第35話 教会も色々と忙しそうです
「いやはや、何ともはや、驚くよりありませんなあ」
男の軽薄な物言いに何かしら皮肉のようなものを感じて、エレオノーラは手にしていた扇子を投げつけた。顔を狙ったものだが腹に当たり、雑作も無く床へと落ちた。ブクブクと太ったその腹では僅かな痛みを起こせなかったに違いない。ギリと歯を食いしばる。
「拙僧に怒ってみたところでどうしようもないですぞ? ああ、焼き菓子を放るのは止めておくことです。拙僧は床に落ちたものでもへいちゃらにいただきますゆえ、肥えた豚の餌あさりをお目にかけることとなりますぞ? お嫌いでしょう? そういう滑稽物は」
ならばせめてその薄ら笑いを消し去りたいとエレオノーラは欲したが、しかしこの男は首だけになってもその表情を止めないだろうとも思う。それでも首にしてみるか……束の間を逡巡し、しかし茶に口をつけて己を抑えた。駄目だ。この男を殺せば教会を敵に回すことになる。
ヨアキム・ベック。
教会の東方司教であり、アスリア王国において中央司教区を管轄する男だ。王都および四侯爵領の教会関係者は全てが彼の部下であり、その影響の及ぶ範囲は広く大きく、そして深い。奇跡調査室との繋がりもあって、次の東方大司教に選ばれることは間違いないとされている。
そして、かつて“聖炎の祝祭”においてサロモンの火刑を指揮した男でもある。その功績によって教会内に台頭した人物なのだから、エレオノーラにとっては因縁浅からぬ相手だった。
「……今からでも何とかならないの?」
「ほう? 未曾有の戦果を上げた部隊をば、今一度孤軍として出陣させろと? やめておきなさいやめておきなさい。彼らは今や将兵たちの喝采を浴びる身ですぞ? 無理に出させれば何が起こるかわかったものじゃありませんな。もとより親衛団への命令権を貴女はお持ちでないのですぞ? ね? やめておきなさいな」
表情のいちいちが、仕草のいちいちがエレオノーラには不快だった。肉をたゆませ汗を散らし、あまつさえ小娘のように口先を尖らされた日には殺意を持つなと言う方が無理だ。衝動的に銀食器の小刀を手にしたが、それは背後から伸ばされた手に止められた。
「いけないよ。エレオノーラ。それはいけない」
「……わかっているわ」
激情を呼吸する。ひやりとした夫の手に慰められて、エレオノーラはゆっくりと己を鎮めていった。ベックと会うに際して夫を伴ったことは正解だったと思う。肝心な時にそっとついてきてくれる彼の存在は、エレオノーラにとって無くてはならないものだった。
「夫婦睦まじい様子というのは、いいですなあ。神の御加護を形として見る思いです、ええ」
「……お前はその職になくとも妻帯などできないわ」
「いやいやいやいや、醜男には醜男なりの結婚があるものですぞ? そうでなければ、そもそも拙僧がこの世に生を受けることができませんわな。つくづくもって世界とはよく創られておりますなあ。拙僧が在ることがそのままに神の証明であるのですから。いやあ、素晴らしい」
鎮めた途端に込み上げる怒気を、エレオノーラは夫の手の平を意識することで耐えた。このベックという男は何としても鼻もちならない。出会った頃はそうでもなかったように思うが、あの火炙り以降というものは何をつけ上がったものか毎度この調子である。その男が教会の窓口として王都に住み着いていることはエレオノーラの不幸だった。しかし教会の人事に介入することはたとえ王であってもできはしない。
教会とは大陸第三の勢力にして、歴史を紐解けば大陸最古の勢力でもあるのだ。
アスリア王国にしろエベリア帝国にしろ、教会の顔色を窺わずに権力を振るうことはできない。小国が乱立していた大昔から教会は在り、西における覇権の確立についても、東における王権の樹立についても、どちらについても多大な貢献を為すことで両国の国教と成り得たのだ。彼らの歴史から見れば王国も帝国も大陸の新参者に過ぎない。
しかし、腹が立つものは腹が立つ。エレオノーラはグラグラと煮えくりかえる腹に茶を届け、再び目の前の豚を糾弾すべく呼吸を整えた。彼女は怒っているのだ。
「帝国軍を使うことはできないの?」
「難しくなって参りましたなあ。親衛団についての情報、嘘を伝えたわけではなかったのですが……いざ蓋を開けてみれば嘘も嘘、大嘘となりましたからな。随分と文句も出ましたし、態度も頑なになってしまったそうです。あちらはこちらほど教会をご信頼をいただいているわけではありませんので……ね?」
チラリと舌など出す様がおぞましかった。しかし言葉の内容については納得もするエレオノーラである。かつて亡国の危機にあって教会の助力を得た王国に対し、帝国はといえば完勝を目前にして教会に敵対されたのだ。大陸騒乱の罪は全て魔人にあると教会が宣言し、それをもって休戦が成ったわけだが、だからと言って帝国が教会への信頼を回復する理由にはならないだろうと思う。
「……ふん、帝国軍も情けないものね」
「まったくもって、仰る通りですな。まあ同情すべきところもございますがねえ」
「そんなもの……どこにあるというの」
そう言ったことを即座に後悔したエレオノーラである。目の前の男が、豚が司教服を着ているような生き物が、その目に愉悦の光を灯したことを察したからだ。
「そりゃあ、ありますとも! 拙僧は同情してやみませんぞ、ええ!」
唾が飛ぶ。エレオノーラは鳥肌を立てた。
「魔人によって皇太子をはじめとして、有力貴族、有力武将、精鋭部隊と尽くを殺されたのですぞ? それが健気にも十数年をかけて軍事力を再建して、往年のモノに比べれば非力なそれをいじましくも整えて……そこからはまあ、畏れ多くも王国へと弓引いたわけですが……それにしたって大変な努力を費やしてきたのです。それがまさか、こんな形で出鼻を挫かれるとは夢にも思っていなかったでしょうなあ! しかも、王族を旗頭にする軍による一撃なのですから、これはもう悪夢でしょう! ええ!」
捲し立てる豚は随分と楽しそうだった。
「教会としましてもね? これはちょっといただけない事態なのですぞ、王女殿下! 確か拙僧はご忠告いたしましたねえ? 他のことならともかく、前線の事情については拙僧に相談もなく何事もしてくれるなと! 言いましたね? 言いましたとも! それがどうです!? 親衛団を行禍原で潰そうなどと謀略の真似事をなさった結果、貴女の望みとは正反対のことが起きてしまいましたねえ!」
目の前の怪物が大きく見えていた。いや、世界が怪物の側に閉じていくのか。
「親衛団など適当に誹謗中傷の的にしておけばよかったでしょうに! それが今や王国の英雄部隊で、帝国の最も警戒するところの部隊と相成りました! 会戦への流れは乱れに乱れ、帝国は教会への不信を強めました! 迷惑な話ですねえ、エレオノーラ第一王女殿下! 貴女のつまらない意地が戦争を予測不能のものへと変化させてしまったのですぞ!」
突き出されたそれは何だろうとエレオノーラは思った。それは指輪に飾られ、肉の詰まった、豚司教の人差し指だった。
「パウリーナ王女殿下を随分とお嫌いのようですが、その感情の解消を前線に求めることはお止めなさい。これは教会からの要請です。どうにかしたいのならば国内の安全な所でおやりなさい。手伝いやしませんが、いま少し上手にやることを拙僧はお薦めしますぞ? 短慮にもほどがありますからなあ」
前線砦へ潜ませた暗殺者はこちらで始末しましたぞ、という言葉を遠く聞く。エレオノーラは自分が座っているのか立っているのかもわからなかった。ただ夫の手の温度だけが確かなものだった。すがりつく。この手を離せば恐ろしいどこかへと落ちていく気がした。
「まあ、あの御方が目障りという点については教会も意見を同じくするところですから、日常の中でのなさりようについてはよろしいでしょう。協力もしましょう。しかし嫌がらせ程度にしておくことです。孤立させればそれで済む話なのですから、まあ、好んで血生臭くなることもないということです」
最後にズズっという音がした。茶をすする音だ。同じ無作法でも豚ならば舌でビチャビチャと舐めるのがお似合いだと思い、そう罵りたいと欲し、エレオノーラは椅子に座る自分へと回帰した。背に嫌な汗が流れた。
「そういえば、面白い話を聞きましたぞ?」
開いた口が言葉を発する前に、ベックがさらりと言った。目には好奇の光がある。
「今回の開戦を前にして、帝国から教会に非公式の質問状が届いたそうです。その内容が痛快でしてな。何と勇者伝説における虚偽部分、脚色部分についてその箇所を明確にせよというものなのです。そして本当のところを教えろという。いやはや、何とも罰当たりな質問ですなあ」
エレオノーラの視界がグニャリと歪んだ。気付けば叫んでいた。
「虚偽などあるものか! 脚色などあるものか! 勇者様は正しく勇ましく戦ってくれた! 優しく誇らしく王国の未来を救ってくれた! それを皆が……皆が寄ってたかって殺したのよ!! 誰も彼も勇者様を助けないで、危険なところへ押しやって……私から遠ざけてしまって! そして殺してしまった! もう会えなくしてしまった! それが本当でなくて何が本当だと言うのか!!」
立ち上がっていた。愚かな肉の塊を見下ろして、続けた。
「私は許さない。何もかも許さない。帝国だけでなく、王国もおぞましい。勇者様より先に死ぬべきだった者たちがのうのうと生きていることが耐え難い。貴族も、下民も、誰も彼も……勇者様がその命を犠牲にするほどの、いかばかりの価値もない! 皆、皆、燃えてしまえばよかった!!」
耳鳴りがしていた。頭痛がしていた。それに眩暈も混ざって、何もかもがグラグラとして境目がなくなっていた。それでも胸と頬とを熱する怒りがあって、エレオノーラは止まることをしなかった。
「帝国は……帝国は罪深い。滅ぼさなければならない。勇者様を貶める不信心をなしたから、燃やしてしまわなければならない。そのためになら、私は敢えて待ちましょう。勇者様がいない戦場になど興味はない。ただ結果だけがあればいい。もう口を出しません。ただ勝利だけを望みます」
肩に手が添えられたのが分かった。夫だ。エレオノーラはその手に身を委ね、椅子に優しく座らせてくれたことを嬉しく思った。
「パウリーナは……あの子はもっと苦しまなくては駄目。あの子の罪は帝国のそれと変わらない。何も知らないくせに……私がどれほど苦しんだか、どれほど悲しんだか、何もかも知りもしないで……それなのにあんな風だから……苦しめないと駄目」
エレオノーラの脳裏に蘇る風景があった。聞こえてくる音があった。
幼いパウリーナと遊んであげた記憶だ。いつも呆として生きたぬいぐるみのようであったその末姫を、エレオノーラは嫌っていなかった。むしろ好いていた。すぐ下の妹と異なり口答えをしないし、どんな話であれ素直に聞いているので気持ちが良かった。たくさんの話を聞かせていた。話したいことは幾らもあったのだ。多くが勇者との思い出話だった。
けれど、それはエレオノーラに対してだけの態度ではなかった。誰の話もよく聞く子だった。父王の話も、すぐ下の妹の話も、侍女の話すらも、何でも大人しく聞いていた。聞き流しているわけではない。静かに集中して聞いているのだ。自分の意見を挟まず、ただ、話される内容をそのままに呑み込んでいるようだった。
だからエレオノーラは聞いてみたくなったのだ。パウリーナの話を。彼女の考えを。エレオノーラとは意見を異にする者たちの話も受け入れていたその子に、まるで審判を求めるようにして、己の正当性を追認させようとしたのだ。当然のことだった。パウリーナと最も多く話していたのはエレオノーラなのだから。
しかし、パウリーナから聞こえてきたのは、期待していたものとはまるで違う答えだった。
「民は気持ち悪くない。生活してるだけ」
「着ている服が違くても人は人。食べて寝る。一緒」
「良い戦争なんてない。戦争は戦争。きっとそれだけ」
そうじゃないと、あなたは分かっていないと、そう言って聞かせてもただ受け止めるだけで、パウリーナは自分の意見を言い直すことはしなかった。そして、エレオノーラは聞いてしまったのだ。その質問を。たった1つの同意しか望んでいない、その質問を。
「勇者も魔人も、きっと同じで、人。良いも悪いもない。勇者を殺したのが帝国で、魔人を殺したのが王国ってだけ。でもどちらが大事かといえば、魔人。だって魔人がいなかったら私は産まれてこれなかったから。美味しい食べ物を食べられなかったから」
許せるものではなかった。
そして同時に、怖かった。
エレオノーラの信じるものを、パウリーナは何もかも信じていない。信じていないことで却って逞しい。強い。それがエレオノーラには理解できなかった。理解すれば自分が壊れるとすら感じた。だから理解しようとしないで……排除するしかないのだ。自分が自分であるために。
「そう……駄目よ。あの子が苦しまないと、私が苦しいの。だから方法を考えるわ。今は少し疲れてしまったけれど……きっと考える。あの子が苦しくて生きていけなくなるような、そんな方法を……」
視界が暗かった。ただ背中に暖かなものがあった。その体温に慰められて、エレオノーラは夢に落ちていった。それはとても気持ちの良いものだった。包まれるようにして暗闇に落ちきる、その最後の一瞬に、誰かの声が聞こえた気がした。冷たい声だったから、気のせいにして忘れることにした。それはこう言っていた。
「こんなところか。後は宜しく。面倒をかけるなあ」
エレオノーラはその言葉を忘れた。