一人の腐女子が彼らを救った話
今日がバレンタインデーなので、甘くてビターでチョコレートのように濃厚な話も書きました。
安心安全なオールハッピーエンドです。
理解したと同時に深く絶望したのは、ヒューが十六才になった秋のことだった。
ヒュー・レンバー・ダグラスはさる貴族の年の離れた末っ子である。
彼は幼い頃から絵を描くことが好きだった。
美術以外の――数学も歴史も弁論術も外国語も壊滅的な成績だったが、彼の家族も、スクールの教師達でさえも、『もっと気合いを入れて勉強するように!』と彼に無理強いすることは出来なかった。
「色の捉え方が我々とは全く違う。彼は天才と呼ぶべきでしょう」
そのスクールの美術教師は外国に留学した経験もある実力者だったのだが、当時十四才のヒューの描いた水彩画を見た瞬間に、思わず唸った。
正に当時は、異国からもたらされた全く新しい絵画の旋風が美術界を席巻していたのだが、この少年もまた、その次代の美術界の担い手となるべき萌芽であることは間違いない――美術教師は彼の両親にも、熱心にそう語った。
幸いにも、彼の両親は何人かの若い芸術家のパトロンをしているような富裕な貴族であった。
跡取りである長男は国の外交官として働いていて、領地を任せている次男も喘息がちではあるものの着実に仕事はこなすし、間もなく他家へ嫁ぐ娘達も健在である。
ヒュー一人を芸術の盛んな外国へ留学させることくらい、何の問題も無かった。
「もしかしたらあの子は美術史に名を残すかも知れませんわ。今からあの子の絵は大事にすべきでしょう?」
長女なんてちゃっかりとしたことを言い出す始末だった。
ヒューは嬉しかった。
家族に何度も礼を言った。
こんなにも理解のある家族に報いたくて、必ず芸術家として大成すると子供心に誓った。
ただし、外国に留学するにあたっては、必ず国の推薦状と許可を貰った上で、彼の苦手な外国語の試験を突破しなければならない。
彼は泣く泣く家庭教師に付いて外国語を徹底的に修め、辛うじて及第点を取った。
その後は長兄の働きかけで無事に推薦状と許可が下り、彼は十六才の時に一人で国境を越えたのだった。
**********
外国の美術学校に入学したヒューを待っていたのは、最先端の芸術の世界と、先輩達からの古びた『しごき』の数々であった。
彼は下らない『しごき』には負けなかった。
じっと耐えたり、時にはやり返したりしている内に――折々に届く家族からの手紙と、彼を絶え間なく驚かせる数多の芸術作品達が、彼の技術と感性を確実に育んでいった。
そして彼の人生を決定づけた、素晴らしい美術教師と、彼は外国に来て二年目に出会う。
古典的な美術界とは対立しているものの、新進気鋭の画家達からは熱狂的な支持を得ている若き天才画家オッタヴィアン。
その彼が知人の伝手で期間限定の臨時の教師となって、ヒュー達の目の前の教壇に立ったのだ。
「私がこんなことを語ると諸君らは驚くだろうが、諸君らは従来の伝統的な絵画の基礎基本の画法を完璧に、最初に履修するべきだ」
その言葉から始まったオッタヴィアンの授業は、旋風が木の葉を空へとさらっていくがごとく、ヒューの心を奪ったのだ。
ヒューは徹底的に絵画の基礎基本をやり直した。
分厚いスケッチブックと『失敗作』が彼のアパートの一室に山のごとく積み上がっていった。
その日は、秋の豊穣祭の日だった。
他の生徒全員が街に遊びに繰り出してしまったのに、ただ一人、鬼気迫る顔でヒューが石膏像のデッサンをしていたので、学校を閉めるために見回りに来たオッタヴィアンは驚いた。
「君、そんなに無理をしたらいけないよ!」
そう言いながら、彼のデッサンを覗いたオッタヴィアンは驚く。
確かに人一倍に熱心な生徒だった。
けれど、この短期間にここまで力を付けているなんて。
「……君、ここはこうした方が適切だ。けれどね、この描き方も決して悪くは無いね」
オッタヴィアンが木炭を手に少し修正すると、ヒューはたどたどしい言葉で、
「センセイ、アリガトウゴザイマス」
とはにかんで言った。
彼の顔は、木炭で汚れた手で散々こすった所為で真っ黒だったのに、オッタヴィアンにとっては天使のように見えた。
そのまま二人はお互いを見つめ合っていた。
言葉なんて要らないくらいに、お互いの瞳が全てを語っていた。
憧れが恋になっていた。
驚きが恋になっていた。
どちらからともなく唇を重ねようとしたが――その直前にオッタヴィアンが我に返った。
「駄目だ、これは駄目なんだ。どうか許してくれ……!」
美術教師は、生徒にすぐにアパートへ帰るように震える声で告げた。
――ヒューは理解した。
元々、そんな気がしていた。
しかし現実として彼は許されない人間だったし、この思慕さえも許されぬものだった。
家族のためにも、彼自身のためにも、何よりオッタヴィアンのためにも、彼は深く深く絶望しなければならなかったのだ。
その年の冬が来る前に、オッタヴィアンは美術教師を辞めていった。
**********
ヒューが二十歳の時にコンクールに出した油絵の評価は、真っ二つに割れた。
「これこそが新たな芸術の息吹である!」と主張する側と、
「伝統的な色彩と構造の破壊だ!」と主張する側と。
面白いことに、揉めに揉めた挙げ句、ヒューが外国のスパイだと主張するゴシップ記事まで出てきた。
結局。
ヒューの出した油絵はコンクールで銅賞を受賞した。
死ぬまでコンクールに出しても何も賞を貰えない画家が珍しくない中、彼は間違いなく――芸術の国の画壇に、若手画家として実力があると鮮烈に認めさせたのだった。
彼の家族はとても喜んで、すぐに帰国を勧めたが、ヒューは『各地の風景画のスケッチをしたいから』と断って、大陸各地を旅した。
美しい朝焼けの山脈、青い海、白い街並み、賑やかに行き交う人々の雑踏、古くからの伝統的な建築物、荒涼とした原野、雨の中の森、畑で働く人々……。
――足がけ三年に渡る旅をした後、彼は帰国した。
そこで彼は、いつの間にか己に婚約者が定まっていたことを知るのだった。
「ヒュー、お前も立派になった。後は家庭を持って私達を安心させておくれ」
違う!
違うんです!
僕は、それを理解したと同時にどうしようもなく絶望したのです。
しかし、ヒューは喉元まで出かかった言葉を飲み下すしか無かった。
両親にも、兄達にも何の悪意は無い。
だからこそ、ヒューの心の一番臆病な所を容赦なく抉ってきた。
彼らが決して想像できない、この深淵の絶望を抱えている己が全面的に悪いのだ。
――あの時、接吻することを拒んだオッタヴィアンもきっとこのくらい絶望していたに違いない。
ヒューはどうにかして断ろうと思った。
一度だけ彼女と会って、画業に専念したいから貴女と結婚することは無理だ、と――。
**********
「助けて下さい」
けれども、庭園で見合いをした彼女――メアリはヒューに泣いて頼むのだ。
「私、結婚したくないのです。殿方が怖くて、どうしようも無くて……」
泣きじゃくる彼女を落ち着かせて話を聞けば、幼い頃に従兄に『悪戯』されてから、家族でさえ『男性』が怖くてたまらず、同じ部屋にいるだけで体の震えが止まらないのだと……。
「私に出来ることなら何でもしますから、どうか結婚だけは……!」
ヒューはすっかり彼女に同情してしまった。
こんなにもか弱い少女が勇気を振り絞って、己に辛い過去を打ち明けてくれたのだ。
彼は少し考えてから、目元をハンカチで押さえ、青い顔で震えているメアリに言った。
「実は……私には愛する人がいるのだ。私達の関係を許してくれるのなら、必ず君の自由と尊厳を私も守ろう」
メアリはゆっくりとハンカチを顔から離して、瞬きした。
「……宜しい、のですか?」
「宜しいも何も。どうか運命共同体――いや、私の共犯者となってはくれないだろうか」
まあ、とメアリは楽しそうに笑って、言葉を繰り返した。
「運命共同体で共犯者。――ええ、喜んでお受けいたしますわ!」
――花嫁のベールをめくって『触れぬ接吻』をした夜に、ヒューはオッタヴィアンに向けて手紙を書いた。
二週間後にオッタヴィアンはヒューのアトリエ付きの家にやって来て、応接間で帽子を脱いだ。
「……本当に良いのか?」
オッタヴィアンの瞳は、不安なのか大きく開いていた。
「メアリほど素晴らしい理解者はいません。ですから、私も最大限に彼女を尊重します」
ヒューはドア越しに様子を見守るメアリに微笑みを向けて、メアリも安堵したように小さく頷いた。
「ねえ、旦那様。オッタヴィアン様は何て仰っているの?」
「メアリが気にしないかって、怖がっているんだよ」
「でしたら……私、気にしない代わりに、一つだけお願いがありますのよ」
「何だい、メアリ?」
それは可愛い妹に向けるのと同じくらいに優しい声だった。
「旦那様もご存じの通り、私、読書と物語を考えるのが好きですの。……実は、隠れて草稿も書いていますの。でも、女が物語を書いても全く相手にされないでしょう?ですから私、出版社への伝手と男の名義が欲しいのですわ」
勿論だ、とヒューは頷いた。
「メアリが僕の理解者になってくれたように、僕も君の大事な『物語』を最大限に理解したい。原稿は何処だい?僕は文学においては素人だけれど、読みたくなってきたよ」
するとメアリは頬を赤らめて、さっとドアの向こうに隠れてしまった。
「い、今は駄目ですわ!まだあくまでも草稿で、清書していませんのよ!でも……その後でしたら、是非に……」
それから、一年の内の数ヶ月を、オッタヴィアンはヒューの家に泊まって過ごすようになった。
二人がその生涯において共同制作で幾つかの美術史に残る大作を仕上げたことから、仲の良い師弟なのだと外では思われていたし、それはあながち嘘でも無い。
ただし。
今日もこっそりと――いつまで経っても何処か初々しい二人の関係に心の中で煩悶するのは――男のペンネームを借りて流行作家となったメアリだけに許された『特権』である。
めでたし、めでたし。