51 まったく。うちの嫁は肝が据わっている
「……なんか、特に最後。すっごく嫌な感じだった。名前とか聞いてくるしさぁ。あれ、なんなの私が竜だってわかって聞いたってこと?」
「いや。おそらくはあの場にいる人間の名を把握したかった、というだけではないか? そう深く考えるな」
「考えるよ! 考えるに決まってるよ! あんな……目を見ればわかるとか、なんというか気持ちが悪い……」
「いや、あれは……うむ。はっはっはっは」
わなわなと震わせた自身の手を見ているエルナに、クロスは腕を組んだまま足を広げて座り、朗らかに笑っている。
「なんで笑ってるのよ……」
「なぜと言われてもなぁ。まったく、うちの嫁は見ているだけで愛らしい」
「嫁ではない婚約者……というか、とうとうさっき妻とも言ってたよね!?」
「ほぼほぼ間違いではないだろう」
「間違いないけど正しくはまったくないよ!」
「あ、あのう……」
エルナの隣では、心底居づらそうにノマが小さくなって座っている。
エルナとクロスの会話を聞くまいといった顔だが、距離的にそんなわけもいかず膝の上にのせた手がぶるぶると震えている。
「私、ここにいていいんでしょうか……別の馬車に行った方が……」
「行きよりも護衛の数を減らしている。何かあったときのことを考えれば、一挙に固まっていた方が対応しやすい。特に今はな」
気にするな、と最後に端的に伝えてクロスが目を細めると、ノマはさらに居場所がなくなったかのように、「ひゃいぃ……」と舌を噛むように返事をしていた。気の毒である。自国の王とこれほどの狭い空間で一緒にいることなど、ストレス以外の何者でもないだろう。
そう、現在エルナたちはクルッシュメントの街を立ち、自国ウィズレイン領へと馬車で移動の最中だ。無事に、といえばいいのかどうかは不明だが、帝国との会談は終了した。これ以上あの場に残る必要もない。
『また、機会があったらぜひ! 絶対にマールズに来てねぇ!』とカイルは寂しそうに服の袖を振って見送ってくれた。寂しさと安堵の気持ち、その両方を抱えて馬車に乗り、ここまで来たわけなのだが。
「……ノマ、寝ててもいいよ?」
「も、もっとできないに決まっているわ!?」
せめてもの思いやりのつもりが、中々難しい。
ノマはささっと体を丸めて目を閉じ顔を伏せ、両耳に手を当てた。これ以上の会話は盗み聞きしません、という意思を表しているのだろう。エルナとクロスはそっと視線を交わして苦笑する。
まあ、まだまだ先は長い。きっと慣れてくれるだろう。
「結局、帝国は何がしたかったんだろうね。こんなところまで呼び寄せておいて、本当にこれだけなの? まったく人騒がせな……」
「なんにせよ、賠償金についての話がまとまったことは重畳だ。これでも譲歩をしたが、必要以上にあちらを興奮させる必要はあるまい。貸しを作っておくに越したことはない」
「貸し、ねぇ……」
「あとは竜についての噂を気にしていたというところが、多少気になりはするが……」
うむ、とクロスは考え込んでしまった。エルナは妙な沈黙に手持ち無沙汰になってしまったが、隣を見てもいまだノマは耳に手を当てたまま黙り込んでしまっている。
ふと、思い出したことを語った。
「……そういえば、あそこの弟。ランシェロだったかな。『血の皇帝』と、兄が呼ばれているからか、ずっと怯えていたけど、いつもああなんだろうか」
ウィズレインの王族とは大違いだ、と言外に込める。
「……さて。俺には逆に、挑発しているように見えたがな」
「挑発って、どこが?」
「本当に怯えているというのなら、口を開くことすらすまい。あえてあのように振る舞っているように、俺には見えたぞ」
「そうかな。そんなものかな……」
自分の方がクロスよりも長く生きているはずなのに、と拗ねるような気持ちで髪の先をいじった。そうした後で、結局自分は十七の小娘であることを思い出して、また頬を膨らませる。
(私は……こいつの、クロスの役に立ちたいだけなんだけどな……)
結局今回は出番はなしだった。
争い事があるよりも、そちらの方がいいに決まっているが。
「……ん? そういえばリゴベルトも、ランシェロも、両方とも赤目ではなかったね」
「なんのことだ?」
「ほら、街で一度、帝国の紋章がついた王族専用の馬車とすれ違ったでしょ? そのとき、一瞬だけ赤い目が見えたんだよ。だからてっきりあちらの王族は赤目だと思ったんだけど……」
髪の色は赤くとも、瞳は深い黒色だった。ヴァイドみたいだった、なんて心の端でも思ってもやらない。
「赤い目が……? まったく気づかなかったな。気の所為ではなくてか」
「うん。視力には自信があるから」
「野生の動物ほどに聴力がいいハルバーンと組み合わせれば最強ではないか」
「わ、私は耳だっていいよ! 多分!」
「なぜそこで張り合おうとする?」
馬車は会談が行われたクルッシュメントの街からは、もう随分走っている。そろそろ休憩だろうかと窓の外を見ると、道沿いに深い谷が見えてどきりとする。道を踏み外せば大変なことになってしまうと考えると、自然と座る場所は少し反対側に寄ってしまった。
「……マールズは国土が小さい分、精霊からの恩恵も少ない……とは言っていたけれど、実際は少し違うよね」
わずかに距離をあけたまま窓の外を見つめ、ぽそりとエルナが呟く。道幅は十分あるが、心持ちゆっくりと御者が馬を走らせている。
精霊は自然を好み、その周囲に住む。もしくは精霊自身に好かれる人間もいる。精霊を視る目を持たないため気づいてはいないだろうが、実はクロスは後者の側だ。だからこそウィズレイン城には精霊が多く集まる。生前のヴァイドもそうだった。
マールズ国は自然豊かとまではいえずとも、精霊が好む森はそこかしこに点在している。しかしそこに精霊はいない。なぜなら、多くはヴィドラスト山周辺の森に生息しているからだ。
多くの精霊が住まい、足を踏み入れたものは惑わされ帰されると伝わる迷いの森。エルナルフィアとして——竜として訪れたことはないが、それは過去の記憶の中にある逸話だ。
とはいえ、時代の変化の中で人々は少しずつ領地を増やし、今では迷いの森すらも足を踏み入れるほどと聞くが、それでも腕のある精霊術師が作った道を慎重に渡らねばならないだろう。
ヴィドラスト山に訪れるためには、この深い谷と渓流を越え、さらに下降して、迷いの森を通り抜けなければならない。
山をすぐ越えた向こうはウィズレイン王国だが、帰りの馬車はこのまま川に沿うように下り、さらに山を迂回する必要がある。面倒ではあるが、この山があるからこそマールズとウィズレインの国境はできたともいえる。
空を飛ぶことができれば楽なのにな、とふと前世の記憶と空の色を思い出した。
ひゅうひゅうと吹く風の匂い。温かな光。祝音のように響くガラスの鱗がこすれる音……。
エルナはゆっくりと目を閉じてふと口元を柔らかくさせる。懐かしい気持ちと、少しだけ寂しい気持ち。海のような深い空の中で、黒髪の男が笑っていた。——ああ、とまた目を閉じる。
次に目を開くと、整った容姿をした金髪の男が膝を組み、窓の外を見ていた。
「……ん? どうかしたか」
エルナの視線に気づき、クロスはわずかに微笑む。
はらはらと窓から降り注ぐ陽光が、クロスの輪郭を曖昧にさせる。
なんでもない、とエルナは首を横に振った。「そうか」と端的にクロスは応えたが、なぜだろうか。先程から彼の声を聞くたびに、耳の辺りがむずむずする。多分、ちょっと赤い。
「陛下の……お声が……甘すぎます……」
「の、ノマ……耳を塞いでたんじゃ……?」
「いくらなんでも限界があるわよう、限界が……なんでもない言葉なのに……もう、お声に愛しさが溢れていて……ううう」
とってもとっても、別の馬車に乗りたいぃ、どうか乗らせてぇ……と、両手で顔を覆ってすんすん泣いている姿を見ると、こちらもなんともいけない気分になってしまう。別に何をしているわけではないのだが。
「ねえクロス、もう少し離れたら、私とノマは別の馬車に……」
ノマの背中に手を添えてそこまで話し、エルナは鋭く視線を細めた。即座に窓に手を付き、背後を確認する。
「……クロス」
「わかっている。おそらく距離をあけてつけていたのだろうな。谷を走る際に速度を落としたため、あちらも車間を誤ったか」
「え、え、え?」
どういうこと? とばかりに混乱しているノマに手短に説明し、彼女の頭を無理やりに下げる。
「アルバルル帝国の馬車が、すぐ後ろにいる。何があるかわからない。ノマは隠れていて」
「で、でも……!」
「このまま走り続けるか。いや……この谷ではそれもできんな」
速度を上げたために馬が誤って足を踏み外し、崖の底へ真っ逆さま、なんてことになればいくらエルナでもどうしようもない。
帝国もエルナたちと同じくヴィドラスト山を迂回して帰路につく必要があるが、ウィズレインが西とするならば、帝国は東だ。すでに曲がるべき道は過ぎているために、偶然といった理由では説明できない。
「……いつ向こうが仕出かすかわからない。クロス、馬車を降りよう。攻められる可能性があるというのなら、タイミングくらいはこちらが選ぶ」
ふん、と冷たい瞳をエルナは帝国の馬車へと向けた。
「まったく。うちの嫁は肝が据わっている……」
苦笑するような言葉は、聞こえないふりをしておいた。