どきどき、初体験(1/3)
田んぼに入って汚れてしまった体を清めるため、私は館の沐浴場へ行くことにした。
「侍女を呼んでくる。少し待っていろ」
付き添ってくれた残月様が建物のほうへ去っていく。体くらい自分で洗えるけれど……。
一人で残され、手持ち無沙汰になった私は、何気なく湯桶の中に手を入れてみた。すでに水は張ってあるけれど、水温は高いとはいえない。
ふと思い立ち、私は残月様からいただいたばかりの翡翠のかんざしを髪から引き抜いた。
「水よ、湯に変われ」
確か、こんなふうに唱えるんだったわよね?
見よう見まねで霊力を使ってみる。ドキドキしながら水に手を浸した。
けれど、水はわずかにぬるくなっただけで、まだまだ湯にはほど遠い温度だ。これは失敗ね。
でも、思ったほどは気落ちしなかった。
想像とは違ったけれど、水の温度が少し上がったのは事実だ。地味でも肌で実感できる変化が起きたのは喜ばしいことである。霊力を日常の細々としたことに使うなんて、ますます神域の住民に近づいたみたいだわ!
一人ではしゃいでいると、侍女の小雪さんがやって来た。小雪さんは湯桶に手を浸けて温度を確かめると、自分の翡翠のかんざしを口元に当てて「小雪の名において命じる。水よ、湯に変われ」と唱えた。
すると、水からはホカホカとした湯気が立ってくる。やっぱり慣れている人は違うわ。私ももっと霊力を使う練習、したほうがいいかしら?
小雪さんの手を借りて服を脱ぎ、温かい湯に浸かる。手足をゆったり伸ばしていると、小雪さんが興味津々な顔で話しかけてきた。
「聞きましたよ、奥方様。亡名者に名前を教えてあげたんですって?」
小雪さんの目はキラキラと輝いていた。
「そんなこと、今まで誰にもできなかったのに……! すごいじゃないですか!」
「それほどでもないですよ」
どこかくすぐったい気分ではにかむ。この私が功績を認められているなんて! 無能の証の笞なら嫌というほど味わったことがあるけれど、能力を褒められるのはいつぶりかしら!
「謙遜なさらないでください。奥方様の噂はあっという間に広がりますよ。亡名者には特有の情報網があるそうですから。今回の出来事を知った亡命者たちが、奥方様を放っておくはずがありません。絶対にここへ押し寄せてくるに決まっています!」
「そう……なのですか?」
意外なことを聞かされ、不安な気持ちに胸が重くなる。
「私はまだ自分の名前すら見つけられていません。頼られても期待に応えられるかどうか……」
「大丈夫ですよ。力はそれを使いこなせない人に与えられることはないんです。奥方様ならできますって!」
小雪さんは気楽な調子で言って、私の頭の上からざぶりと湯をかけた。髪についた泥を落としてもらいながら、私は大きく息を吐き出す。
そうね。やる前から心配していてもしょうがないわ。きっと何とかなるはず。だって私は……残月様の花嫁なのだから。
みそぎと着替えを済ませた私は、建物の中で待つ残月様のもとへ向かった。
「また倒れてしまっては困るからな」
そう言って、残月様は私を膝の上に乗せた。こちらを心配する気持ちは本物だろうけど、それと同じくらいには私と触れ合いたいと思っているのかもしれない。そう思うと、少し胸が高鳴った。
「では、始めようか。遠見を使ってお前の名前を見られるか確かめてみよう」
残月様の言葉で、この状況を楽しんでばかりもいられないと思い、私は背筋を伸ばした。こうして残月様に手伝ってもらっているのは、私の名前を知るためなのだ。もし上手くいかなければ、私は八日後に消えてしまう。
けれど、遠見ってどうすればできるの?
そんな単純な疑問が湧いてきて、私は固まった。先ほど田んぼで亡名者の過去を見たのは、無意識の内にやったことだ。
あの時も思ったことだが、どうすればまた同じことができるのか、さっぱり分からなかった。
私が戸惑っていると、「どうした」と残月様が声をかけてきた。
「その……どうすれば遠見ができるのか分からなくて……」
気まずかったけれど、正直に認めた。残月様は「やはりそうか」と肩を竦めた。
「思ったとおり、まれびとは遠見の力を自由に操れるわけではないようだな。何の前触れもなく発動してしまうか、誰かの強い感情に誘発される形で顕現するのだろう」
「そうですか……」
つまり、私は自在に霊力を操ることもできないダメな人間ということ? これじゃあ、どんなに強力な能力を持っていても意味がないじゃない!
亡名者の名前を見つけたことで、せっかく私にも誰かの役に立てる力があるんだと思えるようになったばかりなのに、これでは無能な小娘に逆戻りだ。残月様もさぞかしガッカリなさっているに違いない。
期待外れと思われ、残月様に疎まれてしまったらどうしよう。
そんな不安に苛まれ、私はすっかりうろたえてしまった。何か手を打たなければ、すぐにでも神域から追い出されてしまうかもしれない。
「名前は見つけられませんでしたが、こうして残月様と触れ合えたことは喜ばしく思います」
ろくな手段を思いつかなかった私は、手っ取り早く媚びを売ることにした。体を動かし、残月様の胸元にすり寄る。
「まあ、初めから遠見で名を見つけるのは難しいだろうと分かっていたしな」
残月様が私の背中を慰めるように撫でる。彼の声はとても優しかった。
「それに、期限まであと八日もあるのだ。お前は何も心配しなくていい。朔の日でも月はそこにある。ただ見えないだけで、な。まれびとの名前も、今はただ隠れているだけだ」
「その隠れた名を見つけるためには、地道な手段を取るしかないようですね」
私は残月様の胸に頬を寄せて呟いた。媚びるためにしたことだったけれど、こうして彼に触れていると落ち着いた気分になる。
でも、名前を見つけるためには、いつまでもこんなことをしているわけにはいかない。私は名残惜しい気持ちを振り切って残月様から離れた。
「また神域の住民たちに話を聞きつつ、名前を探しにいこうと思います。……残月様もご一緒にどうですか?」
何となく離れがたく思って、そう聞いてみる。残月様は口元を緩めた。
「もちろん付き合おう。大切な妻と過ごす一時、手放すのは惜しいからな」
残月様なら私が頼まなくても着いてきそうな気がしたけれど、彼の言葉の節々に垣間見える愛情にほっとした。不出来な妻ではあるけれど、残月様はまだ私に価値を見出してくれているんだ。
こうして、私と残月様は館をあとにしたのだった。