公女セレスティーナと道化の知恵 - 5
三日間の教えの、最後の朝が来た。
フィンはセレスティーナを町の門まで連れて行くと、そこでぴたりと足を止めた。
「俺が教えられるのは、ここまでだ」
彼の声は、いつもと同じようにぶっきらぼうだった。
「フィンさん……」
セレスティーナが不安げに彼の名を呼ぶと、フィンはわざとらしく、やれやれと首を振った。
「なんだい。まさか、この先も俺がついてきてくれるとでも思ったか? 言っただろ、俺はあんたの乳母じゃねえ。三日で生きる術は教えた。ここから先は、お前さん自身の旅だ」
「ですが、私は……」
「この先どの道を選ぶか、誰を信じ、誰を疑うか。腹が減ったらどうするか、追手に追われたらどうするか。……その全てを、あんた自身で決めろ。それが、あんたが求めた『自由』ってやつだろ?」
セレスティーナは、黙って頷いた。この三日間で、彼女はただ教えを乞うだけの生徒ではなくなっていた。
「最後に、一番大事な教えを一つだけくれてやる」
フィンは、彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「いいか。世の中にはな、キラキラして見えるガラクタが山ほどある。金、見栄、力……そういうもんだ。だが、そんなもんはすべてガラクタだ。本当に大事なもんを見失っちまう。……あんたは、自分の宝物を見間違えるんじゃねえぞ」
「私の、宝物……」
「ああ。誰かにとっての価値じゃねえ。あんた自身の心が、本当に温かいと感じるもんだ。そいつを見つけたら、何があっても手放すな」
彼はそれだけを言うと、懐から、彼女が昨日自分の力で手に入れた、あの歪なパンの半分を取り出した。
「餞別だ」
フィンが放り投げたパンを彼女はキャッチする。
「ありがとうございます」
「ああ。……その、何だ……」
フィンはポリポリとと頭をかいた。
「? どうかしましたか?」
「……いや! やっぱ何でもない。それじゃあ、達者でな、セレスティーナ!」
フィンはそうと言うと、踵を返してスタスタと歩き出した。
「フィン!? あ、あの! ありがとうございました!」
フィンは振り返らないまま手を振って答え、そのまま雑踏の中に消えていった。
(……初めて、名前を呼んでくれましたね、フィン。認めてくれた、ということでしょうか? ありがとうございました)
セレスティーナはフィンのくれたパンを一口かじった。それは少し硬かったが、彼女がこれまでの人生で食べた、どんな豪華な食事よりも、ずっとずっと温かい味がした。
彼女は涙を拭うと、顔を上げた。
ここからが彼女の、本当の旅の始まりだった。
彼女はフィンに教わった通り、隊商に紛れ込み、雑用を手伝うことで次の町へと移動した。町から町へと渡り歩き、酒場で働き、時には吟遊詩人の荷物持ちをした。
ある町の酒場では、酔った客に絡まれた。
「お嬢ちゃん、綺麗な顔してるじゃないか。一杯どうだい?」
かつての彼女なら、恐怖で凍り付いていただろう。だが、今の彼女は違った。
「生憎ですが、まだ仕事が残っていますので。それより、あちらの席で歌っている方の故郷の話は、聞きましたか?きっと、あなた様のお気に召すはずですよ」
フィンのように、人の興味を巧みに逸らし、その場を切り抜ける。多くの人々と出会い、多くの優しさと同じくらいの裏切りを知った。
何度も道に迷い、何度も無一文になった。だが、彼女はもう絶望しなかった。フィンに教わった知恵と、そして自分の手で価値を生み出せるという自信が、彼女を支えていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
まだ残暑の残る日のことだった。
西の街道から、一人の若い旅人が東門へとやってきた。その服装は質素だが清潔で機能的だった。その足取りは大地をしっかりと踏みしめ、その瞳は自信と、そして世界を知る者の穏やかな光に満ちていた。
ヨハンは、その姿が、かつて見送った「籠の鳥」であるとすぐに分かった。
「ただいま戻りました、門番さん」
セレスティーナはヨハンの前で立ち止まり、悪戯っぽく笑った。その笑顔は、かつての作り物のような微笑みとは全く違う、心からのものだった。
「おかえり、嬢ちゃん。……ずいぶんと、良い顔つきになったな」
「あなたに見送っていただけたおかげです。あの言葉を、ずっと旅のお守りにしていましたから」
「俺は何もしてはいないさ。全部、あんたが自分の足で歩いた道だ」
ヨハンの言葉に、セレスティーナは誇らしげに胸を張った。
「ええ。……あなたが言った通り、自由とは実に不自由なものでした。ひどく腹も減るし、足は棒のようになり、時には人の優しさが刃物のように思えることさえありました」
「……そうか」
「ですが、その不自由さの中で、私は初めて、自分の足で道を選ぶことの意味を知ったのです。それら全てが、紛れもなく私自身のものですから」
ヨハンは満足そうに頷いた。彼女はもう誰かに守られるお姫様ではない。自分の道を選ぶ、一人の人間だ。
「良い旅だったようだな」
「はい。最高の旅でした」
彼女は深々と一礼すると、王都の中へと、堂々と歩いていった。その背中はもう、誰にも追わせないだろう。
その姿が見えなくなるまで見送った後、ヨハンの脳裏に、ひときわ暖かな声が響いた。
《ピーン! スキル【見送る者】のレベルが42に上がりました》
《新たな能力『見送った者が、ほんの少しだけ道に迷いにくくなる』を【獲得】しました。
《旅人の偉大な成長を観測。獲得した能力が【強化】され、能力名が『見送った者が、自らの足で道を選び取れるようになる』へと変化しました》
「……自らの、足で」
ヨハンは、セレスティーナが選び取った、その道の未来に思いを馳せた。 本当の自由とは、何もない場所へ飛び立つことではない。自らが立つべき場所を、その不自由さの中で自分の足で探し出し、そこを「自分の道」と決める覚悟のことなのかもしれない。 ヨハンは、夏の高い空を見上げ、静かにそう思った。