第37話 ポチ、覚醒の予兆
東京大迷宮、地下70階層。未踏破エリア『氷結地獄』。
視界を埋め尽くすのは、見渡す限りの白銀と、天を覆うオーロラのカーテンだ。
吐く息すら瞬時に凍りつくマイナス30度の極寒の世界。
そんな過酷な環境の中で、俺たちは熱気に包まれていた。
「……ふぅ。よし、これで最後の一塊だ」
俺、鈴木悠作は、額に滲んだ汗を拭いながら、愛用の解体ナイフを振って血糊を払った。
目の前に横たわっているのは、かつて『エンシェント・マンモス』と呼ばれた山の如き巨獣――今はきれいに解体され、極上の食肉へと姿を変えている。
「師匠! これ、どこに置きますか!」
元気な声と共に、巨大なマンモスの牙を軽々と抱えたジークがやってくる。
その後ろでは、S級ポーターの山田しずかが、マンモスの大腿骨を片手で引きずりながら、涼しい顔で歩いてきた。
「悠作、五右衛門の空き容量はまだあるの? この骨、いい出汁が出そうよ」
「ああ、任せろ。……しずか、お前よくその雪道でそんな重いもん持てるな」
「足場が悪いのなら、体幹で補正すればいいだけよ。……ふんっ」
しずかは軽やかに骨を放り投げた。
五右衛門が『へへっ、ナイスパスでヤンス!』と飲み込む。
さすがは「鋼鉄の女王」。雪山でもフィジカル最強だ。
「いい仕事だった。……みんなも、お疲れさん」
俺は振り返り、仲間たちに声をかけた。
周辺警戒を解いたすずとゆき子、寒さに震えながらデータ収集を終えた瞳、そしてカイロまみれのみのりと、素材の皮算用をしている茜。
総勢8名。
全員、疲労の色は見えつつも、達成感に満ちた顔をしている。
さあ、これにてミッションコンプリートだ。
さっさと地上へ戻って、温かい風呂に入り、この極上肉で祝杯をあげよう。
そう思って、俺が一歩を踏み出した時だった。
「……クゥーン……」
足元から、弱々しい鳴き声が聞こえた。
聞き慣れた、甘えるような声。だが、どこか苦しげな響きを含んでいる。
「ん? どうした、ポチ」
俺は視線を落とした。
そこには、俺の相棒であり、家族でもあるフェンリルの幼体――ポチがうずくまっていた。
いつもなら「肉をよこせ」と飛びついてくるはずの白い毛玉が、雪の上で小さく震えている。
「おい、どうした! どっか怪我したのか!?」
俺は慌てて駆け寄り、膝をついた。
ポチの体に触れようと手を伸ばす。
その瞬間、俺は指先を引っ込めた。
「熱ッ!?」
熱い。異常な高熱だ。
ポチの体毛から、パチパチと青白い火花のようなものが漏れ出している。
それは静電気などではない。濃密に圧縮された、純粋な魔力の奔流だった。
「悠作! どうしたの!?」
異変に気づいたみのりが、血相を変えて駆け寄ってくる。
しずかもコンテナを下ろし、心配そうに覗き込む。
「……異常な発熱ね。筋肉が痙攣しているわ」
「ポチちゃん、大丈夫……?」
しずかが手を伸ばそうとすると、ポチは苦しい中でも「ウゥーッ!(おばさん触んな!)」と威嚇した。
こんな時でも相性は最悪らしい。しずかがショックで固まる。
「瘴気酔いですわ」
冷静な、しかし深刻な声を出したのは、茜だった。
彼女は紫色の扇子でポチの周りの空気を仰ぎながら、鋭い目で周囲を見回した。
「ここは深層70階層。地上とは魔力濃度が桁違いですの。特にこのエリアは、太古の強力な魔素が淀んでいる場所……。まだ幼体のポチちゃんには、刺激が強すぎたのかもしれませんわね」
「マジ!? ポチ死んじゃうの!? 嫌だよそんなの!」
ゆき子が悲鳴を上げ、目元を潤ませる。
俺は奥歯を噛み締めた。
俺の判断ミスだ。食材に目が眩んで、まだ幼いポチをこんな危険な場所まで連れてきてしまった。
「……くそッ。帰るぞ。すぐに地上へ戻って、協会の獣医に見せるんだ」
俺はポチを抱き上げようとした。
熱くても構わない。五右衛門に入れて運ぶわけにはいかない。俺が背負って走るしかない。
だが、俺の手がポチの体に触れる直前。
ドクンッ!!
心臓の鼓動のような重低音が、周囲の空気を震わせた。
氷の大地が共鳴し、ビリビリと振動する。
「……なっ?」
カッ!! と目が眩むような閃光が、ポチの全身を包み込んだ。
青白い光の柱が天に昇る。
その光の中で、ポチの小さなシルエットが、見る見るうちに膨れ上がっていくのが見えた。
ソフトボール大だったサイズが、バスケットボールになり、バランスボールになり……さらに巨大化していく。
骨が軋む音。筋肉が膨張する音。
それは成長という生易しいものではなく、生物としての殻を破る「進化」の音だった。
「うわわっ! でっかくなってる!? 止まらないよ!?」
「離れてください! エネルギー密度が臨界点を超えています! 爆発します!」
瞳が警告を発する。
俺たちは魔力の風圧に押され、思わず後ずさった。
オオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォンッ!!
腹の底に響くような、しかしどこか神々しい遠吠えが轟いた。
衝撃波が弾け、舞い上がった氷煙が一瞬にして吹き飛ぶ。
光が収束し、静寂が戻る。
そこに立っていたのは――。
「……嘘だろ」
俺は呆然と呟いた。
そこにいたのは、体長3メートル、体高2メートルはあろうかという、圧倒的な威容を誇る白銀の巨狼だった。
鋼のように隆起した筋肉。
雪よりも白く、光り輝く剛毛。
そして、额に浮かび上がった蒼い紋様。
もはや「ポチ」と呼べるような愛玩動物ではない。
北欧神話に語られる、神さえも喰らう魔狼、『フェンリル』そのものだった。
「グルルルゥ……」
巨狼が低い唸り声を上げ、金色の瞳で俺を見下ろす。
デカい。見上げると首が痛くなるほどのサイズ感だ。
その口元からは、鋭利なナイフのような牙が覗いている。
俺はゴクリと唾を飲んだ。
記憶障害か? それとも野生への回帰か?
もしこいつが俺のことを忘れて、本能のままに襲いかかってきたら――俺たち全員、ここで全滅だ。
「……ポチ、なのか?」
俺は恐る恐る、震える声で名前を呼んだ。
張り詰めた緊張感。ジークが剣の柄に手をかける音が聞こえる。
岩陰からは、純子のライフルの安全装置が外れる金属音が微かに響いた。
すると。
巨狼の耳がピクリと動いた。
金色の瞳が、スッと細められる。
次の瞬間。
「ワフッ!(パパだ!)」
ドサァァァァッ!!
巨狼が、全力で、しかも何の躊躇もなく、俺にじゃれついてきた。
その重量、推定300キロ超。
軽自動車が突っ込んでくるようなものだ。
「ぐええっ!?」
俺は雪原に背中から叩きつけられた。
肺の中の空気が強制的に排出される。
その上に、巨大な質量がのしかかる。
「ワフン! ワフン!(抱っこ! 撫でろ! 肉くれ!)」
ザリザリザリッ!
巨大なヤスリのような舌が、俺の顔面を容赦なく舐め回す。痛い。皮が剥ける。
「お、重い! 潰れる! やめろバカ犬! お前デカくなってるんだぞ!」
「クゥ〜ン……(えー、いいじゃん)」
俺の悲鳴を聞いても、ポチは悪びれる様子もなく、さらにスリスリと頭を押し付けてくる。
中身が変わっていない。
見た目は神話級の魔獣、頭脳は甘えん坊の仔犬のままだ。
「……あーあ」
それを見ていたみのりが、深い絶望を含んだ声で呟き、ガックリと膝をついた。
「終わったわ……。私の癒やしが……」
「……はい?」
「あのコロコロした天使が……掌サイズのマシュマロボディが……こんな厳つい猛獣になるなんて……詐欺よ……」
みのりが雪に手をついて嘆いている。
どうやら彼女にとって、ポチの「小ささ」こそが正義だったらしい。
「ショックです……。可愛くないです……。これじゃぬいぐるみみたいに抱っこして寝れません……」
「モフモフ感はあるけどさぁ……これじゃ『ポチ』ってより『ボス』じゃん。可愛げがないっしょー」
すずもゆき子も、あからさまにテンションが下がっている。
女性陣からの評価は暴落だ。
しずかも腕を組み、複雑な表情をしている。
「……強そうにはなったけれど、愛嬌は減ったわね。これじゃあ、さらに撫でさせてくれなさそう……」
唯一、ジークだけが「素晴らしい……! これぞ王者の風格!」と感動してスケッチを取っているが、こいつは放っておこう。
俺はどうにかこうにか、ポチの下敷き状態から這い出した。
全身が唾液まみれだ。
ポチはお座りをして、期待に満ちた目で尻尾をブンブン振っている。その風圧だけで雪が巻き上がる。
「……まあ、元気ならそれでいいか」
俺はため息をつきつつ、ポチの背中をポンと叩いた。
硬い筋肉の上に、分厚い毛皮が覆っている。
……ん?
俺は気づいた。
この背中。広大で、平らで、しかも温かい。
「……おいポチ。お前、人を乗せられるか?」
「ワフ?(余裕だぞ?)」
俺の意図を察したのか、ポチはその場で伏せをして、背中を差し出した。
まるで「どうぞお乗りください」と言わんばかりの体勢だ。
「……最高じゃないか」
俺はニヤリと笑った。
徒歩での帰還は面倒だと思っていたところだ。この寒さと雪道、歩くだけで体力を消耗する。
だが、この「生きたオフロード車」があれば話は別だ。
「全員乗れ! 移動手段の確保だ! これで定時に間に合う!」
数分後。
氷の世界を、一陣の白い風が疾走していた。
巨大化したポチだ。
その背中には、俺たち全員が乗っていた。
しずかの巨大な鋼鉄コンテナすらも、ポチの背中に括り付けられているが、ポチは重さを微塵も感じさせない速度で駆け抜けていく。
「速い! しかも揺れない!」
「あったか〜い! 生き返る〜!」
先ほどまで「可愛くない」と文句を言っていたゆき子が、今はポチの首元の毛に顔を埋めて歓喜の声を上げている。
フェンリルの毛皮は保温性が抜群で、さらにポチ自身が発する熱のおかげで、氷点下の世界とは思えないほど快適だ。
まるで「走る床暖房」であり「最高級のソファー」だ。
「視点が高くて気持ちいいですね。これなら索敵も容易です」
「ふふ、遊園地のアトラクションみたいです!」
瞳もすずも、風除けの結界の中で景色を楽しんでいる。
しずかは、自分のコンテナの横に座り、ポチの筋肉の動きを観察していた。
「……すごいわ。300キロのコンテナを背負ってこの速度。しかも、背中の振動を最小限に抑える体幹コントロール……。勉強になるわね」
みのりも「……まあ、これはこれでアリかもね。タクシー代浮くし」と、満更でもなさそうだ。
ちなみに、純子はどうしているかというと。
ポチのふさふさした尻尾の付け根――一番死角になりやすく、かつ暖かい特等席に、隠密スキルを使ってこっそり埋もれていた。
俺にはバレバレだが、ポチが許容しているようなので黙っておこう。
ポチは障害物を軽々と飛び越え、断崖絶壁もものともせず駆け上がる。
俺たちが苦労して進んできた道のりが、あっという間に過ぎ去っていく。
しばらく進み、50階層に近い安全地帯の洞窟に入ったところで、俺はポチを止めた。
「少し休憩だ。……マンモスの解体と、今の騒ぎで腹が減った」
俺の言葉に、ポチが「待ってました!」とばかりに急停止する。
俺たちは背中から降りた。純子もいつの間にか物陰に移動している。
時刻は昼を少し回ったところ。
こってりしたバターポップコーンを食べ、脂たっぷりのマンモスを見た後だ。
さらに、ポチの放つ熱気にも当てられている。
今、俺たちの胃袋が求めているのは、脂っこい肉料理ではない。
強烈な「リフレッシュ」と「刺激」だ。
「よし、サッパリしたもんを作るぞ」
俺は五右衛門から調理器具を取り出した。
今回使うのは、木製の大きなすり鉢とすりこぎ。
そして、五右衛門の保冷庫から取り出したのは、緑色の大きな果実。
『青パパイヤ』だ。
完熟する前の、硬くて青いパパイヤ。これを千切りにする。
「『ソムタム』だ」
タイ東北部の郷土料理。
「酸味」「辛味」「甘味」「塩味」が複雑に絡み合う、刺激的なサラダだ。
「見てろよ。目が覚めるようなやつを作ってやる」
まずはすり鉢に、皮を剥いたニンニクと、生の唐辛子を数本放り込む。
ダンジョン産の唐辛子は辛味が強いので、加減が必要だが……今日はあえて多めにする。
トントン、グシャッ。
すりこぎで叩き潰す。
ニンニクの強烈な香りと、唐辛子の青臭い刺激臭が立ち上る。
そこに、インゲン、ミニトマト、そしてライムを皮ごとぶつ切りにして放り込む。
さらに叩く。
トマトが潰れて赤い汁が出、ライムの皮から爽やかな精油が飛び散る。
味の決め手は調味料だ。
ナンプラー、パームシュガー、そしてタマリンドペースト。
魚の発酵臭と、濃厚なキャラメルのような甘み、そして梅干しに似た強い酸味。
これらが混ざり合い、東南アジアの熱気を感じさせる独特の香りを生み出す。
最後に、たっぷりの千切り青パパイヤと、香ばしいローストピーナッツ、干しエビを投入する。
ボコン、ボコン、ザクッ!
混ぜるのではない。「叩く」のだ。
リズミカルに叩くことで、硬いパパイヤの繊維を壊し、味を中まで染み込ませる。
洞窟内に、小気味よい音が響き渡る。
「……すげぇ匂いだ。唾液が出てくる」
唐辛子のカプサイシンが空気中に広がり、全員が鼻を鳴らす。
皿に山盛りにし、付け合わせの生キャベツを添えて完成だ。
「飲み物はこれだ」
俺は別の鍋を用意した。
乾燥した『龍眼』の果肉、羅漢果、そして冬瓜糖を水に入れて煮出す。
コトコトと煮込むうちに、水が漆黒に染まっていく。
氷をたっぷりと入れたグラスに注ぐ。
『エア・マタ・クチン』。
マレー語で「猫の涙」という意味を持つ、龍眼水だ。
龍眼の果肉が、まるで猫の目のように見えることからそう呼ばれる。
熱を冷まし、滋養強壮に効く万能ドリンクだ。
「「「いただきます!!」」」
全員が待ちきれない様子でソムタムに箸を伸ばす。
ゆき子が一口、口に放り込んだ。
シャキシャキッ!
瑞々しい音が響く。
「……んんっ!! 辛っ!! ……でも、美味っ!!」
ゆき子が叫び、目を見開く。
強烈なライムの酸味が口の中を洗い流し、直後に唐辛子の爆発的な辛さが舌を刺す。
だが、噛めば噛むほど、パームシュガーのコクのある甘みと、ナンプラーの濃厚な旨味が溢れ出し、辛さを包み込んでいく。
「何これ!? 止まんないんだけど! 辛いのに甘い! 酸っぱいのに美味い!」
「この歯ごたえ……クセになりますね。干しエビの香ばしさとピーナッツのカリカリ感が、いいアクセントです」
すずも額に汗を浮かべながら、箸を動かすスピードが上がっている。
しずかも、豪快にキャベツにタレをつけて齧っている。
「……効くわね。唐辛子のカプサイシンで代謝が上がってるのがわかるわ。青パパイヤの酵素は、タンパク質の分解を助けるから、さっき食べた肉の消化にも最適よ。……さすが悠作、計算されたメニューね」
しずかはプロテインの観点から絶賛している。
みのりは無言で、辛さに耐えながらもバリバリと食べている。
「あー……サッパリするわね。マンモスの脂っこい気配も、ポチの熱気も、全部吹き飛ぶわ。デトックスって感じ」
口の中がヒリヒリと燃えてきたところで、黒いドリンク『エア・マタ・クチン』を飲む。
「……はぁぁ……」
しみじみとした吐息が漏れる。
優しい甘さ。
砂糖の暴力的な甘さではない。羅漢果と冬瓜糖の、喉の奥に染み渡るような深みのある甘みが、燃えるような口内を優しく鎮火してくれる。
煮込まれてトロトロになった龍眼の果肉を噛むと、独特のスモーキーな風味が鼻に抜ける。
「完璧なペアリングだ。刺激と癒やし。……これぞダンジョン飯だな」
俺は満足して頷いた。
ふと、物陰に気配を感じる。
俺は誰にも気づかれないように、小皿に取り分けたソムタムとドリンクを、そっと岩陰に置いた。
……すぐに気配が消え、咀嚼音と「んふふ♡」という小さな声が聞こえた。純子も満足したようだ。
そして、足元では。
巨大化したポチが、洗面器のようなサイズのボウルに入った特製ソムタムを、掃除機のような吸引力で平らげていた。
「ワフッ! ワフン!(美味い! もっと!)」
ポチが尻尾を振ると、その風圧で空の皿が吹き飛びそうになる。
ガツガツと食べる豪快な音。
デカくなっても、食い意地と、美味いものを食べた時の幸せそうな顔だけは変わらないようだ。
「……ま、デカくなってもポチはポチか」
俺は苦笑し、ポチの巨大な頭を撫でた。
ゴワゴワとした剛毛だが、その下の体温は変わらず温かい。
ポチは嬉しそうに目を細め、俺の手のひらに鼻先を押し付けてきた。
「移動も楽になったし、番犬としても頼もしい。……ただし、アパートの部屋に入れるかどうかだけが問題だな」
「あ……」
全員の動きが止まった。
そういえば、今のひまわり荘は要塞化されているとはいえ、サイズは人間のままだ。
3メートルの巨狼が入るスペースなどない。
「……ま、それは帰ってから考えよう」
俺は考えるのを放棄し、残りのエア・マタ・クチンを飲み干した。
今はただ、この心地よい満腹感と、仲間たちとの騒がしい時間を楽しむことにした。
こうして、俺たちは新たな移動手段と、大量の肉を手に入れ、地上への帰路についた。
アパートに帰ったら、今度こそゆっくり休めるはずだ。
……そう、この時はまだ思っていた。
ポチの巨大化が、単なる成長ではなく、ダンジョン全体の異変とリンクしていることなど、知る由もなかったのだ。