第39話 黒蛇はこの月夜に何をか
星は方角を知らせる。月は夜にも光と影を生む。
原野に散在する灌木の陰を見る。変化の多い起伏の陰を見る。流れる雲が繰り返し変化させていく明部と暗部とを見つめ続ける。戦に塗れた地はこの夜に静けさを装っているが、そんなものは人の思い一つですぐさま正体を暴かれる。血風吹き荒ぶ地と成り果てる。彼はそれを知っている。
丘の上に騎馬の孤影を晒して、テレンシオ・バルセロは温めの夜気を呼吸していた。麾下の部隊を伴わない単騎行である。バルセロは月夜にそれを行うことを習慣としていた。一応の目的としては戦場の偵察であり、地形を詳細に確認していくことは彼の軍略を支える重要な行為でもある。
それは半ば自動的に行える作業だった。意識の表層に情報が流れていき、淡々と整理整頓され、記憶されていく。呼吸や鼓動と同じだ。彼にとって戦争とは生活であり、馬とは足だった。槍とは爪であり、部下とは身体だった。だから彼は生き生きとしていた。十数年ぶりに実のある生活をしているのだ。
行禍原は絶景だった。
独り月下に佇みながら、バルセロは楽しんでいる。頭には幾つも戦術が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていく。騎馬で疾走する風も、部隊としてぶつかっていく感触も、ただこうしているだけで自然と多くが想像される。この原野に支払われた血肉の量がそうさせるものか。バルセロは戦争の妙気とでも言うべき何かを感じ取っていた。見渡す全てが彼の舞台であった。
ふと何かを感じて、バルセロはその顔を東へと向けた。うねるような起伏と疎らな草木を越えた先には敵国の領土が広がっている。かつてはその半ば以上を踏み荒らした土地だ。その頃の彼は帝軍大佐で、三千騎の騎兵連隊を率いていた。暴れ回ったものだ……バルセロの口元には僅かに笑みが表れた。
地を調べ、人を読み、軍を叩く。バルセロの率いる三千騎は王国領のいたるところに出没し、被害を及ぼしてはどこへともなく消え去った。常に孤軍だった。遊撃部隊と言えば聞こえはいいし、実際のところその役割を十二分に果たしたものだが、それはバルセロが生き残るために戦った結果に過ぎない。
彼の部隊は帝国軍の厄介物だったのだ。大軍の一端に加わることも許されず、常に地味で面倒な戦地を転戦させられていた。しかも補給がままならない。現地調達を努力せよと口頭で言われたことも度々だ。未だ戦力を残す敵地のど真ん中で、食う物も休む場所も与えられず、ただ戦えと命じられたのならば……敵の補給線を荒らすより他に術もなかった。
村や町を襲うことはしなかった。慈悲や潔癖によってではない。彼の騎兵は速さを信条しており、敵部隊を翻弄することこそ得意だったが拠点攻撃に向かなかった。孤軍であることがその傾向に拍車をかけていた。村を襲って落とすまではよしとして、必要な物資を集める間に退路を断たれれば立ちゆかなくなる。効率と安全を考えた結果として、バルセロはむしろ王国軍の輸送物資を狙ったのだ。必要な物が集積されているそこを狙う。狙い続けた。そしてあの男と出会ったのである。
サロモン・ハハト。
アスリア王国義勇軍を率いた男だ。その後は敗残兵などを寄せ集めた軍を編成し、一個の強力無比な戦力に仕立てて帝国軍を苦しめ抜いた。最後には帝国軍に壊滅的な被害を与えて侵略を挫いたのだから、その功績は王国にあっては比類ないものであったろうとバルセロは思う。帝国にとっては絶望の象徴であり恨み骨髄といった相手だから、その刑死の報は広く歓喜で迎えられたものだが。
バルセロの知る限り常勝無敗の将軍であり、最も恐るべき敵であり、同時に最も心躍る相手でもあった。彼とサロモンとはよく似ていた。個人としての人柄がではない。それを知るほどに平和な関係ではなかった。軍だ。互いの率いる部隊の性質が似通っていたのだ。
軽騎兵を重視し、機動力をもって広く戦場を利用しようとする点も似ていた。徹底的な統制でもって部隊を管理する点も似ていた。勝利のためであれば手段を選ばない点も、運を天に任せるような無謀を嫌う点も似ていた。何より、どちらも孤軍だった。一つの失敗が死に直結しかねない悲壮を抱えていた。
そして、華やかさとは無縁の戦地を己の仕事場としていたところも共通していた。帝国軍の花形といえば皇太子率いる近衛軍であったし、王国軍の花形といえば勇者率いる特戦軍であった。バルセロもサロモンも、彼らが名乗り合い戦うような歴史的舞台からは弾かれていた。どちらも日陰者だった。だから三度もぶつかることになったのだろうとバルセロは振り返る。
サロモン軍は強かった。三度とも明確な勝敗のつかない決着であったし、その後や全体を鑑みれば不利益の大きい結果ばかりだった。戦略的視野では彼の及ぶところではなかった。しかし戦術面においては互角であったし、それが彼の撤退に終わったのは戦地が王国領であったことが影響している。地の利はサロモンにあったのだ。バルセロは原野の風景にそれを意識していた。
ここで……行禍原でサロモンと相対したならば……さて、どうだろうか?
バルセロの目には義勇軍の軍旗が幻視された。そこの陰から出てきたならば、どうか。あそこの丘から駆けてきたならば、どうか。どう変化し、どう応じ、どう分け入って、どう切り裂くか。月明かりの行禍原には三千騎と三千騎とが目くるめく機動戦を展開していた。バルセロは自分が手信号を繰り返していることに気付いた。しかしどちらの軍の手信号であるかが定かでない。ややもすれば、サロモンとなって己の軍を撃破している自分がいた。我ながら唸るほどの戦術だった。
この十数年がバルセロにそれをさせる。可能たらしめる。三度の戦いで脳裏に焼き付いたサロモン軍の幻像が、恋焦がれるほどの熱意でもって再生され続けるそれが、夜闇の中で何度となく立ち現れては夢幻の戦闘をバルセロに戦わせるのだ。その戦いの中で、バルセロはしばしばサロモンであった。彼の戦術の先に未知の戦術を駆使していた。それは芸術的なほどに鮮やかな戦術だった。
彼はベルタを笑わない。ベルタがたった一つの突き技に没頭することを笑わない。それが成果を生んでいるからではない。彼もまた同類だからだ。バルセロはある意味で常にサロモンと戦ってきた。サロモンを戦術的に打倒することばかりを希求してきたのだから。
そして、練磨した技術をぶつける相手を失っていることもまた、同じだった。彼が己の全てを賭す価値を認めたところの敵将は、あろうことか、敵国の手によって殺されてしまった。その事実をバルセロは憮然とした気持ちで受け止めるばかりだ。己でも整頓できない心の複雑がある。
ベルタはサロモンの刑死を「王国の愚行」と断じていた。仇を失った彼女の遣る瀬無さは、何かしら歪んだ形でもって、アスリア王国そのものへの蔑視に繋がっているようにバルセロは思う。
分からないではなかった。実際、バルセロは背中に明確な死の気配を感じながら逃げたものだ。皇太子たちが掃滅された直後、行禍原以東の戦力比は馬鹿げたものになっていた。バルセロは己の部隊の何十倍もの敵に追撃される気持ちで行禍原を西へ横断したのだ。サロモンの影に怯えながらの逃走だった。それがどうだ。いつの間にやらサロモンは魔人と認定され、薪の一本として燃されてしまった。追撃部隊も行禍原を越えてくることはなかった。命拾いをしたのは己ばかりではないとバルセロは思う。
ベルタにとっては王国の愚かにしか見えないそれを、バルセロはしかし違った角度で見ている。他人事ではないと感じているのだ。サロモンの死は衝撃的で、バルセロに己の軍人人生の結末を予感させるのに充分な毒を含んでいた。
何と虚しい話だろうか。バルセロが命を拾った安堵の次に感じたのは虚無感だった。戦場を駆ける人間にとっては悪夢のような最後だ。権力、宗教、大衆……軍に生き軍に死すことを欲するバルセロにとって忌避すべき諸々が、手と手を取り合って、傑出した将軍を殺しにかかったのだ。その殺意がどうして己に向けられないと思えようか。バルセロはサロモンと己とを重ねて見るところがある。
何故なら、彼は随分と前から帝国の厄介者である。彼の部隊が冷遇されるのは、彼個人が冷遇されているからに他ならない。原因が原因だから、誰にもそれを止められない。どうしようもない。
帝国軍人テレンシオ・バルセロは、エベリア帝国皇帝ライムンドにより忌み嫌われている。
それは公然の秘密として広く知られていることだった。理由については諸説もあるが、バルセロ自身としては皇妃との密通という噂が特に好むところだった。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、却って愉快に思えたのだ。何かの折に話題がそれに及べば、敢えて意味深に笑んで見せることもある。
真実には色気など微塵もない。彼は皇帝の庶子を一人殺した。それだけだ。
妾の子ながら、父である皇帝にその軍才を愛された男子だった。嫡子よりも年長ということもあって、行く行くは将軍として弟を支えることを期待されていた。母方の血筋に家格が足りないから、あるいは新しい公爵家を立ち上げることくらいはされたかもしれない。溺愛と言って差し支えなかった。それでも帝位継承権を与えなかった辺りに、皇帝ライムンドの賢明があるようにバルセロは思う。
部隊を率いても優秀で、実戦こそ未経験だったが調練では並み居る将軍たちを相手に無敗を誇っていた。引き分けも多かったがまず負けることがなかった。それを実力と見るのか、それとも将軍たちの気遣いと見るのか。意見の分かれるところではあったが、皇帝の峻烈がそれを曖昧のままには済まさなかったのだろう。あるいは若き彼自身にも思うところがあったのかもしれない。
彼の資質を試すために、本気で相手をするよう言付けられた男……それがバルセロだった。当時は帝軍大尉として軽騎兵二個中隊五百騎を指揮していた。
一個中隊二百五十騎ずつを率いて、二人は対決した。槍の変わりに同じ長さの木の棒を用いての模擬戦だった。バルセロは手加減をしなかった。そう命じられていたし、そもそも手加減をしてそれらしく見せるには相手が狂猛に過ぎた。実力もあったが、何よりも必死だったようにバルセロは思い返す。明らかな殺意でもってバルセロに襲い掛かっていた。
だから、容赦のない一撃で突き崩した。軽騎兵の機動戦闘とはただ速ければいいというものではない。いかに穿ち、いかに遮断し、いかに切り広げるかだ。バルセロは相手の勢いを逆手にとって先頭を崩したから、文字通りに何騎もが吹き飛び、その中には指揮をとる若者もまた含まれていた。
その時は、呆けたような顔をしつつも、言葉少なに敗北を認めていたものだ。皇帝もこの敗北を糧とするよう諭していたように思う。彼の名誉のため対決は他の将軍たちに秘されていたから、バルセロは参加した部下たちとともに守秘を誓わされた後、ただ退いてその日の仕事を終えた。酒代が出ていた。
そして訃報を聞くこととなる。打ち所が悪かったのだ。骨折こそなかったものの、落馬した際に頭を強く打ち付けていたらしい。公式には病没という発表がなされたが……その日を境にしてバルセロは軍内での出世街道から外れた。それでも最高で帝軍大佐まで昇進できたのは、バルセロがそれだけの戦功を積んだからに他ならない。危険な任務の尽くを成功させた。実力でのし上がったのだ。
しかし、今は降格して帝軍中佐としての日々を送っている。皇太子が討たれる一方で逃げ帰った者として糾弾されたからだ。そもそも別働隊としてその現場にいなかったのだから、それは何とも乱暴な理由ではあった。しかし軍上層部が好意的に動いた結果として、降格だけで済んだくらいのものなのだ。一時は処刑という言葉も出たという。誰が言い出したかは定かにされていないが、バルセロはそれを言い放った人物の顔を思い浮かべることができた。二人目ということだろうか。立場上の心理も分からなければ、子を失った親の心理などはバルセロに分析できるはずもなかった。
吐息が風に流されていく。
白々とした月明かりはいつしか戦人を回顧の迷い路へと誘い込んでいたようだ。馬首を西へ戻そうとして、しかしバルセロは再び東の彼方へと視線を投じた。やはり何かが彼を引きつけるようだった。
「マルコ……か」
サロモンを思い、皇帝の庶子をも思った月光の迷宮は、その名を持つ少年によって誘発されたものだったのかもしれない。バルセロはそう思い至った。
マルコ。14歳の少年騎兵。王国の村人であり、第三王女への献身からその親衛団に所属することとなったと言われる者。“火撃”の騎兵隊の内の一騎。そして……サロモンの槍技を使うかもしれない人間。
何者だろうか。バルセロは関心を持たずにはいられない。
第三王女親衛団の物凄まじい戦果……その要であるところの軽騎兵隊の中に、団長アクセリ・アーネルはいなかったと知れた。ならば戦果は偶然か。それとも軽騎兵隊の中にこそ真の指揮官がいたのか。後者であるのなら、その指揮官こそはサロモンを継ぐ者だ。戦術まではまだ分からないが……サロモンの戦略を継ぐ者であることは間違いない。それだけの戦果だ。あくまでも、狙って成したならばの話だが。
バルセロは独り黙考する。
答えは得られそうもなかった。仮定が多すぎるし、サロモンに囚われている自分を自覚してもいた。死者を思い過ぎることは避けなければならない。しかしわだかまる思いを消し去れない。バルセロはそんな自分に驚いていた。何かしら若返ったような気がした。まるでかつての戦乱の時に立ち返ったかのようだった。
東を見ていた。
未だ夜が支配するその景色の先に、立ち昇ってくる陽の気配を感じ取っていた。