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【第5章開始!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生 - 第1話「薬事法の朝」
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【第5章開始!】断罪も追放も全てを済ませた悪役令嬢のその後の人生  作者: 月雅
第5章

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第1話「薬事法の朝」

山あいの谷に、朝靄が残っていた。


翠風堂の窓から見える薬草畑に、白い霧が低く漂っている。カミツレの花が霧の中でかすかに揺れ、トウキの葉が朝露を受けて光っている。


帝都から戻って数日が経っていた。


翠風堂は通常営業に戻っている。乾燥棚にはヤナギソウの束が吊るされ、調合台の上には今朝の注文分——村長トーマスの膝の茶と、東の集落から頼まれた冷え性用のトウキの温茶——が並んでいる。


竈の火が静かに燃えていた。鍋の中の湯が、ゆっくりと温度を上げている。


「師匠、トウキの根の在庫、確認しました。乾燥棚の分を合わせて十二束です」


リーゼルが帳簿を片手に、棚の前に立っていた。


「ありがとう。来月の出荷分は足りますか」


「グスタフさんの次の便が十日後なので、足ります。カミツレの乾燥花も八袋あります」


帳簿の字は、以前より落ち着いていた。少し右に傾く癖はそのままだが、数字が整然と並んでいる。


リーゼルの新しい配合——トウキの根とカミツレの花の茶——は、帳簿の最新の頁に正式に記録されている。翠風堂の商品として。


私は鍋の湯面を見た。小さな泡が鍋肌につき始めている。もう少しで六十度。


日常だった。帝都での署名も、議会での答弁も、全部が終わって、翠風堂の日常に戻っている。


けれど、一つだけ変わったことがあった。


午後、グスタフが荷馬車で立ち寄った。


帝都からの定期便。茶葉の出荷を預けるついでに、帝都の噂を一つ持ってきた。


「ヴィオレッタさん、帝都で薬草管理所ってのが各地にできるらしいですよ。薬事法が施行されたって話で、街道筋の宿でも話題になってました」


「管理所」


「ええ。薬草の品質検査をする役所だとか。帝都にはもう準備が始まってるそうです。街道の途中の町でも、建物を探してるって聞きました」


グスタフが去った後、私は調合台の前に座ったまま考えていた。


薬事法が施行された。


私が三年間の記録を基に提言し、法務官が条文に整え、議会が可決し、皇帝が裁可した法律。それが今、帝国全体で動き始めている。


管理所の設置。品質検査体制の整備。薬草の採取適期、調合条件の標準化、流通経路の規定。全部、翠風堂の帳簿から始まったことだった。


法を作るところまでは関わった。


けれど、施行の実務はどうなるのだろう。


管理所が各地に設置されるなら、品質基準の運用指針が必要になる。条文に書かれた「採取適期の判定」や「煎じ温度の標準化」を、実際の現場でどう運用するか。翠風堂ではリーゼルに半年かけて教えた判断力が、帝国全体の管理所でどのように訓練されるのか。


法案を作る時に、条文の根拠を一つずつ説明した。あの作業の延長線上に、施行の実務がある。


「師匠」


リーゼルが声をかけた。


「何か考えてます?」


「管理所のことを」


「管理所って、さっきグスタフさんが言ってた」


「ええ。薬事法が施行されて、各地に薬草の品質を検査する役所ができる。その運営の指針を誰かが作らないといけない」


リーゼルは帳簿を閉じて、私の方を見た。


「師匠が作るんですか」


「わからない。参考意見を求められるかもしれない。法案の時と同じように」


「じゃあ、また帝都に行くんですか」


その問いに、少し間が空いた。


帝都に行くことへの抵抗はもうない。二度の帝都出仕を経て、行くことも帰ることも日常の一部になりつつある。


けれど、リーゼルとの共同運営が軌道に乗り始めた時期だった。新しい配合を商品化し、帳簿の管理も安定し、翠風堂は二人の工房として動き始めている。


師匠として工房にいる時間と、帝国の制度に関わる時間。どちらも自分の仕事だ。問題は、どう分けるかだった。


「師匠」


リーゼルが真っ直ぐに私を見ていた。


「あたしに任せられることと、師匠じゃないとできないことがあります」


「リーゼル」


「管理所のことは師匠の仕事です。翠風堂の日々の仕事は、あたしにもできます。帳簿も、調合も、在庫管理も。グスタフさんとのやり取りも」


リーゼルの声は落ち着いていた。以前のように「あたしがやるのです」と胸を張る勢いではなく、事実を述べる声だった。


「師匠が帝都にいる間、翠風堂が止まったことはありません。前もそうでした。今はもっとできます。あたしの配合もあります」


私は帳簿の最新頁を見た。リーゼルの署名。トウキの根七、カミツレの花三。


「あなたの言う通りです」


「じゃあ」


「管理所の運営指針に、参考意見を出すことにします。求められれば」


リーゼルが頷いた。当然のことを確認しただけ、という顔だった。


役割を分ける。師匠の仕事と、共同運営者の仕事。翠風堂を守ることと、翠風堂が生んだ制度を育てること。


どちらも私の仕事だ。けれど、全部を一人でやる必要はない。


竈の火が静かに燃えていた。鍋の湯が六十度に達し、薄い蒸気が立ち上っている。


私は棚から薄荷と菩提樹の花を取り、急須に入れた。呼吸の茶。三年間かけて改良した配合。


湯を注いだ。淡い緑色が広がった。


リーゼルが自分の杯を持ってきた。


「あたしも飲んでいいですか」


「もちろん」


二つの杯に茶を注いだ。調合台の上に並べた。


法が動き始めている。翠風堂の日常の中に、帝国の制度が静かに入り込んでくる。


けれど、日常は変わらない。竈の火があり、薬草の匂いがあり、茶を飲む相手がいる。


夕方、グスタフの便に混じって、もう一通の書簡が届いた。


宰相府の封印。レナードの筆跡。


封を切った。


『管理所の設置に関する参考意見を求めます。運営指針の策定に際し、薬草顧問としての知見が不可欠です。また、婚約署名の日程について相談したいことがあります。近日中に辺境を訪れます。』


公務の文面だった。けれど、末尾に一行。


『翠風堂の茶を、楽しみにしています。』


便箋を机の上に置いた。


管理所の参考意見。婚約署名の日程。二つの用件が、一通の書簡に並んでいる。


公務と私事。制度と感情。全部が一つの場所に集まってくる。


翠風堂の窓の外で、夕方の風が薬草畑を渡っていた。朝靄はとうに消え、山あいの空が茜色に染まっている。


レナードが来る。


茶を用意しなければ。

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