第28話
ガギィィィィィンッ!!
鼓膜を破壊せんばかりの金属音が、閉鎖的な空間に反響した。
衝撃の余波で、足元の泥水に波紋が広がる。
「ぐ、おおおおぉぉぉッ……!!」
巨漢のタンク、坂下が苦悶の声を漏らした。
彼が構えるタワーシールドは、すでに原形を留めていない。
中央が飴細工のように大きく凹み、分厚い鋼鉄の表面には無数の亀裂が走っている。
その向こう側にあるのは、圧倒的な暴力の塊だ。
身長三メートル超。
燃え盛る溶岩のような赤黒い肌。
丸太ほどもある腕が振るう、六角柱の巨大な金棒。
――鬼。
先ほど浅葉を一撃で沈めた「鬼」が、今まさに坂下を肉塊に変えようとしていた。
「くそっ……、なんてデタラメな……!」
坂下が苦しそうに呟く。
「今助けます!!」
リナは駆け寄りながら杖を振るった。
狙いは赤鬼の顔面。
目や鼻、急所をピンポイントで狙撃する。
「ファイア!」
カッ、と放たれた火球が、正確無比な軌道で赤鬼の左目に吸い込まれる。
だが。
ジュッ。
着弾した瞬間、まるで熱した鉄板に水滴を落としたかのような軽い音がしただけだった。
赤鬼は瞬き一つしていない。
ダメージどころか、火球の熱エネルギーそのものを皮膚が吸収し、その赤熱した輝きを増しているようにさえ見える。
「嘘でしょ……!?」
リナの背筋に悪寒が走る。
魔法が効かない。
いや、この感じ。
スライムに水魔術を打ち込んだ時の感覚に似ている。
相性が最悪なのだ。
今の火魔術でわかった。
この赤鬼は、極めて高い「火属性耐性」と「魔法防御力」を持っている。
半端な魔術など、そよ風程度にしか感じていないのだろう。
(私の魔術じゃ威力不足……なら!)
リナは肩に乗る相棒に視線を向けた。
管狐の白雪。
白雪は高位の式神だ。
その火力は、リナのちっぽけなファイアとは桁が違う。
「白雪! お願い!」
『キュウッ!!』
リナの意図を汲み取った白雪が、鋭く鳴いた。
彼女の全身から膨大な霊力が立ち上る。
それは通常の赤い炎ではない。
より純度が高く、より高温の霊力の炎――蒼き狐火。
白雪が吐き出したのは、視界を青一色に染めるほどの巨大な蒼炎の塊だった。
唸りを上げて放たれた青い火球は、回避しようともしない赤鬼の巨体を真正面から飲み込んだ。
凄まじい衝撃音が洞窟を震わせた。
高密度の霊力を伴った狐火は、単なる熱エネルギーの放射ではない。
もはや物理的な破壊力を伴う砲弾だ。
直撃を受けた赤鬼の巨体が、爆炎の中に消えた。
「今だッ!!」
その隙を、歴戦のタンクである坂下は見逃さなかった。
彼はひしゃげた大盾を捨て、壁際に叩きつけられた相棒――浅葉の元へ駆け寄る。
「浅葉!」
坂下は血まみれで倒れている浅葉を担ぎ上げる。
浅葉の意識は朦朧としている。
口から溢れる泡混じりの血が、傷の深さを物語っている。
「こっちです! 物陰へ!」
みーちゃんが岩陰から手招きをする。
坂下は浅葉を担いだまま駆け寄り、比較的安全な岩の裏へと滑り込んだ。
彼は浅葉を丁寧に地面に横たえると、悲痛な面持ちでみーちゃんを見上げた。
「頼む……! なんとかできるか!」
「任せてください!」
みーちゃんは即座に杖をかざした。
震える手で、しかし迷いのない動作で魔術を行使する。
「『ハイ・ヒール』!」
柔らかな光が浅葉の身体を包み込む。
陥没していた胸部に仄かに光が灯る。
だが、みーちゃんの顔色は優れない。
出血量が多すぎるのだ。
「死なないで、浅葉さん! 止血……急がないと!」
坂下は懐から取り出したポーションの瓶を開け、浅葉の口へと流し込む。
浅葉を救うための戦いが始まっていた。
***
一方でリナは厳しい表情をしていた。
広場の奥、赤鬼が激突した岩盤のあたりは、青い炎ともうもうと立ち込める水蒸気で視界が遮られていた。
白雪の本気の攻撃。
以前の鬼なら一瞬で消し炭になった攻撃だ。
無事では済まないはず――。
だが。
ゆらり。
青い炎が揺らめき、晴れていく。
その中から現れた異形の姿に、リナは息を呑んだ。
「グルルルル……」
喉を鳴らす低い音が響く。
そこに立っていたのは、炭になった死体ではなかった。
全身が、さらに赤く、眩く発光している鬼だった。
白雪の蒼炎を受けた皮膚は、まるで炉から取り出したばかりの鉄塊のように「赤熱」し、恐ろしいほどの熱気を放射している。
焼けるどころか、炎の熱をすべて自らのエネルギーとして取り込んでしまったのだ。
『キュ……!?』
白雪が驚愕し、たじろぐようにリナの首筋に身を寄せた。
自分の最強の攻撃が通用しない。
(どうすればいい……!)
リナの額から冷や汗が流れ落ちる。
狐火や得意の火魔術は、あの耐性に阻まれるどころか、エネルギー源にされてしまう。
なら、物理で砕くしかない。
「ふぅぅぅッ……!」
リナは短く呼気を吐き出し、覚悟を決めた。
魔術師である自分が前衛に出るのは悪手だが、今はそれしか選択肢がない。
ドンッ!
リナは爆発的な脚力で地面を蹴った。
残像を残すほどの高速移動。
真正面からの魔術戦と思わせていた直後の急接近に、赤鬼の反応が一瞬遅れる。
懐に入った。
間合いはゼロ。
「せいッ!!」
リナは回転の勢いを乗せた回し蹴りを、鬼の膝関節へと叩き込んだ。
人体構造上の弱点。膝を砕けば、その巨体は支えを失うはず――。
ドゴォッ!!
重い打撃音が響く。
だが、リナの表情が歪んだのは苦痛からだった。
「硬っ……!?」
砕けない。
まるで分厚い鉄骨を素足で蹴り抜いたかのような反動が、リナの足の骨を軋ませる。
それだけではない。
ジュウッ!
ブーツの底が溶ける音がした。
赤熱した鬼の皮膚は、触れるものすべてを焼き尽くす攻防一体の鎧と化していたのだ。
「グルァ!!」
赤鬼が咆哮と共に、丸太のような腕を薙ぎ払う。
速い。
リナは紙一重でバックステップを踏み、直撃を避ける。
だが、かわしたはずの拳が巻き起こした「熱風」と「衝撃波」だけで、リナの華奢な体は枯れ葉のように吹き飛ばされた。
「くっ……!」
泥水の上を転がり、受け身をとってどうにか立ち上がる。
蹴った右足が痺れて感覚がない。
ブーツの底はドロドロに溶け、足裏に火傷の痛みが走る。
(ダメだ……近接戦闘も長時間繰り返せばこっちが先に参っちゃう)
リナは唇を噛み締めた。
硬すぎて打撃が通らない。
熱すぎて触れることすらリスクになる。
唯一の勝機があるとすれば、一点特化の集中火力で、防御ごと鬼を一撃で屠ること。
だが、今の攻防ではっきりした。
この赤鬼、巨体に似合わず反応速度が異常に速い。
大振りの攻撃を当てるための数秒の溜めも、隙も、今の戦況にはどこにも存在しないのだ。
得意の火魔術は吸収される。
物理は弾かれる。
一撃必殺の技は当たる保証がない。
前衛の坂下もみーちゃんも、今は手負いの浅葉を守るため動けない。
だが、自分で何とかするしかない。
「坂下さんッ!みーちゃん、浅葉さんをお願い。こっちは何とかしてみる!」
リナが叫ぶ。
赤鬼が、ゆっくりと、しかし確実な殺意を持ってリナの方へ首を巡らせた。
金色の瞳が、リナを捉える。
ニィ、と裂けた口元が三日月のように歪んだ。
全身を赤熱させ、熱気を纏った猛獣の笑みだ。
ブンッ。
金棒が風を切り、振り上げられる。
速い。
巨体に見合わぬ神速の予備動作。
回避できるか?
いや、衝撃波だけで吹き飛ばされる――!
その時だった。
「くらえ! デカブツ!」
凛とした声が響いた。
同時に、赤鬼の視界を遮るように、何かが飛び込んできた。
「リナ! 手が離せないから! アシストだけ!」
音を唸らせて突っ込んできたのは、みーちゃんの配信ドローンだった。
彼女にとって、ドローンは商売道具であり、魂であり、もう一人の相棒だ。
その大切な機体を、彼女は躊躇なく特攻させた。
「グルァッ!?」
目の前を飛び回る羽虫に、赤鬼が反射的に反応する。
振り下ろされようとしていた金棒の軌道が、わずかにブレた。
鬱陶しそうにドローンを払いのけようと、視線が逸れる。
ほんの一瞬。
瞬きするほどの、わずかな隙。
「リナッ! 今ッ!!」
みーちゃんの叫びが、リナに突き刺さる。
(――行ける!)
リナは思考を切り捨てた。
恐怖も、迷いも、全てを置き去りにして、地面を蹴る。
『隠形の狐面』の効果で、リナの存在感が希薄になる。
ドローンに気を取られた赤鬼の認識から、一瞬だけ「敵」としてのリナが消える。
一歩、二歩。
泥を跳ね上げ、懐へ飛び込む。
目の前には、鋼鉄のような筋肉の壁。
魔法は効かない。
生半可な打撃も通じない。
なら、どうする?
脳裏に、叔父・湊の気だるげな声が蘇る。
『いいかリナ。純粋に拳で壊そうとするのは素人のやることだ』
『霊力は威力の底上げだけじゃない、鋭く尖らせれば刃にもなる』
『霊力を練れ。それを刃のように集中させるんだ』
腰を落とし、全身のバネを右手の指先に集約させる。
赤鬼が気づく。
足元に現れた小娘に。
だが、遅い。
「――フラッシュ!!」
リナは、閃光魔術を炸裂させた。
殺傷能力はない。
だが、至近距離での強烈な目眩まし。
赤鬼が目をくらませ、のけぞる。
その無防備な胸元へ。
筋肉の継ぎ目、肋骨の隙間、その奥にある一番濃い汚れの芯、「核」へ向けて。
リナは渾身の力を込め、右手を突き出した。
「そこぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
――貫き手。
それは武術の技でありながら、湊が教え込んだ「退魔」の技でもあった。
指先に圧縮された純粋な霊力が刃となって、物理的な防御を無視して、赤鬼の体内へと浸透する。
ズプッ。
硬いはずの皮膚を、リナの手が深々と貫いていた。
いや、貫いたのは肉体だけではない。
その内側にある、呪力の奔流。
そして根源でもある呪いを纏った魔石だ。
バキィッ!!
体内で、何かが砕ける感触が手に伝わる。
「ガ、ア……ッ!?」
赤鬼の動きが止まった。
振り上げられた金棒が、空中で静止する。
見開かれた金色の瞳から、光が失われていく。
直後。
赤鬼の胸の傷口から、強烈な光が漏れ出した。
ピシッ、ピシピシッ……!
ひび割れる音が響き渡り、巨体全体に光の亀裂が走る。
もはや悲鳴を上げる間もなかった。
内側から崩壊した赤鬼は、砂上の楼閣のようにサラサラと崩れ落ちた。
後には、ただの灰と、握り拳ほどの大きさのどす黒い魔石だけが残された。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
リナはその場に膝をついた。
全身から力が抜け、指先が痙攣している。
今の攻撃に、今練れる霊力の全てを注ぎ込んだのだ。
立っていることさえやっとだった。
『キュ……』
肩に乗っていた白雪もまた、限界を迎えていた。
弱々しい鳴き声を残し、ふわりと光の粒子となって消滅する。
リナの髪に挿された簪に戻ったのだ。
「リナ……! 大丈夫!?」
みーちゃんが駆け寄ってくる。
彼女もまた、顔面蒼白で足元がおぼつかない。
度重なる治癒魔術の行使で、魔力枯渇寸前のようだった。
「浅葉さんは……? 大丈夫そう?」
「うん、なんとか、一命は取り留めたよ。それにしても凄い! イレギュラーを倒しちゃうなんて!」
みーちゃんが涙目でリナを抱きしめる。
その温もりに触れて、ようやくリナの中に安堵が広がった。
終わった。
生き延びた。
坂下も、壁際で浅葉を介抱している。
浅葉も、みーちゃんの治療のおかげで呼吸は安定しているようだ。
この地獄のような状況を、自分たちの力で切り抜けたのだ。
「帰ろう……みーちゃん。試験は諦めよう」
「うん、うん……!」
二人は互いに支え合いながら、立ち上がろうとした。
だが。
カラン……。
乾いた音が、静寂を取り戻した広場に響いた。
「え?」
リナが視線を落とす。
足元に、何かが転がってきた。
赤鬼の残骸の中からではない。
どこか別の場所から、誰かが意図的に投げ入れたようなタイミングで。
それは、掌サイズの金属球だった。
表面には幾何学的な紋様が刻まれ、内部から不気味な紫色の光を放っている。
「なに、これ……?」
みーちゃんが怪訝そうに呟いた、その瞬間。
カッッ!!
金属球が展開し、複雑怪奇な魔術式を空中に投影した。
それはリナが見たこともない、現代魔術の体系とは異なる術式だった。
(魔術式……!?)
リナの直感が、最大級の警報を鳴らす。
これは攻撃魔法ではない。
もっと別の、強制的な何か。
「みーちゃん、離れてッ!!」
リナは咄嗟にみーちゃんを突き飛ばした。
直後、魔術式から噴出した光の柱が、リナだけを飲み込んだ。
「きゃぁっ!?」
突き飛ばされたみーちゃんが、尻餅をつきながら振り返る。
そこには、紫色の光に包まれ、空間ごとねじ曲げられようとしている親友の姿があった。
「リナッ!!」
「みーちゃ――」
リナが手を伸ばす。
だが、その手はみーちゃんには届かない。
空間転移トラップ。
敵が仕掛けた、本命の罠。
赤鬼という脅威と闘わせ、油断した瞬間を狙った最悪のタイミングでの発動。
空気を巻き込む音と共に、光の柱が収束し、消滅した。
そこには、誰もいなかった。
リナの姿も。
転がってきた金属球も。
そして、リナの近くを浮遊していた撮影ドローンさえも。
すべてが、跡形もなく消え去っていた。
「……リナ?」
みーちゃんの震える声が、虚しく反響する。
「嘘……でしょ……?」
残されたのは、二人の男と、魔力が尽きた一人の少女。
そして、絶望的な静寂だけだった。
リナが連れ去られた。
本当の悪夢は、ここから始まろうとしていた。