ep 2
第一章:冥府の門、悪鬼と姫君
「……お願い、お願いします……」
掠れた懇願の声が、どこか遠くで聞こえる。
「駄目です、私が怒られてしまいます故……」
それを拒む、事務的な男の声。
霞がかっていた意識の淵で、世一はそんなやり取りをぼんやりと捉えていた。まるで水底から水面を見上げるように、徐々に感覚が輪郭を取り戻していく。最後に感じたのは、全身を焼き尽くすような猛烈な熱と、骨が砕ける衝撃だったはずだ。だというのに、今は不思議と痛みはない。ただ、奇妙な浮遊感と、どこか冷やりとした空気が肌を撫でるのを感じるばかり。
「ん……あ? ここは、何処だ……」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどにかすれていた。重い瞼をこじ開けると、そこは薄暗く、だだっ広い空間だった。霧のようなものが立ち込めているのか、遠くは見通せない。石造りらしい巨大な門のようなものがぼんやりと見え、その手前には厳めしい顔つきの男が一人、仁王立ちになっている。先ほどの事務的な声の主だろうか。
男は、世一が意識を取り戻したことに気づくと、侮蔑と嫌悪を露わにした目で彼を見下ろした。
「気づいたか、極悪の者よ」
その声は冷たく、有無を言わせぬ響きを持っていた。
「あ? 誰だお前」
世一は未だ状況が掴めず、反射的に相手を睨みつける。全身に力が入らない奇妙な感覚に戸惑いながらも、その態度は尊大だ。
門番は、世一の不遜な態度に眉一つ動かさず、宣告するように言った。
「これから地獄の業火に焼かれる者に名乗る名など無い。貴様のような魂は、裁きを待つまでもなく――」
「あ? お前じゃねーよ」
世一は門番の言葉を遮り、その視線を門番の背後、柱の影へと移した。そこには、先ほどから人の気配がしている。
「そこに隠れてる可愛いねーちゃんに聞いてんだよ」
柱の影から、息をのむ音が微かに漏れた。
「……っ」
「き、貴様、誰に向かって話をしている!」
門番の顔が怒りに歪む。これまで抑えていた感情が、世一の不敬な言葉によって一気に噴出したようだ。「ええぃ、裁きを言い渡すまでも無い! 我がこの場で首をはねてくれようぞ!」
腰に差した長大な太刀に手をかけ、殺気を漲らせる。
だが、世一は全く動じなかった。むしろ、その挑発を楽しむかのように口の端を吊り上げる。
「あ? 誰に口きいてんだテメー」
全身の倦怠感は変わらないが、声だけはいつもの世一だった。
「首をハネるだと? やってみろよ、できるもんならな」
「やめて下さい!」
凛とした、しかしどこか震えを帯びた若い女の声が響き渡った。
その声に、あれほど威圧的だった門番が、はっとしたように動きを止め、慌てたように声のした方へ向き直る。
「ひ、姫様っ!?」
柱の影から、そっと姿を現したのは、年の頃十六、七であろうか、白い衣を纏った可憐な少女だった。長い黒髪が絹のように流れ、大きな瞳には不安と意志の光が揺れている。先ほど世一が「可愛いねーちゃん」と呼んだその人だ。
姫と呼ばれた少女は、真っ直ぐに門番を見据え、努めて冷静な声で告げた。
「和勇牛よ、貴方は下がっていなさい」
門番の名は和勇牛というらしい。彼は姫の言葉に、先ほどの怒りが嘘のように萎縮している。
姫は続ける。「私は、この御方と話がしたいのです」
「い、いや、しかし姫様、そのようなわけには…!こやつは極悪非道の魂、姫様が御近づきになるなど…」
和勇牛は狼狽し、姫を説得しようとするが、姫は決して譲らなかった。
「下がりなさい!」
ぴしゃりと言い放つ声には、先ほどまでの震えはなく、有無を言わせぬ威厳がこもっていた。
「……! は、ははっ!」
和勇牛は一瞬目を見開いた後、深々と頭を垂れ、恭順の意を示して後ろへと下がった。その額には脂汗が滲んでいる。
姫は、改めて世一へと向き直った。その大きな瞳が、じっと彼を見つめている。