第8話「廊下の先」
「帝都での公務は、ひとまず区切りがつく」
レナードがそう言ったのは、茶会の翌々日の夜だった。
客館の小部屋。いつもの時間。私が淹れた茶を受け取り、一口含んでから、彼は杯を膝の上に置いた。
茶会の後、帝都の空気は目に見えて変わっていた。宰相府の内部では、私の薬事法提言が正式に法案の骨子に採用されることが決まった。法務官が書面で通知してきた。「帝国公認辺境薬草顧問の提言に基づき、薬草茶の品質基準・効能分類・安全管理に関する法案骨子を策定する」と記されていた。
社交界の空気も変わった。ハインツが教えてくれたところによれば、茶会で「平民が宮廷茶会に」と囁いていた夫人たちの態度が急速に変わったという。皇帝が「これは良い」と声に出して認めた茶を中傷すれば、それは皇帝の判断を否定することになる。夫人たちの夫——宰相府や宮廷と関わりのある貴族たちが、妻を諌めたらしい。宰相府との関係悪化を恐れてのことだった。
中傷は止んだ。止んだのであって、消えたわけではないだろう。けれど、声に出して言う者はいなくなった。
そしてフリードリヒ侍従長。ハインツの報告では、茶会の後、宮廷内で侍従長の立場が急速に苦しくなっているという。皇帝が直接許可した茶会への出席を、事前に妨害しようとした経緯が問題視されている。面会申請の保留、客館の下階制限。それらが「皇帝の意に反する行為」として、宮廷の中で静かに、しかし確実に評価を下げていた。
その日の昼、客館の廊下ですれ違った。
角を曲がったところで、フリードリヒが向こうから歩いてきた。外套に侍従長の紋章はなかった。紋章のあった位置の布地だけが、周囲よりわずかに色が濃い。日に焼けていない布の跡だった。
以前の硬い表情ではなかった。疲れた顔だった。頬のあたりに陰が落ちていて、背筋は真っ直ぐだったが、足取りには茶会の日にあった速さがなかった。
私と目が合った。
一瞬、足が止まった。彼の方が先に止まり、私もつられて止まった。
何か言葉が来るかと思った。けれど、フリードリヒは何も言わなかった。ただ、軽く頭を下げた。事務的な会釈ではなかった。初めて客館で会った時の冷ややかな一礼とも違った。言葉にならないものを飲み込んだような、静かな動きだった。
私も頭を下げた。
それだけだった。
フリードリヒは私の脇を通り過ぎ、廊下の向こうへ歩いていった。足音が遠ざかり、角を曲がって消えた。
侍従長の職を辞すことが内定した、とハインツは声を低くして言っていた。皇帝の人事権限による解任と降格。正式な発表はまだだが、宮廷の人事局では既に手続きが進んでいると。
私はその報告を聞いて、何も言わなかった。
フリードリヒ侍従長は、悪意で動いた人ではないと思う。身分と前例に基づく秩序を信じていた人だ。平民が宮廷に出入りすることを、秩序への脅威と捉えた。その判断は、彼の立場と信条からすれば一貫していた。
けれど、皇帝の意志が別の方向を向いた時、その一貫性は意味を失った。
廊下ですれ違った時、紋章のない外套を見た。あの空白が、制度の中で生きた人間が制度によって退く姿だった。
私が望んだ結果ではない。私が求めたのは、権力で道を開かないことだった。結果として道が開かれたのは、茶の実力と侍医の報告と皇帝の判断によるものだ。侍従長の退場もまた、私の意志ではなく、宮廷の制度が動いた結果だった。
レナードが茶を飲み終え、杯を机に置いた。
「辺境に戻る前に、一つ話がある」
私は椅子に座ったまま、彼の顔を見た。
レナードの表情は穏やかだった。けれど、目の奥に緊張があった。宰相として帝国を動かす時の緊張ではない。もっと個人的な、静かな緊張。
「婚姻の話だ」
心臓が一度、強く打った。
「皇帝陛下への承認申請を出す準備が整った。帝国法の手続きに従い、議会への事前通達と三十日の異議申立て期間を経て、陛下が最終裁定を下される。異議は侯爵級以上の貴族が提出できる」
レナードは淡々と説明した。制度の話をしている時の声だった。けれど、指先が膝の上で微かに動いていた。
「手続きは全て整えた。法的に不備はない。平民との婚姻は帝国法で禁じられてはいない。前例がないだけだ」
「前例がない」
私は繰り返した。この帝都に来てから、何度聞いた言葉だろう。前例がない。侍従長が面会申請を保留にした理由も、茶会の出席を問題視した理由も、全て「前例がない」だった。
「ただし」
レナードの声が、少し変わった。制度の声から、個人の声に。
「あなたの同意なしには動かない。全ての準備が整っていても、あなたが望まなければ、申請は出さない」
私は黙った。
嬉しい、と思った。
同時に、怖い、と思った。
宰相の伴侶になるということは、帝都の社交界に身を置くことを意味する。茶会で認められたとはいえ、平民であることは変わらない。議会で異議が出るかもしれない。レナードの政治的立場に影響するかもしれない。
けれど、それは三年前の恐れとは違う。
三年前は、全てを失うことが怖かった。今は、この人に負担をかけることが怖い。質が違う恐れだ。そして、その恐れの質が変わったこと自体が、三年間で私が変わった証拠でもあった。
「翠風堂は」
声に出したのは、最初に浮かんだ言葉だった。
レナードが静かに答えた。
「翠風堂を閉じろとは言わない。あなたの居場所を奪うつもりはない」
「帝都と辺境を行き来する形になる」
「そうなる。二拠点になる。それは簡単なことではない。けれど、あなたの仕事と、私の隣にいることを、両立させる形を作りたい」
私はレナードの顔を見た。
この人は制度で全てを整えようとする。法律と手続きと前例の中に道を作り、その道の上に私を迎えようとしている。不器用だと思う。感情を言葉にするのが苦手で、代わりに制度を整えることで気持ちを伝えようとする人。
けれど、その不器用さが信頼できる。
翠風堂を奪わないと言った。それは、私が何者であるかを理解しているということだ。茶を作る人間であることを。工房主であることを。それを手放させない形で隣に立てると、この人は考えている。
「翠風堂を続けられるなら」
私は言った。
レナードの目が、わずかに揺れた。
「当然です」
「リーゼルがいるから、工房は回る。帝都にいる間も、薬草の手配と品質管理は書簡でできる。帳簿の最終確認は戻った時にすればいい」
自分で言いながら、もう頭が動き始めていた。二拠点の運営計画。帝都滞在中の翠風堂の管理体制。リーゼルへの引き継ぎ範囲の拡大。
レナードが少し笑った。小さな、けれど確かな笑み。
「きみは、返事の前に実務を考えるんだな」
「実務が成り立たなければ、返事はできない」
「それは、成り立つなら返事をするという意味か」
私は口を閉じた。
そして、一つ息を吸った。
「……はい」
短い言葉だった。
けれど、その一語に三年間の全てが入っていた。断罪された日。一人で歩いた辺境の道。翠風堂の竈に初めて火を入れた朝。リーゼルが来た日。村長が笑った日。レナードが初めて茶を飲んだ日。書簡の束。手を重ねた夜。石畳の音。皇帝の前で茶を淹れた日。
全部が、この一語の中にあった。
レナードは何も言わなかった。ただ、深く頷いた。
しばらく、二人とも黙っていた。客館の小部屋に、夜の静けさが満ちていた。窓の外に帝都の灯りが点々と光っている。
「おやすみなさい、ヴィオレッタ」
「おやすみなさい、レナード」
戸が閉まった後、私は机の上の杯を片付けた。
二つの杯。いつもと同じ。
けれど今夜は、その二つの杯が並んでいることの意味が、少しだけ変わった気がした。