5.二人で歩く
私と飯岡君は、お茶することにして、歩き出す。飲食街の明かりが続いている方へ。
大学入学から七年目。
今日まで、二人きりで肩を並べて歩いたことなど一度も記憶になかった。
林のなかで地図を眺めていると、飯岡君が走ってきて「頑張れよ」と言ってくれた。「頑張ってね」と私は返す。
そんなことが幾度もある。
遠くまで出かけた帰りの電車のなかで、みんなが「このあと、少し何か食べようか」と話している。
「何食べる?」という話に「倉田が起きてから決めようよ」という飯岡君の声がして、居眠りから目覚めたこともある。
何気ない日常のような、ちょっと意識してしまうようなことの積み重ね。
そのずっと先に、こんなことがあるなんて。
今夜は、まるで魔法がかかったかのよう。
「今になって、飯岡君と二人で話すことがあるなんて、思ってもみなかった」
思わず呟く。
「俺も」
飯岡君は夜空を見上げた。
「本当は学生のときから、こうやって二人で話す機会があったらいいなってずっと思ってた」
「私も……」
胸がいっぱいで、言葉がこれ以上、出てこない。
ただ一緒になって、闇の色に染まった空を仰ぐ。
晴れた夜空で、淡く光る細い月だけが静かにこちらを見下ろしている。
あの空の彼方から覗いたら、どんなふうに見えるんだろう。
夜の地球を撮った写真を見たことがある。この辺りは、特に光が集まっている場所に見えるはず。窓の明かりが灯る高層ビルの下で、私は何の光も発せず、点の一つにもならない。
けれども今、こうして二人でここにいること、こんな幸せな気持ちでいることは、確かなことだと思う。
飯岡君は話を続けた。
「いい機会なかったんだよな。サークルで同期だと、何だか距離感が分からなくて。仲間同士でいろいろ伝わっちゃう感じもして、何かあったらお互い参加しづらくなりそうだし」
「うん、そうだね」
飯岡君にも私と同じような感覚があったみたい。
「だから、卒業するまでは思うだけだった。でも、卒業したらしたで、また考え込んだんだよな」
「何を?」
首を傾げて尋ねると、意外なことを言われた。
「カンタが彼女と別れたの、知ってた?」
「ううん、知らなかった」
神田君は、かけ持ちで入っているテニスサークルの女の子と、ずっと付き合っていると聞いていた。とてもきれいな人だという。
「カンタは彼女と結婚する気でいたみたいで、気持ちが残っているんだよ。彼女が職場の人を好きになったらしいんだ。そういうふうに学生のころと変わることもあるみたいだから、その」
急に話を止めたので、思わず覗き見ると、また目が合う。
「その、倉田だって同じことがあるかもって思って。今日会ったら、職場の人と付き合っているとかそんなことがあるんじゃないかって考えたりしてた」
「え、そんなこと全くないよ」
思わず声が大きくなる。びっくりするような心配をしてくれている。
「うん。実はカンタが最初から飲んでいたのが気になって、さっきも様子を見ていたんだ。そうしたら、倉田が相手を探すところからって言ってたの、聞いちゃったんだよな」
「わ、そうだったんだ」
隣のテーブルで聞かれていたんだと気づく。思ってもみなかった。
「そのあと倉田が席を外したときに、何だか今なら話せそうな気がして、行ってみたんだよ。今日はエレベーターでいきなり一緒だったから、ずっと気にかかっていたし。そうしたら、ちょうどいいタイミングで会って、倉田が戻る道を間違えたから、よかった」
「……あ、そう」
ものすごく間の抜けた返事をしてしまった。
あの間違えがよかったとか思われると、変な感じ。
ん? そういえば、確かトイレを訊かれたのがきっかけだったような。
「あっ、飯岡君っ」
思いついたら、口が勝手に動いてしまう。
「あのとき、トイレは行けたの?」
「え……うん。行ったよ」
声のトーンが落ちている。私は大失敗に気づく。
何でここでトイレの話なんかしてしまったのやら。
せっかくのムードに、ぴしっと罅が入って、がらがらと音をたてて壊れていく。崩れ去る。
生活感ぎゅうぎゅう詰めの雰囲気に取り囲まれてしまったような。
沈黙が降りる。
夜風が髪を揺らす。くすくすと笑うように。
所詮、私には素敵な雰囲気なんて保てないのか……。
俯きそうになったそのとき、突然何か弾けるような大きな音が響き渡った。
次の瞬間、夜空がぱあっと明るくなり、光が花のように開いた。
「花火……!」
見上げて、思いがけない出来事に驚く。
「花火大会、この近くであったんだな」
隣で飯岡君が呟いた。そういえば、この周辺で毎年大きな花火大会が開かれている。たまたま今日だったのだ。
「きれいだね」
花火は次々と上がり出す。空は夜から真昼になったように明るく照らし出される。
思わぬことで、気持ちが上向く。
なんて不思議な夜だろう。
打ち上げ花火が私の味方をしてくれた。
暗かった夜空が、さまざまに彩られる。
赤、白、黄、緑、青、紫と、様々な色合い。菊の花に牡丹の花、円形に椰子にたくさんの小花に、光が広がる。ハート、スマイル、魚、交差した輪など、楽しい形も上がってくる。
やがてその光は色を変化させながら、小さな粒子になってきらきらと散っていく。
二人で立ち止まって眺める。
「もう少し花火の近くへ行ってみようか」
飯岡君が提案した。
「行けそう?」
尋ねると、飯岡君はにこっと笑った。
「方向さえ間違えなければ、近くにもっとよく見える位置があるはずだよ」
「私、そのへんの感覚、全然分からなくて」
残念ながら、私には常に方向感覚が備わっていない。
「大丈夫、ついてきて。あの……」
少し言い淀んでから、飯岡君は告げる。
「手をつないでも、いい?」
その言葉に、また体から熱があふれ出す。
「うん」
赤く染まっているはずの顔で、私は小さく頷いた。
少しだけ差し出した右手を、飯岡君がそっと取る。
飯岡君の手は大きかった。温かくて、どこか安心感のある感触。
二人とも手がちょっと汗ばんでいるけど。
「暑いけど、いい夜だな」
「うん、いい夜だね」
どん、と大きな音がして、花火が上がる。
大輪の光の花が咲き乱れる。
飯岡君の眼鏡に、花火の光が反射する。
私はすぐそばにいて、同じ光を共有している。
包み込むような飯岡君の手に力が入る。自然と私もその手を握る。
そのとき、これまでと何かが変わった気がした。
新しいつながりができたような。
仲間同士のなかに、二人だけの心地よい結びつきができた感じ。
再び花火が上がる。
次々音がして、煌びやかな光が夜空へ放たれる。
「行こうか」
「うん」
右手のひらに温かいものを感じながら共に一歩を踏み出す。
遠くの花火へ向かって、私たちは歩いていく。