第2話「議場の名前」
「ヴィオレッタ殿、お着きですか」
ハインツの声が、客館の廊下に響いた。
帝都に着いたのは昨日の夕方だった。宰相府の客館は前回と同じ部屋が用意されていた。窓の位置も、机の配置も、壁にかかった燭台の数も変わっていない。変わったのは、机の上に積まれた書類の束だった。薬事法の法案草稿。宰相府の法務官が作成した条文案と、私の調合日誌からの引用箇所の一覧。
荷を解く前に、まずハインツからの書簡を読み返した。
「議会でお名前が取り沙汰されています」。
その一文の意味を、今日、直接聞く。
ハインツが部屋の前に立っていた。護衛騎士の正装。剣を帯び、背筋が伸びている。けれど目元は穏やかだった。
「お入りください」
ハインツが部屋に入り、扉を閉めた。
「書簡でお伝えした件について、詳しくご説明します」
椅子を勧めたが、ハインツは立ったまま話し始めた。
「婚姻承認の事前通達が議会に届いた翌日から、貴族院で議論が始まっています。まだ正式な異議は出ていません。ですが、ゲオルク・ヴェルデン侯爵が貴族院の会合で『重大な懸念がある』と発言しました」
「ゲオルク侯爵」
聞いたことのない名前だった。
「保守派の重鎮です。侯爵級十二家の中でも、帝国の伝統的秩序を重んじる方として知られています。宰相閣下とは公務上の面識がおありですが、政治的な立場は異なります」
「その方が、婚姻に懸念を示している」
「はい。具体的な異議の内容はまだ公にされていませんが、宮廷内では『平民を宰相の伴侶に据えることへの反対』と受け止められています」
私は窓の外に目を向けた。帝都の屋根が朝日に照らされている。前回この窓から見た景色と同じだった。
「ハインツさん。ありがとうございます」
「お役に立てれば」
ハインツが一礼して部屋を出た。
午後、レナードが客館を訪れた。
宰相の正装だった。紋章のついた外套。翠風堂で見る姿とは違う。この人が帝都では宰相であることを、その装いが静かに示していた。
「到着は昨日だと聞いた。旅の疲れは」
「大丈夫です。それより」
私は机の上の法案草稿に手を置いた。
「薬事法の仕事に入る前に、一つ聞きたいことがあります」
レナードが椅子に腰を下ろした。前回と同じ椅子。この部屋にも、彼の定位置ができつつある。
「ゲオルク侯爵のことですね」
「ハインツさんから聞きました。貴族院で、婚姻に対する懸念が表明されたと」
レナードは頷いた。
「ゲオルク・ヴェルデン侯爵。四十八歳。保守派の中心人物です。帝国の伝統的な秩序を守ることに強い信念を持っている。悪意のある人物ではありません。ただ、平民が宰相の伴侶となることは帝国の前例にないことであり、侯爵はそれを秩序への脅威と捉えています」
「正式な異議は」
「まだ出ていません。ですが、準備を進めていると見ています」
レナードの声は落ち着いていた。想定の範囲内だという顔だった。
「議会のことは私が対応します。きみは薬事法の仕事に集中してほしい」
その言葉を聞いた時、胸の奥で小さな引っかかりが生まれた。
「レナード」
二人きりの部屋だった。呼び方は、翠風堂と同じでいい。
「あなたの仕事を邪魔するつもりはありません。けれど、私に関わることを知らないままではいたくない」
レナードの目が、わずかに動いた。
「議場で私の名前が出ている。私の身分が議論されている。それを知らずに、薬事法の仕事だけをしているわけにはいきません」
声は静かだった。怒りではない。主張でもない。ただ、事実として伝えた。
知ることと、関わることは違う。けれど、知らないままでいることは、自分の足で立つことにはならない。翠風堂で三年間、記録をつけ続けてきた理由はそこにある。知ることから始める。それが私のやり方だ。
レナードはしばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐いた。
「……わかりました」
折れた、というのとは違った。考えた上で、認めた。そういう間だった。
「ハインツを通じて、議会の動向をあなたに共有します。ただし、議会への直接的な関与は控えてほしい。異議申立て期間中のあなたの言動は、裁定に影響し得る」
「わかっています」
私は頷いた。
「私は茶を作る人間です。議会で弁舌を振るうつもりはありません」
レナードの口元が、ほんのわずかに緩んだ。笑みと呼ぶには小さすぎる。けれど、翠風堂で見たことのある表情だった。
「では、薬事法の草稿を見てもらえますか。法務官が条文案を作成しましたが、実務上の根拠が不十分な箇所がいくつかあります」
「はい。調合日誌を持ってきています」
私は机の上の草稿を開いた。レナードが隣に椅子を寄せ、条文の一つを指した。
「この条項。採取適期の指定について、法務官は『各薬草の最適採取時期を帝国令で定める』と書いているが、根拠となるデータの提示方法が曖昧だ」
「私の日誌に、三年分の採取記録があります。薬草ごとに採取時期、場所、葉の色、茎の太さ、香りの変化を記録してあります。これを法案の附則として整理すれば、条文の根拠になります」
仕事の話をしている時、頭の中が静かになった。
議会のこと、異議のこと、侯爵のこと。全部、頭の隅にある。消えてはいない。けれど、目の前にある仕事が、私の手を動かしてくれる。
これが私のやり方だ。
不安がある時こそ、手を動かす。記録を見る。事実を並べる。
翠風堂で学んだことは、帝都でも変わらない。
日が傾いた。
レナードが帰った後、私は客館の部屋で草稿の確認を続けていた。
窓の外が橙色に染まっている。帝都の夕暮れ。前回もこの色を見た。皇帝に茶を淹れた日の夕方も、同じ色だった。
机の上に、ハインツから新たな書簡が届いていた。
夕方の定時連絡。レナードが認めた情報共有の、最初の一通。
封を切った。
短い文面だった。
『ゲオルク侯爵が正式な異議申立ての準備を進めているという情報があります。提出は数日以内の見通しです。内容の詳細は判明次第お伝えします。』
私は書簡を畳み、机の引き出しにしまった。
調合日誌を閉じた。
明日は薬事法の法案作成会議がある。法務官と財務官が出席する。そして、貴族院から派遣された審議官も同席するという。
議場で私の名前が取り沙汰されている。
その名前を持つ私が、明日、法案の根拠を語る。
身分ではなく、記録で。
調合日誌を鞄にしまった。三年分の記録が詰まった帳面。翠風堂の竈の前で、一日も欠かさずつけ続けた記録。
これが私の言葉だ。
窓の外で、帝都の鐘が鳴った。夕刻を告げる鐘だった。
明日の会議に備えて、早めに休む。
灯りを落とす前に、もう一度だけ窓の外を見た。
帝都の屋根の向こうに、空が暗くなり始めていた。