のやり取りをして、ずっと仲良しでいられたはずだった。変わるはずは、失われるはずはないと、信じていたのに。
(ここは奇妙な場所だな。覚えのある容貌の者がいる)
ディヴィアは、ユニの感傷よりも、気にかかることがあるらしい。
(お前が好いているあの男)
胸を鷲掴みにされたような驚きを覚えた。疑問は、瞬く間に氷解する。ディヴィアはユニの感情が流れ込んでくると言っていた。ならば、ユニがレイゲンに好意を抱いていることもわかっているだろう。
(……レイゲンが、何?)
(奇しき縁だな。あの男は、私の息子に似ている。顔だけでなく、気配もな)
(……何、それ)
(私が初めて生んだ子供だ。人間で言えば、愛人のような関係でもある。あ奴に似ている男だからこそ、お前は惚れたのだ)
「ふざけないで! そんなことあるわけないじゃない!」
感情の赴くままに怒鳴りつける。
ユニの気持ちは、ユニだけのものだ。ずっと温めて大切にしてきた気持ちを、お前のものではないと言われて、怒りを露わにしない者がいるだろうか。
話してみようと考えたのが間違いだった。この女は、ユニを不快にする言葉しか吐かない。
(我が目を疑ったぞ。まるで昔のウォルザを見ているようだ。
……人間の子供は親に似るというな。もしかすると、我が息子の魂も、私と同じようにこの世に生きているのかもしれぬ)
これ以上話を聞きたくない。ユニは覚束ない歩みで寝台に戻ると、毛布を頭から被った。両手で耳を塞ぐ。効果はないと理解してはいたが、そうでもしないと耐えられなかった。
木製の扉が軽く叩かれた。ためらいがちな物音が、ユニを薄暗い内面世界から現実に引き戻す。
胸の中に確かにあったディヴィアの気配が、消えた。正確にはユニの深層意識に身を潜めただけだ。
ユニは毛布を足下に落とした。セレン水医だろうか。
「……どうぞ」
ユニの声を受けて、扉が開いた。室内に足を踏み入れたのは、桃色の髪を背中まで伸ばした、華奢な体つきをした少女だった。鏡のように夜空を映した瞳が、気遣うようにユニを見つめた。フェイヴァだ。
彼女を目にした瞬間、ユニは気持ちを面に出してしまいそうになった。どっと沸き上がる黒い感情。それは嫌悪感だと、考えなくても理解できた。
ついこの間まで、ユニとフェイヴァは間違いなく友だった。それが、粘ついて離れなくなるほどの憎しみを抱いてしまうなんて。
──いや、薄々こうなることは予想していたのだ。ユニとフェイヴァは、恋敵なのだから。フェイヴァが自覚しているかどうかは関係ない。
「ユニ、おはよう。体調はどう?」
空の寝台を避けながら、フェイヴァは歩み寄ってきた。顔には見慣れた微笑みが広がっている。
ユニが療養室で過ごすようになってから、様々な生徒が見舞いにやってきた。特にフェイヴァとサフィは一日に一回、必ずユニに顔を見せにくる。一日目、二日目はとても話せる気分ではなく、ユニは無言を貫いた。相手もユニの気持ちを察してか、すぐに出ていった。六日が経過した今も、心境にあまり変化はない。むしろ悪化してしまっていた。ディヴィアのせいで、余計な重荷を背負うことになったのだから。
「朝食、少し食べられたんだね。よかった」
フェイヴァは机の上にある食べかけの麺麭を見て、ほっと息を吐いた。さっきまでユニが座っていた椅子に腰かける。
「ここ、暇を潰すものがなくて辛いよね。ユニ、恋愛小説が好きだったよね? 明日探して持って来るね」
ユニは答えない。フェイヴァの弾んだ声と元気な表情を見続けて、なぜ憎しみを抱いたのか理解した。
フェイヴァは恋愛感情というものが理解できておらず、たびたびユニに対して気に障る行動を取った。それが積もって爆発しそうになっている、ということももちろんある。けれども、最大の理由は別にあった。
ミルラが亡くなってまだ十四日しか経過していない。にも関わらず、フェイヴァは哀惜を忘れ去ってしまったように見えた。それが堪らなくユニを腹立たせる。
「……あ、そうだ。おかしいんだよ、この間リヴェンがね」
「アタシ、喋りたくないの。……見てわからない?」
言葉を遮り冷たく言い放つ。
ユニの態度と声を受けて、フェイヴァは初めて顔を歪めた。こんなことで傷心するより先に、悲しむことがあるでしょ。吐き捨ててやりたいのを我慢する。
「……ごめん」
「帰って」
「本当にごめんね。また、来るね」
フェイヴァは駆け足で扉に近づくと、振り返って言った。開かれた扉が、静かに閉められる。
ユニは大きく息を吐いた。追い出した罪悪感はない。いなくなってくれて清々した。
(……あの娘)
ランプにぼんやりと光が灯るように、ユニの意識にディヴィアが浮かび上がってきた。
(フェイヴァが、どうかしたの?)
(覚えがある。あの娘と似た者を、私は知っている)
「……え?」
『気のせいかもしれないけど、フェイヴァに見覚えがあるのよね』
フェイヴァと初めて会った時、ユニは確かに彼女に既視感を抱いた。あれから何度か考えてみたが、過去にフェイヴァと会ったことはなかった。そればかりか、フェイヴァに似た雰囲気の人間すら見たことがない。
ユニがフェイヴァに見覚えがあったのは、ディヴィアに影響されていたからなのか。
(どういうこと……?)
(私の過去の話だ。お前は知らなくていい。確かに言えることは、奴は敵だということだ。二度と心を開くな)
ユニは、レイゲンの端正な顔を想起した。雨粒が落ちる音や、湿った草の匂いが、甦ってくる。厩舎の屋根を傘にして、ユニはレイゲンに思いを告げたのだ。
フェイヴァが出ていった扉を、ユニはじっと見つめていた。