物語序章 第一版 64章
汎名──沈黙の十字架
鹿児島での契約成立の報せが届くと、遠い新大陸の港町シウダー・デ・パナマにもその噂が静かに広がり始めた。
現地を治めるスペイン人総督フランシスコ・デ・ベラスケスは、使者が運んできた封蝋つきの書状を見つめ、深いため息をついた。
――ついにこの地を手放す時が来たか。
この町はもはや帝国の末端に過ぎなかった。赤道付近による病と湿気、襲い来る嵐、そして遠い本国からの補給の滞り。
「神の国の旗」を掲げて築いた聖堂も、今では半ば崩れ、司祭たちは布教よりも飢えた信徒を慰める日々に追われていた。
だが、今回ばかりは彼らの心に別の動揺があった。
――“日本”と名乗る、極東の島国。
そこから莫大な金貨と絹が届き、不気味であったと、鹿児島から戻った伝令が報告していた。
「彼らは奇妙な沈黙を保つ。まるで何かを隠しているようだ」と伝令は語った。
「彼らの衣も、言葉も、態度も異質だ。だが、不思議なほど規律正しく、信仰を冒涜する様子もない。」
司祭の一人、ロレンソ・デ・カタリナが祈りを止め、静かに呟いた。
「それは神の沈黙か、それとも新たな秩序の始まりか……?」
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教会の動揺と決断
ベラスケス総督は教会を訪れ、司教団を集めて語った。
「我々は、帝国の意志に従い、パナマを彼らに譲る。代価は支払われる。民の安全は保障されると約束されている。教会の移転と財産の保護は、彼らが担う。」
司教の一人が顔をしかめる。
「異教徒に聖堂を渡すのですか? この十字架は神のものですぞ。」
「だが、我々にもう兵も船もない。民は病み、兵士は疲弊している。」
総督は静かに首を振った。
「彼らは約束を破らぬ民族だと聞いた。むしろ、この地が再び豊かになるなら、神の意志に反するまい。」
沈黙が流れた。蝋燭の火が揺れ、壁に掛けられたマリア像の影が大きく揺れた。
やがて老いた司教が立ち上がり、十字架を胸に掲げる。
「ならば我らも、この地の魂を持って行こう。神は土地ではなく、人の中におられる。」
その言葉に、全員が静かに頭を垂れた。
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住民たちの動揺
一方、町の広場では噂が渦を巻いていた。
「東の島国がこの土地を買ったらしい」「彼らは黄金の衣を着て、帆船に乗ってくる」
原住の民は恐れと期待を入り混ぜながらその話を聞いた。
長年、スペイン人の支配の下で苦しんだ彼らにとって、それは“新しい主”の到来を意味したが、同時に“未知の未来”の訪れでもあった。
しかし、ベラスケス総督は彼らを前にして穏やかに語った。
「恐れるな。彼らは征服者ではない。商人であり、学び舎を建てる民だ。
お前たちの土地も、水も、奪われはせぬ。」
その声を聞いた若い漁師の一人が、友に囁く。
「もし本当にそうなら……今度こそ、血が流れない時代が来るのかもしれない。」
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契約の影
だが、すべてが穏やかではなかった。
教会の若い修道士の中には、日本人の沈黙を「神への冒涜」とみなし、激しく反発する者もいた。
一部の商人たちは「日本人は黄金を積んできた。ならば彼らの国は金の山だ」と語り、裏で交易を目論む者も出始めた。
総督はそれを察知すると、密かに部下に命じた。
「日本人が来る前に、余計な者どもを追い出せ。暴れる者がいれば、教会船で送り返せ。」
夜、港に並ぶ帆船の灯が一つ、また一つと消えていく。
その光景を見つめながら、老司教ロレンソは静かに祈った。
「この地が、血ではなく約束で動くのなら……それこそ神の奇跡であろう。」
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鹿児島への報告
数週間後、スペインの商館使者が鹿児島へ帰着し、外交官に報告を届けた。
「現地の譲渡は準備万端にございます。彼らは日本人の到着を待っております。教会は撤収を開始し、総督は契約の履行を誓いました。」
報告を受けた明賢は、長い間黙していた。
やがて、机の上の地図を見つめながら一言だけ呟く。
「血を流さずに土地を得る……これこそ、文明の勝利だ。」
ここで時系列はパナマに戻る
夜の霧が薄く漂う早朝、汎名の海は静かに息をしていた。
艦隊は夜のうちに岸からすこし離れた浅瀬の陰に停まり、外見は木製帆船そのものと見紛う姿で浮かんでいた。明賢は艦橋で短く指示を出すと、甲板の兵に合図を送った。
「小舟を降ろせ。今日は必ず、穏便に全てを済ます。」
甲板で作業員が綱を緩めると、折りたたまれた帆布に隠されていた木製ボートが一つ、また一つと静かに海面に下ろされていく。外側は古色を帯びた木で造られ、遠目には当地の小舟と見分けがつかない。内には外交官、通訳、数名の士官と護衛が乗り込んだ。彼らの顔には緊張はあるが、同時に誇りが滲んでいた。
白い砂の浜辺に小舟が打ち寄せられると、そこには既にスペイン側代表と教会の使者たちが待っていた。彼らは腰に古い十字架を下げ、表情は複雑だ。総督からの使者が、やはり書状を携えて立っている。
明賢は一歩前に出て、静かに頭を下げた。
「我らは約束どおり到着した。ここに残るものはない。貴国の撤退を円滑に行えるよう、我が国が途中まで護衛の申し出をする。まずは正式な引渡しの文書を交わし、その後に貴国の皆様を安全に送還する手配をさせていただきたい。」
スペインの使者は書類を差し出し、応じた。書類には鹿児島での仮契約の確認、頭金受領の証、そして現地での残代金の受け取りと正式譲渡条項が記されている。双方が用意した筆と羊皮紙が並べられ、海の音だけが回廊のように聞こえた。
通訳が間を取り持ち、条文一行一行が読み上げられる。スペイン側は教会の撤去・聖遺物の収蔵、在留スペイン人の移送スケジュール、教会財産の取扱いについて細かく確認を求める。日本側代表はすべてを承認し、補償と移送の具体的日程、護衛の船団がどの地点まで同行するかを明記していった。
署名が交わされると、浜辺の空気が一瞬だけ張り詰め、それから重たい安堵が広がった。スペイン使者は書類に古い印章を押し、明賢は朱肉で押印し返した。互いに書類を交わす手が震えるように見えたが、誰も言葉を挟まなかった。海の波が静かに二つの文化の境界を洗い流すようだった。
「さあ、出発の準備を。」
明賢の短いひと言で、護送の段取りが始まる。スペイン人の住民たちは小さな荷物をまとめ、教会の聖職者は長年使った書物や聖具の梱包をしている。日本側は港の小屋を開け、暖かいスープや箱に入れた食料を分け与えた。病人や老いた者には医療班が付き添い、応急処置が施される。
護送は二段階で行われた。まず、夜明け前に小舟で岸を離れ、付近の安全な入り江まで移動する。そこで艦隊の護衛船が待ち受け、スペイン人の帰路のための長距離船に合流させる手筈である。明賢は自らその場に立ち、表情を曇らせずに言った。
「貴国民の安全は我が国の責任だ。途中までは必ず護る。」
スペインの老商人は緊張した面持ちで明賢の手を取り、照れくさそうにこう言った。
「お主らの誠意を、わしらは忘れぬだろう。これが終わったら、砂の上に血が落ちぬことを祈るばかりだ。」
護衛船は蒸気の振動を最小限に抑え、波の音だけを残してゆっくりと外海へ出た。日本の艦隊は護衛のため十分な間合いを取り、しかし決してスペイン船に寄り添うことはしなかった。船同士の間には適度な距離が保たれ、視界に映る帆影はやがて水平線へと溶けていった。
数日後、護送が無事に完了したとの報は舟で戻され、浜は再び静けさを取り戻した。スペイン人は約束どおり退去し、教会の聖具は保護され、在留者の移送も計画どおり進んでいると伝えられた。明賢はその報せを受け、深く息をついた。
「これで晴れて、ここは我らのものとなる。」
副官の一人が小さく言うと、明賢は浜辺に目を投げた。砂はまだ湿り、木の切り株がいくつか残っている。だが、そこに人の手が入り、整えられていけば、港は必ず姿を変えるだろう。
スペイン人が去った後の第一歩は迅速に行われた。まずは旧スペインの管理建物のうち、住民の避難と医療に使えるものを清掃・消毒し、簡易診療所として開放した。教会に残された備品は丁寧に梱包され、鹿児島での取り決めどおり引き取られるまで大切に保管する。日本側の工兵は先に作った仮設桟橋を拡張し、より堅牢な荷揚げ台を組み上げた。燃料タンクと冷蔵室は補給艦からの設備で整備され、測量塔は正式に設置されて湾内の潮流観測が始まった。
原住民との関係も、スペイン人の護送中に築かれた信頼を基に慎重に進められた。現地の長老と合意を交わし、土地利用の初期ルール、共用の漁場地点、そして村の安全を保障する旨を書面(簡易の巻物)に記した。贈り物として渡した絹布や刃物は、儀礼と交換に使われ、互いの距離は少しずつ縮まっていった。
夜、浜辺に新たな焚き火がともされると、兵たちと現地の人々が共に食事を囲んだ。明賢は小さな庁舎の前で、集まった者たちに向かって短く述べた。
「我らは今日ここを拠点とする。だがこの地の民を追いやるつもりはない。共にこの港を育てよう。互いに約束を守れば、ここは争いの地ではなく生産の地となるだろう。」
波音が遠くで寄せ返す。月の光が、新たに整えられた桟橋の木目を銀色に染めた。こうして、スペイン人の正式な護送と返還が完了し、汎名の海峡に日本人と現地民だけの新たな拠点がゆっくりと息を吹き返した。翌日からは、正式な港整備と測量、貯蔵施設の恒久化工事が始まる――だがそれは、また別の章の話である。
数日ののち、汎名の海岸に静けさが戻ったころ、浜辺の中央に仮設の旗竿が立てられた。白地に日の印をあしらった旗が、湿った潮風を孕んで翻っている。
ここに、日本国の遠征艦隊の第三海外拠点「汎名駐屯地」が正式に設立された。
補給艦から運び下ろされた資材で、木製の兵舎、貯蔵庫、測量所が整然と建てられる。地形測量班は高台に上り、六分儀と望遠鏡を構え、海峡の形状、潮流、風向きを記録していった。
彼らはやがて、将来この地がどれほどの価値を持つかを思い知らされることになる。
明賢は司令棟に広げられた地図を指でなぞりながら、部下たちへ静かに命じた。
「ここに残る先遣隊は百五十。指揮は清助の弟子、源太が取れ。任務は三つ――」
彼の声は落ち着いていたが、その一言ごとに、部屋の空気が張り詰めていく。
「一つ、この地に拠点を築き陸地を渡り対岸にも拠点を置き、周囲の村々と友好を保て。
二つ、太平洋と大西洋側の海峡を測量し、潮の満ち引きと海流を毎日記録せよ。
そして三つ――この地形を記録しながら、いずれ“海を貫く道”が作れるかを調査せよ。」
その言葉に、周囲の者たちはざわめきを漏らした。
「海を貫く……とは?」と誰かが尋ねると、明賢は静かに微笑んで答えた。
「大地を裂き、太平洋と大西洋を繋ぐ。船が陸を越える時代を、我らの手で作るのだ。」
――後に“汎名運河”と呼ばれる構想の、最初の一言であった。
源太は深く頷き、軍帽をとって言った。
「承知いたしました。殿下の命、この地にて必ず実を結ばせます。」
その日から、汎名駐屯地には昼夜を問わず測量の音が響き始めた。測定杭を打つ音、川底にロープを垂らす音、記録用紙を束ねる音――。熱帯の湿気と日差しの中、若い兵たちは汗まみれで働いた。
清助の工兵隊が組み上げた観測塔は、湾の入口を一望できる高さにまで達した。記録員は潮汐表を整え、日毎に流速を計測し、ノートには詳細な数字が刻まれていった。
一方で、明賢は次の遠征の準備に取りかかっていた。
「目的地は南大洋、副嶺島(フォークランド諸島)だ。南極の寒気に晒される地ゆえ、装備を一新する必要がある。」
補給艦から他艦艇に追加の防寒具、燃料、予備のボイラー、そして極地測量用の装置が積み込まれていく。
航路は複雑だ。赤道を越え、南アメリカ大陸を抱き込むように南下し、暴風圏を抜けねばならない。艦隊士官たちは、明賢の机上に広げられた海図を囲み、進路の一点一点を確認していった。
「汎名に残る者たちは、我らの帰りを待て。おそらく最低でも4ヶ月はかかるだろう。」
「殿下、お戻りの頃には、この地は立派な港になっております。」
源太の言葉に、明賢は静かに頷いた。
夕陽が赤く海を染め、港に停泊する補給艦の煙突から白い煙が上がる。
浜辺の木製の波止場では、兵たちが最後の荷の積み込みを終え、ロープを締めていた。汎名の空に、新たな旗が掲げられる。
――それは、太平洋と大西洋を繋ぐ夢の始まりを告げる旗であった。
こうして、汎名に先遣隊が残され、明賢率いる本隊は南の海へ向けて、次なる航海の準備を整え始めたのである。