第9話「選んだ道」
戻れる場所と、戻りたい場所は違う。
営業停止が正式に解除された朝、工房の入口に貼られていた法務院の封印を、法務官が剥がしていった。リーゼルが竈に火を入れ、村の女性たちが乾燥棚の薬草を運び込む。翠風堂が動き出す音が、朝の空気を満たした。
その日の午後、もう一通の書簡が届いた。
帝国法務院からの正式な通達。
三年前の断罪が無効と認定されたこと。ヴィオレッタ・ルーゼンに対する公爵令嬢としての身分復帰の権利が認められたこと。ただし権利の行使は本人の意思に委ねられ、強制されないこと。
権利行使の意思表示の期限は、通達受領から三十日以内。
私は通達を作業台に置き、竈の火を見つめた。
公爵令嬢に戻れる。
三年前に奪われた名前と立場が、法的に返ってくる。
ルーゼン公爵家の令嬢。帝都の社交界。きらびやかな夜会と、息の詰まる礼儀作法と、魔力ゼロを陰で嗤う視線。
あの場所に、戻れる。
「師匠」
リーゼルが竈の横に立っていた。通達の内容は見ていないはずだが、私の顔を見て何かを察したのだろう。
「大事な手紙ですか」
「ええ。大事な手紙」
「帝都から」
「ええ」
リーゼルは何も聞かなかった。半年前に交わした約束を、この子は守り続けている。
私は通達を棚にしまい、エプロンを結び直した。
「仕込みを始めましょう。注文が溜まっているから、今日中にヤナギソウの煎じを四十袋仕上げたい」
「はいっ」
リーゼルが薬草の束を抱えて乾燥棚に走った。
私は鍋に水を注ぎ、火加減を調整した。
答えは出ている。 出ているのに、まだ口にできない。
口にすれば、確定する。 三年前に失ったものを、自分の意志で手放すことになる。
三日間、私は普段通りに仕事をした。
注文分の茶葉を仕上げ、村の女性たちに新しい選別基準を教え、リーゼルと一緒に北の斜面でトウキの根を掘った。
営業再開後の注文量は、停止前の三倍に膨らんでいた。帝都での騒動が翠風堂の名を広めたのだ。宰相府が品質を保証する辺境の薬草茶。その評判は、皮肉にもマリエルの告発が裏目に出た形で加速した。
三日目の夕方、トーマス村長が工房を訪ねてきた。
「ヴィオレッタさん。少し、話があるんじゃが」
村長は竈の前の椅子に腰を下ろした。右膝をかばう仕草は相変わらずだが、以前より動きが軽い。翠風堂のヤナギソウの茶を毎日飲んでいる効果だろう。
「帝都から、お知らせが来たんじゃろう」
「……村長もご存じでしたか」
「法務官が封印を剥がしに来た時に、少し聞いた。あんたの名誉が回復されたと」
私は黙って頷いた。
「戻るのかね。帝都に」
村長の声は穏やかだった。詮索ではなく、確認だった。
「いいえ」
答えは、自然に出た。
三日間かけて言葉にできなかったものが、村長の前では迷いなく口を衝いた。
「私の居場所はここにあります。この工房と、この村に」
村長が目を細めた。
「そうかい」
「身分の復帰は辞退します。公爵令嬢に戻る必要はありません。ただ——」
棚の上から、白紙のまましまってあった顧問契約書を下ろした。
「この契約は、受けようと思います」
宰相府との顧問契約。辺境薬草茶の品質管理と調合の助言を公的に行う立場。
「帝国公認の辺境薬草顧問という肩書きがあれば、翠風堂の流通に公的な裏付けがつきます。村の産業として安定させるためには、個人の工房主のままでは心許ない」
「自分のためじゃなく、村のために受けると」
「自分のためでもあります」
正直に言った。
「一人で全部を抱える必要はないと、ようやくわかりました」
村長はしばらく黙っていた。
それから、杖を握り直して立ち上がった。
「あんたがこの村に来た時のことを覚えとるよ。行き倒れ同然で、目だけがぎらぎらしとった。あの目が、今はだいぶ穏やかになったわい」
「……村長のおかげです」
「わしじゃない。あんた自身の力じゃよ」
村長がぽんと私の肩に手を置き、そのまま工房を出ていった。
翌朝、顧問契約書に署名した。
署名欄に記した名前は「ヴィオレッタ」。姓は書かなかった。ルーゼンでもなく、公爵令嬢でもなく、ただの「ヴィオレッタ」として。
署名した契約書を封筒に入れ、宰相府宛ての返送用の便に託した。
リーゼルがその様子を見ていた。
「師匠、何の書類ですか」
「顧問契約よ。宰相府と正式に結んだの。これで翠風堂の茶は帝国公認になる」
「帝国公認」
リーゼルの目が丸くなった。
「すごい。師匠の茶が帝国公認ですよ」
「私の茶じゃないわ。もうこの村の茶よ」
「でも、あたしが採ったトウキの根も入ってますよね」
「入ってるわ」
「じゃあ、あたしも帝国公認の一部ですね」
リーゼルが胸を張った。
私は笑った。声を出して笑ったのは、いつぶりだろう。
「リーゼル」
「はい」
「あなたはいつか、自分の工房を持ちなさい」
リーゼルが目を瞬かせた。
「あたしの、工房」
「薬草の見分けの才能は、あなたのほうが上よ。もう少し調合の技術を磨いたら、独り立ちできる」
「……師匠」
リーゼルの目が潤んだ。けれど泣かなかった。代わりに、拳をぎゅっと握った。
「はい。あたし、いつか自分の工房を持ちます。師匠みたいな工房を」
「私みたいじゃなくて、あなたらしい工房をね」
リーゼルが大きく頷いた。
夕方、工房の片付けを終えた後、棚にしまった法務院の通達をもう一度取り出した。
身分復帰の権利。
これを辞退するということは、ルーゼン公爵家と正式に縁を切るということだ。
父のことを考えた。
三年前、断罪の場で私を庇わなかった人。勘当を承認した人。
恨んではいない。 けれど、許したわけでもない。
ただ、もう関係のない人になった。
通達の余白に、辞退の旨を記した。
「ヴィオレッタ・ルーゼンとしての身分復帰の権利を辞退いたします」
書き終えて、封をした。
これで終わりだ。
「戻らない」のではない。 「進む」のだ。
封筒を便の荷に加え、工房の戸口に立った。
辺境の夕空に、薄い雲が流れている。
ポケットの中に、レナードからの書簡がある。今朝、顧問契約書と同じ便で届いたもの。
「三度目の辺境訪問をお許しいただけますか。今度は公務ではなく、個人として」
私はその一文を、もう五回読んでいた。
宰相が私人として辺境を訪れる。
それが何を意味するのか、もうわからないふりはできなかった。
工房の中から、リーゼルの鼻歌が聞こえてきた。明日の仕込みの準備をしているのだろう。
私は夕空を見上げたまま、小さく息を吐いた。
怖い。 でも、逃げない。
少しずつでいいなら、と心の中で呟いた。