バレンタインには甘いキスを
私は桜庭ひまり。高校二年生。
成績はだいたいどの教科も、中の上くらい。あ、でも数学は他の教科と比べると、まあちょっと得意かな。
部活には入ってなくて、一年の頃に学校と家の間にあるカフェでアルバイトを初めて、今もずっと続けてる。
友達にも恵まれて、高校生生活は楽しく過ごせてる。いわゆる、花の女子高生ライフってやつ……?を、まあ、満喫できてると思う。
ただひとつだけ、私には小さい頃から変わらない悩みがある。
それは、同年代の男の子が少し苦手だということ。
幼い頃、理由も分からないまま、男の子にいじめられることが多かった。
今になって思えば、それが不器用な男子の、精一杯のコミュニケーション手段だったんだろうけれど、当時の私はただ怖くて、とても嫌で、どうして自分がそんな目に遭うのかも分からなかった。
その経験が原因となって、私は同年代の男に対して、苦手意識を持つようになってしまった。
高校二年生になった今では、バイトで男性と接する機会もあるし、高校でも男子と話すことは当たり前にあるから、さすがに普通に日常会話くらいはできる。
それでも、男子と距離が近くなると、今でも心の中で、胸がきゅっと縮こまってしまう自分がいる。
だけど。
最近、一人だけ例外ができた。
「あ、ひまり先輩!おはようございます!」
廊下の向こうから、ぶんぶんと手を振りながら駆け寄ってくる一人の男子の姿。
染めたわけではなく地毛らしい、少し色素の薄いサラサラの髪を靡かせて、整った顔でにっこりと微笑んでいる。
至近距離で、香水みたいなきつい匂いじゃない、ふわりとした爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。……シャンプーかな?
相変わらず腹が立つほどのイケメンっぷりに、ドキドキする心臓を抑えつつ、私は腕を伸ばして、少し上にある彼のおでこを軽くペチンと叩いた。
「おはよう、朝比奈くん。だけど、廊下は走らない。危ないでしょ?」
「えー、だって、先輩が見えたからつい走っちゃって……」
「もう。それ、全然言い訳になってないから」
そう言いながらも、思わず口元が緩んでしまう。
一年生の後輩、朝比奈璃玖くん。
バスケ部のエース候補で、ベビーフェイスの愛らしい顔立ちなのに、プレーは格好いいと評判の男の子。
そんな彼と私が初めて知り合ったのは、彼が入学してすぐの、部活動体験の日のことだった。
体育館の場所が分からず、校舎の裏をうろうろしていた朝比奈くんをたまたま見かけて、声をかけたのがきっかけだった。
『あの、君、大丈夫?』
『えっ、あ、はい!えっと……体育館どこか分からなくて……』
『良かったら案内しようか?』
『え、いいんですか!?』
そうして体育館まで彼を連れて行ったその日以来、朝比奈くんにとても懐かれてしまった。
たまたま廊下で会った時、嬉しそうに近づいて来て挨拶してくれたり、キラキラした瞳を輝かせて、嬉しそうに何かと話そうとしてくれる。
そんな彼に戸惑いつつも、なんかこの子可愛いなって、そんな風に思ってしまっていた。
そして一学期の終わりにあった球技大会の頃から、彼の距離の詰め方が、少し変わった。
『ひまり先輩っ!今のシュート見ました!?』
『うん、見てたよ』
『やった!俺、めっちゃかっこよくなかったですか!?』
『それ、自分で言う?……でも、確かにかっこよかったよ。朝比奈くん、バスケだけじゃなくてサッカーもできるんだね』
『はいっ!運動全般得意なんで!この後も俺、頑張るから。……だから俺だけ見ててくださいね?』
『……次、私も試合なんだけど』
『えっ』
『分かったら、さっさと戻りなさい』
『はーい!でも終わったらまた来ますからね!』
『……分かったわよ。……試合、頑張ってね』
『へへ、はいっ!行ってきます!先輩も頑張って!』
二学期の中頃に差し掛かるころには、テスト前になると、朝比奈くんは決まって私のところに泣きついてくるようになっていた。
『ひまり先輩、聞いてください!今日の数学、マジで意味分かんなくてやばかったんですよ……。俺、終わったかもしんない……』
『そうなんだ……。今日習ったところ、見せてくれる?』
『はい。ここなんですけど……。先生がここは絶対テストに出すって言ってました……』
『あー、ここかぁ。……うん、これなら教えられるよ』
『さすがひまり先輩。……そう言ってくれると思ってました』
『もう、調子良いんだから』
懐いてくる彼と、彼に絆されている私の様子を見て、周りからは「なんか朝比奈くんって犬みたいだよね」とか、「大型犬飼いだしたの?」なんて、面白半分で言われることもある。
最初は否定しようとしたけれど、確かに、顔を見つけたらすぐに飛んでくるし、構えば喜ぶし、放っておくと拗ねる。
そう思うと、犬っぽいと言われていることに少し納得してしまって。つい、小さく笑ってしまった。
男子のことが苦手なこともあって、最初の頃は戸惑っていた私も、いつのまにか朝比奈くんの笑顔に絆されて、彼だけは、他の男子と違って気楽に話せる存在になっていた。
それが、どういう意味を持つのか、当時の私は全然分かっていなかったけれど。
*
それは、バレンタインが近づいたある日のこと。
お昼休み、クラスで友達の優子と瞳と机をくっつけてお弁当を食べていると、話題は自然とバレンタインの話になった。
「ねえ、瞳は今年もクラスの男子にギリチョコ配る?」
「あー、うん。仲良い男子には用意しよっかなって思ってるよー。優子も作る?」
「うん、そのつもり。それと、友チョコも作らないとね」
「そうだね。ていうか、正直、そっちが楽しみなとこあるよね、バレンタインって」
「あはは、確かに!」
「あ、でもね……今年は私、本命チョコも作ろうと思ってるんだ」
「え、……マジで!?」
「うん、今年は頑張ってみるんだ」
瞳が顔を赤らめて、意気込んでいる。
瞳、告白するんだ。すごいな……。
私は、義理チョコ含めてこれまで男子にチョコをあげたことは無いし、今年もあげるつもりはないけれど、女子の恋バナを聞くのは別に嫌いじゃないし、むしろわくわくした。
恋する女の子ってなんだか凄く可愛いなと思いながら、「頑張ってね」と言うと、
「ひまりはやっぱり、朝比奈くんに作るの?」
優子が、何でもないことのように聞いてきた。
「え?特に作るつもりないけど……」
朝比奈くんはモテている。
きっと一年生の女の子たちから、たくさんもらうはずだ。
私のチョコなんて、いらないだろうとそう思っていた。
だけど。
「え、なんで作らないの?」
「朝比奈くん、ひまりからもらえなかったら落ち込むんじゃない?」
そう言ってくる二人に、私は眉を顰めた。
「え、でも……私が彼にチョコあげるのって、なんかおかしくない?」
そう言うと、二人は揃って「へ?」という顔をした。
「逆に、彼女なのになんで作らないの?」
優子のその発言に、私はとても驚いた。
「え、私、朝比奈くんと付き合ってないよ!?」
思わず声が大きくなって、慌てて口を押さえる。
「えっ!?そうなの?」
「てっきり付き合ってるのかと思ってた」
驚いた顔をする二人。だけど驚いてるのはこっちの方だ。
「え、なんで!?」
焦って聞くと、二人はちょっと呆れた様な顔をした。
「いや、あれで付き合ってないって方が驚きなんだけど……」
「ね。お似合いのカップルだなーってずっと思ってたよ」
そんなことを言う二人に、慌てて訂正する。
「え、いや、違うから!そんなの朝比奈くんに悪いよ。あの子、ほんとにコミュ力高くて、話しやすい子なの!」
言いながら、朝比奈くんの顔を思い浮かべた。
私を見つけた瞬間の、ぱっと明るくなる表情。
「ひまり先輩」って呼ぶ、少し甘えた声。
彼の顔を思い出すと、少し頬を赤くなってしまう。
そんな私を見て、優子がさっきとは少し違った、真面目な響きを纏った声で言った。
「……付き合ってないんだったら、なおさら、作らなくていいの?」
そう聞かれて、ドキッと胸が鳴った。瞳も続ける。
「そうだよ!せっかくのバレンタインだよ?……私は作るよ、本命。……ひまりは?本当に作らないの?」
瞳にそう聞かれて、胸の奥がじんわり熱くなった。
チョコを渡した時の、朝比奈くんの嬉しそうな顔を、想像してしまったから。
……渡したいかも。
この時私は、生まれて初めて、男子にバレンタインチョコをあげたいと思った。
「……うん、やっぱり、作ってみようかな」
そう言うと、二人は優しい笑顔で笑ってくれて、私も少し照れながら笑い返した。
*
そして、バレンタイン前日のこと。
仲良しの子たちにはチョコブラウニー。
それから少し悩んで、結局朝比奈くんには、他の友達の物とは別に、チョコレートトリュフを作った。
綺麗な形にするのが難しくて、気づけばかなり夜遅くまで台所に立っていた。
「……上手く、できたよね」
やっと完成したトリュフを見て、小さくそう呟く。
形が崩れないようにそっとお皿ごと持ち上げ、冷蔵庫を開けると、ブラウニーのお皿の横に並べて、静かにドアを閉じた。
*
そうしてむかえた、バレンタイン当日。
お昼休み、可愛くラッピングした友チョコを仲の良い女子同士で交換していた。
すると、明るくて誰とでもすぐに仲よくなるクラスの中心人物で、朝比奈くんと同じバスケ部の楠木彰くんが声をかけてきた。
「うわ、ブラウニーじゃん。すげえ美味そう!いいなー、俺も食いてー」
日々、朝比奈くんと話すうちに、私は少しずつ男子と話すことにも慣れてきていた。
それに、楠木くんはもともと話しやすい雰囲気の人で、クラスの男子の中では、かなり気楽に話せる存在になっていた。
ブラウニーは、特に交換の約束はしてないけど当日くれた子にお返しする用として、少し多めに持ってきていたから、
「あ、じゃあ、楠木くんも食べる?」
そう言って、楠木くんに一つ差し出した。
「えっ!……まじで!?いいのっ!?うわ、やば……、めっちゃ嬉しい!ありがと、桜庭さん!」
「ううん、どういたしまして」
凄く嬉しそうにニコニコしながらブラウニーを受け取る楠木くんが少し可愛いな、なんて思いながら、自然と笑顔になった。
*
お昼ご飯を食べ終えた後、私は改めて気合いを入れた。
放課後は朝比奈くんは部活、私はバイトがある。
今日、朝比奈くんにチョコを渡せるとしたら、お昼休みの今しかない。
胸の前で紙袋をぎゅっと抱きしめて、私は深呼吸をひとつした。
……大丈夫。
渡すだけ。渡して、「よかったら食べて」って言うだけ。
自分に言い聞かせながら、一年生の教室の方へ向かっていた、その時だった。
中庭の方から、女の子たちの声が聞こえてきた。
何気なくそちらを見ると、朝比奈くんの周りによくいる後輩の女の子たちが集まっているのが見えた。
その中の一人が、俯いて泣いていた。
とても気になったけれど、彼女たちと特に関わりも無い一つ上の先輩の私がしゃしゃり出る場面では絶対に無い。
せめて気づかれないように静かに通り過ぎようとした瞬間。
「朝比奈、本命チョコは誰からも受け取らないんだって」
「そうなんだ……」
「だから、私のチョコ、受け取ってもらえなかった」
足が、止まった。
「……でも、変に期待させないところ、彼らしくてかっこいいなって思った。……私、朝比奈のこと、もっと好きになっちゃったよ」
泣いていたはずのその子は、そう言って、少し辛そうなのに、それでも優しく微笑んでいた。
その表情に、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
……そっか、朝比奈くん、本命チョコは、受け取らないんだ。
そう思った瞬間、さっきまで必死に抱きしめていた紙袋が、急にとても重たく感じた。
私は来た道を引き返して、二年生の教室へ戻った。
だって、渡せない。
作る前から、薄々気づいていたけれど、チョコを作っているうちに、はっきりと自覚してしまったこの気持ち。
これは、ただの義理とか、友チョコなんかじゃない。
こんな思いのこもった本命チョコ、朝比奈くんに受け取ってもらえるわけがない。
……どうして、私、もらってもらえない未来を、想像しなかったんだろう。
自分の甘さが、恥ずかしくて、情けなくて。
とぼとぼと教室に戻りながら、胸の奥に溜まった気持ちを、どうしていいか分からなかった。
*
放課後。
バイト先のカフェは、普段は女の子のお客さんが多い。
けれどバレンタインの今日は、いつもと違って、店内のほとんどがカップル連れだった。
幸せそうな二人の姿を見て、素敵だなと思う。
その一方で、ふと朝比奈くんの笑顔が脳裏に浮かんで、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
バイトを終えて、更衣室で制服に着替える。
脱いだ服をしまうためにカバンを開けた瞬間、中に入ったままのチョコが目に入って、また胸が沈んだ。
……結局、渡せなかったな。
帰り道、いつもなら素通りするだけの公園に、今日はなぜか足が向いた。
ブランコに腰を下ろすと、ギイ、と鎖が音を立てる。
夜の公園は静かで、冷たい風が頬を撫でた。
なんだか寂しさが込み上げてきて、カバンから、渡せなかったチョコを取り出した。
可愛くしたくて朝から早起きして頑張って包んだラッピングを、ゆっくり解く。
箱を開けて、チョコレートトリュフをひとつ摘むと、口に入れた。
「……甘いなぁ」
思わず、そう呟いていた。
手作りのチョコ一粒一粒にたっぷりと込めてしまっていた溢れるほどの恋心は、自分でも驚くほどに甘かった。
もう一粒、口に含む。
視界が滲んで、涙がぽろりと落ちた。
作ったチョコをひと粒ずつ口にする。
甘い香りとともに、恋心の重さが胸に沈む。気づけば、全部食べ終えていた。
涙はいつの間にか止まっていたけれど、立ち上がる気力もなくて、そのままぼんやりと地面を見つめていた。
その時。
カシャン、とブランコの鎖が揺れる音がして、影が私の前に落ちた。
「ひまり先輩、見つけた」
よく知っている声。
顔を上げると、そこに立っていたのは、朝比奈くんだった。
「朝比奈くん……どうして、ここに」
「……部活終わって、丁度帰ってるところです」
「そっか。お疲れさま」
そう言ったけれど、胸がざわついて落ち着かない。
朝比奈くんは、いつもの柔らかい笑顔じゃなかった。
少し唇を尖らせた、むすっとした表情で、じっと私を見ている。
「嘘。……ほんとは聞きたいことあって、ひまり先輩探してました」
「え……?」
探してたと言う朝比奈くんの声が、いつに無く鋭くて、私は少し気まずさを覚えた。
「……ひまり先輩って……、楠木先輩のこと、好きなんですか?」
「え、楠木くん?なんで……?」
突然、朝比奈くんから出てきたクラスメイトの名前に、思わず聞き返した。
「だって、楠木先輩、ひまり先輩から貰ったって言って、手作りのブラウニー、すっげー嬉しそうに食ってたから……。なんかラッピングすげえ可愛いやつ」
「あ、あのブラウニー……!」
昼休みにあげたブラウニー、美味しいって思ってくれたんだ、よかった……。と、ほっとした、その瞬間。
「ねえ」
朝比奈くんが、拗ねた声で言った。
「なんで、そんな嬉しそうなんですか」
「え……」
気づいた時には、手首を掴まれていた。
驚いて顔を上げると、朝比奈くんの真剣な目が、まっすぐ私を見つめている。
「……俺、ひまり先輩が好きです」
静かな公園に、はっきりとした声が響く。
「ひまり先輩も、俺のこと好きなのかもって思ってた。……でも、違った?俺の勘違いだったんですか?」
頭が、真っ白になった。
「……え……?」
理解が追いつかないまま、朝比奈くんを見つめる。
その瞳が、少しだけ不安そうに揺れているのを見て、胸がぎゅっとなった。
「どうなんですか、先輩」
切なそうに、囁かれる。
……そんな顔、ずるい。
「……好き」
気づいたら、声が出ていた。
「私も……朝比奈くんのこと、好き」
言葉にした瞬間、腕が伸びてきて、気づいた時には、朝比奈くんに、そっと抱きしめられていた。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
彼の腕の中は驚くほど安心できて、私は朝比奈くんの胸に、そっと額を預けた。
*
しばらく、そのままでいた。
朝比奈くんの腕の中は、思っていたよりもずっと落ち着く。だけど、心臓の音だけがやけにうるさかった。
やがて、朝比奈くんがそっと腕を緩めた。
顔を上げると、自然と目が合った。
「……ひまり先輩、聞いてもいい?」
「ん?なに?」
朝比奈くんは、少しだけ気まずそうに視線を泳がせてから、意を決したようにこちらを見る。
「先輩の手作りチョコ、なんで楠木先輩にあげたの?あれ、本当は俺のでしょ?」
「……あ」
そう言われて、昼休みの出来事が一気に頭の中によみがえる。
告白の衝撃ですっかり忘れていた。
嫉妬しているのが丸分かりの朝比奈くんを見て、胸の奥がくすぐったくなる。
「違うよ。あれは友チョコの余り」
「……友チョコ?」
「うん。朝比奈くんには、ちゃんと別に用意してたの」
そう言った瞬間。
「……は?」
朝比奈くんの目が、ぱっと見開かれた。
「俺のチョコ、別にあったの!?」
「……うん」
ちょっと照れながら頷いた、その時。
「……んー……、でもやっぱ、ムカつく」
「え?」
「先輩が他の男にチョコあげてるの、めちゃくちゃモヤモヤする」
ぷいっとそっぽを向く朝比奈くん。
その様子が可愛くて、思わず笑いそうになる。
「……ふふ。大丈夫。朝比奈くんにはちゃんとチョコ用意して……、あ」
一気に顔が青ざめた。
「……え、なに?ひまり先輩、どうしたの?」
心配そうな声で聞いてくれる朝比奈くんに、私は咄嗟に謝った。
「……朝比奈くん、ごめん!」
そして意を決して、今日あったことを全部話した。
中庭で聞いてしまった話のこと。
本命チョコは受け取らないと知って、渡せなかったこと。
それからさっき、公園で、朝比奈くん用のトリュフを全部食べてしまったこと。
話し終えると、朝比奈くんはしばらく黙っていた。
そして、小さくため息をついた。
「……俺がチョコ誰からも貰わなかったの、先輩に誠実でいたかったからなんだけど」
「そうだったんだ。……嬉しい。ありがとう」
「……先輩のチョコだけは、絶対食べたかったのに」
「そう思ってくれてたの、ほんとに嬉しいよ」
でも、と朝比奈くんは続ける。
「楠木先輩にはあげてるし」
「……」
「俺の分は、先輩が全部食べちゃったの……?」
「……ご、ごめんなさい」
情けなさと恥ずかしさでいっぱいになりながら謝ると、朝比奈くんはじっと私を見てきた。
ジトっとした目。
「……駄目」
「え」
「許さない」
「ご、ごめん……。ほんとに悪いと思ってる」
「ほんとに?」
「うん、ほんと」
すると、朝比奈くんは少しだけ間を置いて、低い声で言った。
「じゃあ……ひまり先輩から、キスして」
「……え?」
動揺で身体が固まった。頭が追いつかない。
「キスしてくれたら、許してあげる」
本気の目だった。
心臓が、跳ねる。
「……う、うん、分かった。……目、瞑って」
意を決してそう言うと、朝比奈くんは素直に目を閉じた。
近づく距離。
自分の鼓動が、相手に聞こえてしまいそう。
そっと、唇を重ねる。
柔らかくて、温かくて、触れた瞬間、胸がいっぱいになる。
重ねた唇は、さっき食べたチョコの余韻がまだ消えていなくて、唇に甘さが残っていた。それが妙に生々しくて恥ずかしかった。
離れようとした、その時。
朝比奈くんの手が、私の後頭部に回り、少し離れた唇が、もう一度、強くくっついた。
まるで食べるみたいに、貪るように唇が奪われる。
長いキスに息が続かなくて、生理的な涙が浮かんだ。
少しだけ頭を抑える腕が弱まり、ほんのちょっと唇が離れたすきに、息を吸おうと少しだけ口を開いた。するとそこに、彼の舌が入ってきた。
口の中を這う様に動き、たっぷりと時間をかけて深いキスをされる。
呼吸が出来なくて、いよいよ酸欠になりかけて頭がくらくらとしてきた時、やっと唇が離れた。
「……あま」
朝比奈くんが、幸せそうに、小さく呟く。
私は、ぼんやりとした思考のまま、はぁ、と息を吐きいて、彼を見つめた。
「……ひまり先輩、その顔、反則」
そう言って、朝比奈くんは照れたように目を逸らした。
「……朝比奈くん、もう怒ってない?」
そう聞くと、彼はくすっと笑って、私の頭にぽん、と手を置いた。
「うん。チョコより、もっと良いもの貰ったから」
「……よかった」
安心して微笑むと、朝比奈くんは少し考えるような顔をして、手を差し出してきた。
「ひまり、帰ろ」
「……え、名前」
朝比奈くんは、大人っぽく微笑んだ。
「俺、今日からひまりの彼氏だから。先輩なしで呼んでもいいでしょ?」
「……うん。嬉しい」
そう答えながら差し出してくれた手を握る。すると彼は、心から嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃあさ」
「……うん?」
「ひまりも、璃玖って呼んで」
「……璃玖」
そっと、彼の名前を呼ぶ。
「……俺も、すげぇ嬉しい」
とても幸せそうな声で璃玖が呟く。握っている手の力が、ぎゅっと強くなった。
*
帰り道、手を繋いで歩きながら、璃玖が小さく何かを呟いている。
「けどやっぱ、楠木先輩のチョコは悔しいな。あの人絶対ひまりのこと好きだし……。……俺がどれだけ、ひまりに悪い虫つかないように牽制してきたと思ってんだ……」
小さい声だったからよく聞き取れなくて、
「璃玖、どうしたの?」
そう聞くと、璃玖が少し拗ねた顔でこちらを見た。
「ねえ、ひまり。来年はさ」
「うん?」
「チョコも、キスも、どっちもくれる?」
胸が、がきゅんと鳴った。
私は、璃玖の耳にそっと唇を寄せて囁く様に言う。
「うん。来年はどっちも、ちゃんと貰ってね」
そして、衝動に任せて、そのまま璃玖の頬にそっと唇を寄せた。
私の突然の行動に、璃玖は驚いた顔をして自分の頬に手で触れた後、とても嬉しそうに頬を崩した。
「……そういう不意打ち、ずるいって……」
夜道に響くその照れた声が凄く愛しくて、私は堪らない気持ちで胸がいっぱいになってしまった。
本作を見つけてくださり、お時間を作ってお読みいただき、誠にありがとうございます!
せっかくのバレンタインなので、バレンタインにちなんだ短編を書きました。
この他にも恋愛ものの長編や短編なども何作か書いております。もし興味を持っていただけましたら、ぜひそちらもご覧いただければ嬉しいです。
最後になりますが、ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました!また他の作品でもお会いできれば幸いです。
陽ノ下 咲